あたりまえの日
昼休みになったけれど、僕は英語の講義で精神的にも肉体的にも疲れてしまって、なにも食べる気がしない。四号館のロビーでソファにもたれかかったままだ。立ち上がるのも面倒くさい。時間割を鞄から引っ張り出す。三限は「経営学概論」だ。教室は四号館の二階。今いるところの、すぐ上の教室だ。
必修の講義だから教室はきっと混むだろう。重い腰を上げて、階段を上る。二階には喫煙室がある。基本的に校内は禁煙なので、タバコを吸いたい人は四号館の二階で吸うしかないようだ。喫煙室の中には十人ほど人がいて、タバコを吸いながら何人かグループで話をしているようだ。タバコは吸ったことがないのでおいしいのかどうかよくわからない。コーヒーが好きな人はタバコを吸う本数が多いと、どこかで聞いたことがある。僕は一日に二本は缶コーヒーを飲むので、タバコを吸い出したら止まらないのかなと思った、でも、もっと大事なのは僕がまだ二十歳になっていないことだと気付いたのは教室に入って、窓から外を見上げた時で、ああ、今日の僕は疲れているんだ、と思った。
教室のがやがやした感じが講義が始まっても収まらないので、僕はちょっとイライラしている。経営学概論担当の先生は女の人で、なんというかおとなしい感じの人だ。
二限の厳かな講義の後ということもあって、ちょっと騒がしすぎるように感じる。そして、先生もそれを注意しない。必修科目で人数が多いから少しくらいは仕方ないのかなと思うけど、これは大学の講義としてはお世辞にも質が高いとはいえない。
宇白先生と比較するのはすこし違うかもしれないけど、大学は教育の現場なんだからやっぱり勉強をしたい人が勉強できる場所であるべきだと思う。
そう言った観点で考えると、宇白先生の講義はしっかりしている。確かに少し厳しすぎるんじゃないかと思うし、宇白先生のことを好きか嫌いかといわれると少し苦手なタイプだ。だけど、講義に対する取り組み方としては宇白先生は間違っていないなと思う。
僕は感化されやすいのだろうか。
学生がたくさんいるのと同じで、大学には先生も色んなタイプの人がいるようだ。一回目の講義で判断するのは早計かな。そんなことを考えていたら、レジュメに書いてある全十三回の講義内容を説明しただけで、講義が終わってしまった。
「他の教室はまだ講義中ですので静かに退出願いまーす」
先生はそう言っているけど、窓際の席に座っている僕の耳には、既に廊下で響く話し声が聞こえてくる。
大学というところは色々と難しいようだ。まあ、分かりやすい講義を丁寧に教えてもらうのが一番だけど、そういう講義は高校までなのだろうか。入学前のガイダンスが長かったのが、少しわかった気がする。
教室から人がいなくなるまで僕は窓の外を眺めていた。鹿鳴館大学は坂を上りきったところに建物があるので、二階からでも結構遠くまで見わたせる。僕の家は一階建てなので、いつもとは違う視点からものが見れて、ちょっと新鮮だ。
時計を見ると、もうすぐ三限が終わる時間だ。四限は「情報処理1」だ。教室は四号館の三階になっている。一年生の講義は四号館がやたら多い気がする。四号館は最近建てられたばかりのようだし、一番大きいので教室もたくさんあるから、確率の問題なのだろうか。
僕としては移動が楽なので助かるけど。
教室を出る前に、「うーん」と声を出して背筋を伸ばした。大人数の講義はどうも窮屈に感じてしまう。背筋を伸ばして気分も変わったところで、教室を出ようとしたらガタン、と物音がしたので後ろを振り返ると、僕一人だと思っていた教室に、人がいた。
どうやら、椅子から立ち上がった音らしい。さっき伸びをしたのとか、ずっと見られてたのかと思うと顔が赤くなるのが自分でもわかる。
ただ、後ろに座っていた人は何も気にしていないようで、ショルダーバッグと大きな本を抱えて、何もなかったかのように教室を出ていった。どこかで顔を見たような気がするけど、どこで見たのかは全くわからない。深く考えてわかる問題ではないので、僕も教室を出て、四限の講義がある教室へ向かった。
教室に入ると、既に先客がたくさんいた。そういえば三限の講義は必修だった。履修している人数が多かったし、早く講義が終わったんだから当然か。
