ホームタウンデシジョン
月曜日、目を覚ますと雨が降っていた。雨の日は嫌いだ。傘を持って歩くのが苦手で仕方がない。誰かにぶつけたりしないか心配だし、傘を忘れないように常に意識しないといけない。
時計の針はまだ五時をさしているからやんでくれないかな。
僕は普段信じていないけど、いてくれたらうれしい神様に、雨を降らすのをやめてくださいとお願いしてみた。
いつの間にか寝てしまったらしい。時計を見ると、七時半になっていた。
特に急がなくても大丈夫だけど、なんだか今日は胸がドキドキする。大学にいきたくない。頭の中で声が聞こえたけど、それはダメだ。学校へいかないと。いかなきゃ。いかなきゃダメだ。僕は自分にそう言い聞かせた。
母の運転する車に揺られて、いつものように駅に着く。少し違うのは傘をもっていることだ。それだけなんだ。僕は改札を通って、三番ホームで電車を待つ。空がどんよりと曇っているせいか、周りの人も少し疲れているように見えた。
今日も変わりなく、電車は定刻通りにホームにすべりこんできた。
ドアが開く。電車に乗り込んで、座って一息ついた。ドアが閉まって、電車はいつものように動きだした。電車は一駅一駅、いつものように進んでいく。乗る人が多い駅、少ない駅、人数もほぼいつもと変わらない。違うのは、僕の心臓がいつも以上にドキドキしていることだけだ。
「次は四ツ谷、四ツ谷です」
アナウンスの声が車両に響く。駅で降りる人が準備をし始めた。僕も降りなければいけない。
今日は少し気分が乗らないだけ、ただそれだけなんだ。
何度も自分に言い聞かせたけれど、僕の足は床に張り付いたみたいに動かない。
「四ツ谷、四ツ谷です」
アナウンスが流れて、たくさんの人が乗り降りしている。
時間とともにドアが閉まった。
僕は動けないまま、まだ電車の中にいる。
どれぐらいそうしていただろうか。僕は鞄をひざの上に置いたまま、うなだれていた。いくつか駅を通過したらしく、窓の外は見慣れない光景が広がっている。僕は脱力感とともに、心の中で好奇心が渦巻いているのを感じた。
「つぎは玉塚、玉塚です」
次の停車駅で、電車を降りることを決めた。電車が予想以上に混んできたことと、何度かその駅で下車したことを思いだしたからだ。
電車がゆっくりと停まる。ドアが開くと、急いでドアの外に出て、ホームから人がいなくなるのを待ってから、大きく深呼吸した。少し、胸のドキドキが治まったような気がした。
この駅は、押本さんの家に遊びにいった時に降りたことがある。
私鉄への乗り換え駅でもあるので、利用する人も多い。このあたりまで来ると、ひしひしと都会だなと感じる。まず、土がない。四ツ谷あたりはまだ駅から田んぼが見えたりするけど、ここから見えるのはアスファルトと鉄筋コンクリートのビルだ。
電車で一時間も走っていないのに、これほどまでに景色が違うのは、笹川が田舎過ぎるだけなのか、電車のスピードが速いのか、いったいどっちなんだろう。
改札を抜けて、私鉄の駅へ向かう。数えるほどしか来たことがないから、駅の周りにはなにがあるかわからない。とりあえず、自分の知っている場所にいくことにした。
私鉄の駅も人が多い。改札を抜けて、ホームへと続くエスカレーターに乗る。
僕の左側を、エスカレーターを歩いて人が何人か追い越していった。どうやら、みんな頑張っているらしい。
ホームへ着くと、どちらのホームにも電車が停まっていた。どちらも、もうすぐ発車するらしく、音が鳴り響いている。僕は次の電車に乗ることにして、電光掲示板に目をやる。特急に乗っても料金がかからないのはいいな。せわしない空気が漂う中、僕はそんなことを考えていた。
電車がゆっくりとホームにやってきた。始発の駅ということもあり、電車に乗っていた全ての人が降りることになるので、電車を一本待てばほぼ確実に座れる。
慣れない場所だし、気分はアウェーだ。もういい年だし、迷うことはないと思うけれど、いろいろと考えだすと心配事はきりがない。
ホームに発車を知らせる音が鳴って、ドアが閉まった。電車が動きだす。また、胸がドキドキし始めた。ただ、ここまで来ると開き直っているのか、このドキドキ感は胸が高鳴っているような気もする。この高揚感はなんだろう。前にこんな気持ちを抱いたのはいつだったか。僕はそんなことを考え始めた。
私鉄は駅と駅の間が短い気がする。都会だから、停まる場所は多いほうがいいんだろうか。さっきから三分間隔で電車が止まって、走ってを繰り返している。
知っているのは押本さんの家に遊びに行った時に降りた駅くらいだ。あとは、終点まで行くと折り返し運転で、終点の駅は乗り換えの主要駅であることしかしらない。腕時計に目をやると、スクールバスの発車時刻はとっくに過ぎている。今さらどうにもならない。なんだか、少し力が抜けた。
車内のアナウンスが、次の北口駅が終点であることを告げた。周りの人は棚の上に置いた荷物を下ろしたり、降りる準備万端といった感じだ。
電車はゆっくりとホームに入っていく。左側のホームには折り返しでこの電車に乗る人でいっぱいだ。右側のドアがプシュー、という音とともに開く。みんな一斉に降りて、それぞれの目的地へ急いで歩んでいるようだ。
僕もとりあえず降りて、流れに乗って歩く。長い長いホームの先に、階段とエスカレーターが見えた。僕は迷わずエスカレーターに乗る。僕の左側を、歩いて抜かしていく人がたくさんいた。僕は多分、この駅の中でいちばんのんびりしている人間だろう。
エスカレーターで上り切ると、広いフロアに出た。乗り換える人は、路線ごとに下にあるホームへ階段で降りるらしい。
