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すっぱいブドウ

 窓から朝の光が射し込んでいる。目覚まし時計の針は七時五分前を指していた。眠れたのかどうかわからない。ずっと起きていたような気もするし、少しは眠れたような気もする。

 とりあえずはっきりしているのは、ひどく疲れているということだ。僕は着替えて、朝食をとりに部屋を出た。

 いつものように食パンにマーマレードをぬって、そのまま食べる。

 今日はいつもよりジャムを多めにしてみた。せめてもの糖分補給で頭がしっかりすれば。そんな思いで二枚目のパンを口にして、牛乳を飲む。

「今日も昨日と同じ時間に家を出るよ」

 母さんにそう伝えて、部屋に戻った。ドアを閉めて一人になると、僕はそのまま床に倒れるように横になった。今日はもう、一ミリも動きたくない。


 時間の流れは残酷で、どんなときも、誰にでも同じように流れる。今日みたいな日に、ゆっくり流れたり、止まってくれたりはしない。

 せめて、学校へ行く準備だけでもしっかりしなくては。時間割をひっぱりだして、教科書を鞄に入れた。準備をするのにも、いつもより時間がかかっているような気がする。もうそろそろ出かけないといけない。

 床に置きっぱなしの、昨日買った文庫本を手に取って、お守りのように大事に鞄に入れて、僕は部屋を後にした。


 昨日と変わらない光景。いつも通り定刻に電車はやってきて、僕はいつもの車両に乗る。座席に座って、ミュージックプレーヤーの再生ボタンを押す。ランダム再生で流れてきたのは、ビリー・ホリディのGloomy Sundayだ。今の僕にぴったりだ。自嘲気味にそんなことを思った。少し不思議なのは、iTunesにいつ取り込んだのかわからないことだけど。まあ、僕が憂鬱なのは日曜日だけじゃないけどね。たとえば今日とか。


 電車は一駅、また一駅と進んでいく。四ツ谷駅に近くなる度に、僕の手の汗はひどくなるばかりだ。乗客も増えて、車両も少し息苦しい感じだ。

「四ツ谷、四ツ谷です。お降りの方は忘れ物のないよう……」

 アナウンスが聞こえる。僕も降りないと。降りなきゃ。学校にいかないといけない。いかなきゃ。


「いきたくない」


 もしかしたら、自分で口にしていたかもしれない。僕は慌てて、周りを見回したけど、みんな僕のことなど気にしていない様子で、降りる準備をしている人や、座って楽しそうな話をしている女子高生、眠ったままつり革につかまっている人たちばかりだ。

 自分の「いきたくない」という気持ちに抗うのはやめにした。だって、足も動かないし、気持ちの糸がどこかで切れてしまったような気がしたからだ。

 電車は僕を乗せたまま、四ツ谷駅をあとにした。

 今日も、学校を休んでしまった。僕はビリー・ホリディを聴きながら、誰にも気付かれないように、小さくため息をついた。


 昨日と同じく、玉塚駅で降りて、私鉄へと乗り換えた。どこか楽しく時間を過ごせる場所があればいいけど、あいにく僕はそんな場所をいくつも知らない。

 ホームに停まっている電車に乗り込む。

 当然ながら、目的地は昨日と同じだ。今日はどのお店でお昼を食べようかな。本を買うとしたら、どの作家さんの本がいいかな。

 無理やりでも楽しいことを考えていたら、少しでも罪悪感から逃れられるような気がして、僕は思考を張り巡らせる。


 エスカレーターで四階に上がると、紙のにおいがした。僕はこのにおいが好きだ。ここの本屋は居心地がいいな、と昨日思ったけれど、たくさんの本が醸し出す紙のにおいのせいもあるのだろうか。

 図書館の本や、古本では味わえない、新刊のにおい。今日もここで、たくさんの本に囲まれている。うれしい。

 店員さんがダンボールの中から本を取りだして、陳列している。どうやら今日入荷した本もたくさんあるようだ。店員さんの邪魔にならないよう、後ろから平積みにされていく本を見ていた。

 毎日、新しい本に触れられるなんていいなあ。今日も文芸コーナーの端から順番に本を見ていくことにした。


 ざっとしか目を通してないけど、新刊以外の本は移動されていないようだ。まあ、昨日の今日だから当たり前か。

 シリーズものの最新刊、ネットで面白いと評判の本、まだ一冊も読んでいないけど気になる作家さんの本。ここは宝物の山だ。さっき、店員さんが作業していた新刊のコーナーをチェックする。今日は文庫の新刊が多いらしい。文庫のラインナップが新しくなっている。

 ふ、と僕の視線が止まった。好きな作家さんのが本を出していたらしい。ノベルスの出版社と違うから、チェック漏れがあったかな。本を手に取って奥付を見ると、今日付けの発行になっている。僕は迷わず手に取った。この本は購入用。お店で読む本はどれにしようかな、と。

 どうやら、僕も少しは図太くなったらしい。あ、神経の話ね。


 今日も一冊読了したところで、腕時計を見ると十二時を少し過ぎたくらいだ。お昼を食べにいくことに決めて、僕は本を棚に戻す。

 買う予定の文庫まで戻すのはお店に申し訳ないので、文庫を一冊買って、下りのエスカレーターに乗った。

 また本屋に戻って、買いたい本が見つかった時にレジにいきづらいけど、レジの店員さんが交代していることを祈っておく。今日読んだ本は、買わなくてもよかったなあ。

 新刊がすぐに借りられる図書館みたいだ。そんなことを考えたけど、頭を振ってそんなよこしまな思いは捨てた。座り読みさせてもらってる訳だし。本の一冊や二冊買わせていただきます。うん。


 お昼はどこで食べるか迷ったけれど、二階でコーヒーのいいにおいがしたので、惹かれるようにカフェの入り口の方へ足が向いた。

 自動ドアの前で、入るかどうか少し迷っていたら、ガラス越しにウエイトレスさんと目が合ってしまった。これは入らざるを得ないので、足を踏み入れた。

「いらっしゃいませ。一名様ですか?」

 はきはきした声でウエイトレスさんが訊いてきた。

「あ……。は、はい、一人です」

 緊張して、うまく返事ができなかった。僕の心臓はかなり音をたてて動いている。

「禁煙席でよろしいでしょうか?」

 向こうは僕とは正反対に、ハキハキとした明瞭な声だ。

「は、はい。大丈夫です」

 そう言うと、お店の奥の席に案内された。

「ご注文がお決まりの頃、うかがいます」

 ウエイトレスさんはそう言うと、別のテーブルへ食器を下げにいった。

 僕は接客の仕事は一生できないんだろうな。そう思ったら、口からため息が漏れた気がした。多分、換気扇でたばこの煙と一緒に外へながれていくんだろう。


「お待たせしました」

 注文したホットケーキとアイスコーヒーが運ばれてきた。ホットケーキは三枚重ねで、食べごたえがありそうだ。

 マーガリンとはちみつをぬって、ほお張ると口の中に甘い香りが広がる。美味しい。

 アイスコーヒーも僕がいつも飲んでいるようなものとは一味違う。香りがいいし、渋味がいやな感じではなく、アクセントになっている感じだ。コーヒーにはミルクをほんの少し、ガムシロップを少し多めに入れるのが僕の好みだ。

 ホットケーキをもう一口食べて、しあわせだな、と思った。


 お皿の上にはナイフとフォークだけになって、アイスコーヒーも残り少なくなった。このままお店を出てしまうのはなんだかもったいないので、さっき買った文庫本を取り出して、ぱらぱらめくってみた。

 そんなにぶ厚くないので、一時間ちょっとあれば読めそうだ。

「こちらのお皿お下げしてもよろしいですか?」

 ウエイトレスさんがテーブルに来てくれたので、二杯目のアイスコーヒーを注文した。

 自分から声をかけなくても、注文を訊きに来てくれたりするのは、都会だと当たり前なのかな。なんかすごい。僕は本を開いて、活字の世界に引き込まれていった。


 黙々と活字を追っていたけれど、少しざわざわした雰囲気を感じ取ったので、周りをみると、カフェはほぼ満席状態だ。僕は四人がけの机にひとりで座っているので、ちょっと肩身が狭い。

 本は七割くらい読めたから、もう少しなんだけどこのまま読了するまでいるのはちょっと図々しく思えた。僕はアイスコーヒーを一気に飲み干すと、レジに向かう。

「ありがとうございました」

 声を背中に受けて、僕はお店を出る。ウエイトレスさんは最後まで丁寧な接客をしてくれたけど、長居する客だと思われたかもしれない。

 確実なのは、アイスコーヒー二杯とホットケーキで会計が千七百円だったことと、そのお金で文庫本があと二冊は買えたことだ。


 三階と四階をつなぐエスカレーターの前にある広い踊り場で、僕は本の続きを読む。イスに座った時は、周りの目が気になったけど、スーツを着たサラリーマンの人が携帯ゲーム機で遊んでいるのを見て、ちょっと気分が楽になった。


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