とりあえず、近くにあった大きな時計まで歩く。待ち合わせ場所にぴったりだな。そんなことを思った。
時計の周りに、背中からもたれかかれるよう柵がある。柵に体を預けて、僕は一息ついた。ハトが餌をさがして歩いている。一瞬、ハトと目が合ったような気がしたけど、ハトは高く飛んでいってしまった。やっぱりここはアウェーか。僕は小さく、ため息をついた。
駅の中には何軒かお店があった。喫茶店があったけれど、朝ご飯は食べてきたので、本屋に入った。スペースを有効活用しているのだろうか、本棚と本棚の間が狭く、人とすれ違うのに結構気を使いそうだ。
文芸書のコーナーで新刊をチェックすることにした。本棚の一番上から順番に視線をやる。ジャンルは純文学からミステリまで広く浅くといった感じだ。本のサイズで棚が違うらしく、僕がよく買うノベルスは見当たらなかった。
ハードカバーは高くて、なかなか手が出せない。面白いのかどうかもわからない作品に二千円以上出せるほど、僕の財布には余裕がない。
そんなわけで、ノベルスや文庫落ちした作品を買うことがほとんどだ。文庫のコーナーで新刊を探そうと思ったけど、向かいにコミックの棚があって、何人か人影が見えたのでそのままお店を出た。
どうも落ち着かない。
CDショップがあったので、入ってみたけれどこちらも狭いスペースの中に無理して商品を並べている感じがした。
試聴機で新譜が聞けるみたいだったけど、座るところが細いバーに気休めのクッションが巻かれているだけだったので、僕が座ったら壊してしまいそうに思えて、何も聞かないままお店を出た。
駅の中は相変わらず人の往来が激しく、ざわざわしている。どうも居心地が良くないので、改札を出て、外で何かすることに決めた。
改札の外に周辺地図があったので、じっと眺めてみたけれど、ゆっくりできそうな場所はみつからなかった。この辺で僕が知っているのは、押本さんと一緒にいったことのあるショッピングモールだけだ。
あまり歩きたくないし、すぐ近くに見えているショッピングモールにいくことにした。確か、四階に大きな本屋があったはずだ。一冊くらいなら買ってもいいかな。ちょっとわくわくしてきた。
ショッピングモールの中に入った。思ったより人が少ない。
まあ、午前中から駅前に買い物に行く人もそうはいないのだろう。
エスカレーターに乗っても、僕を追い越していく人はいなかった。少し、安心した。
四階まで上がると、すぐに本屋の入り口があった。フロアが丸々本屋という作りになっている。
前に来たのはいつだったかはあんまり思いだせないけど、大きな本屋ということだけは覚えていた。よかった。
入ってすぐの新刊・話題書のコーナーにある本だけでも、さっきの駅の本屋とは比べ物にならないくらい充実している。
あと、同じフロアに全ての本があるので、都会によくある、ジャンルによって置いてある階が違って、会計はフロア別にしないとだめなんていうこともない。どこにどんな本があるか探すことですらこの本屋では楽しい。もしかしたら、今の僕は笑顔かもしれない。
まあ、鏡がないからわからないんだけどさ。
読みたい本を手に取っていったら、両手に抱えきれなくなってしまった。ありがたいことに、本を選ぶための机とイスがあったので、本を置いてイスに座る。
専門書のコーナーの近くなので、きっと専門書を選ぶために用意されているんだと思うけど、今は人もいないし、座らせてもらうことにした。
ふう、と息をついて目の前の積み上がった本を見る。純文学、ミステリ、ライトノベル、エッセイなどなど。人がいいと言っていた作品はやっぱり気になるし、松野さん、押本さんから薦められた本も読みたい。
もちろん、自分が気になった作品もチェックしたい。そうなると、とんでもない数の本を読まないといけなくなる。
自他共に認める読書家になるには一体何年かかるんだろう。どうやら、やらないといけないことはたくさんあるらしい。その一番目として、目の前の積み上がった本から、本当に読みたい本を五冊選ぶことにした。
イスに座ると、僕は真っ先にハンカチで顔をつたう汗を拭いた。本を選ぶ作業も難航したけれど、もっと大変だったのは残りの本をもとの棚に戻すことだった。
どこに何が置いてあるかは、あまり把握できていないので、記憶を頼りに順番に戻していったけど、広いフロアのほぼ端から端まで歩いたように思う。本を抱えながらの移動はなかなか神経を使って、僕の腕はプルプル震えている。
本を買いにきて、これほど体力を消耗するのは予想外だった。まあ、時間はたっぷりあるし、小説だけなら、どこになにがあるかはだいたい把握できたのでいいか。
本屋の一番端に、喫茶コーナーも発見できたし。当然ながら、会計をした本しか持ち込めないので、僕はこの机でじっくり本を選ぶことになる。机の上には、ハードカバー二冊、ノベルス一冊、文庫二冊。めったに買えないハードカバーの本から読むことにした。僕はゆっくり、本を開いた。
なんとも言えない濃密な時間だった。本を開いたあと、僕は作者の作り上げた世界観にどっぷりはまって、ひたすら活字を追いかけていた。
ページをめくる手が止まることはなく、我に返った時は、本を読了していた。
面白い本を読んだ後は、いつも気分がいい。僕は続いて、もう一冊本を手に取って開こうとしたら、ぐう、とお腹が鳴った。腕時計を見ると、お昼を過ぎている。
少し気を緩めると、ずっと座っていたせいか、腰も痛い気がする。
なにも買わないで本屋を出るのは申し訳ないけれど、僕はとりあえず本をもとの棚に戻して、昼食をとることにした。