LANケーブルとノートパソコンを繋いで、机の下にあるコネクタと接続してインターネットをしている人が多い。インターネットができる環境なら、もっと早く教室に来ればよかったと思ったすぐ後に、自分のパソコンは学校から購入したものではないので、LANの設定が出来てないことを思い出す。
五限に自前のパソコンを持ち込んでいる人を対象としたガイダンスに出席するのに、何を考えているんだろう。どうも今日は頭がうまく回っていないようだ。二限の英語で脳のキャパシティを使いすぎたのかもしれない。
黒板の右に、人が何人か集まっている。何かを見て、気にしているようだ。何だろうと思って見に行くと、紙に教室の座席を四角で区切ってあり、一つ一つのなかに学籍番号が書いてある。
どうやら、この講義は指定席らしい。学籍番号が続いている席の配置だと、ファイルの管理がしやすいのだろう。情報処理の講義なら、ファイルを提出する機会もあるだろうし。
その時に番号に抜けがあるとどこの情報が取得できていないか分かりやすい。
僕の席は窓際の後ろから二番目だった。窓際なのは嬉しい。席について、モバイルケースからPowerBookを取り出した。僕以外にも二人ほど持ち込みのパソコンを使用している学生がいる。インターネットがすぐにできないのは残念だけど、講義の後、ガイダンスに出席すればすぐだろう。
講義開始を告げるチャイムが鳴った。胸がドキドキしているのがわかる。これは、心地良い方の刺激だ。
ドアが開く音がして、担当の先生が入ってきた。
「どうも。情報処理1を担当する山下です。後ほど、レジュメを配付しますが、情報処理1は四十人ずつ、五クラスに別れて講義を行いますが、内容は全て同じです。担当の先生が違うだけです」
先生はそこでいったん言葉を区切る。少し、教室がざわついた。
「正直、そんなに難しいことはやりません。今後、みなさんが大学生活を送る上で、パソコンは必須アイテムになります。レポートの提出は、ほぼ全ての教員がワープロ原稿で要求します。また、インターネットは情報収集をする際に非常に有効な手段です。例えば、みなさんが卒業論文を書く際にインターネットを利用して、情報を必要な時にちゃんと扱うことが出来るようになってもらいます。担当の当たり外れはあるとは思いますが、そこはみなさん諦めるように」
教室に小さく、笑う声が出た。どうやら、この先生は融通が利きそうな感じだ。当たりだ。そう思った。
「では、レジュメを配付します。前から後ろへ回してください。えーと、一通り目を通してもらうとわかると思いますが、毎回課題を提出してもらう形になります。課題の提出で出席をとるので、出席してる人はちゃんと課題提出するようにしてください。寝てるだけだと欠席扱いになります。あとは、八回目の講義は一階の大講義室で合同で行います。教室間違えないように。以上」
学生の気持ちをつかむのがうまい先生だな、と思う。小柄だけど、日に焼けた体は何か鍛えてそうだ。鼻の下から上唇までひげを生やしているけれど、ちゃんと手入れされている。スーツにネクタイというきっちりしている感じなのに、足下はなぜか健康サンダルだ。別にいいけど、ギャップが気になる。
「はい、では一回目の課題を配ります。今回はLANの設定が全員出来ている訳ではないので、パソコン本体に保存してください。次回にLAN経由で送ってもらいます」
前から課題がまわってきた。さっきと同じように、後ろにまわす。
「今回の課題は普通に文章を打ってもらうだけです。ファイル名は学籍番号の後に「課題1」とつけてパソコン本体に保存してください。タイピングが得意な人、苦手な人、それぞれいると思いますが、九十分あればどの人も最後まで出来ると思います。早めに終わった人は、退出してもらっても構いません。ただ、チャイムが鳴るまでは講義時間なので静かに退出するように。では、始めてください」
今回の課題は、千文字程度の長文をタイピングするだけらしい。今日は疲れがたまっているので、数少ない特技のタイピングが生かせるのはありがたい。僕はすぐに、タイピングを始めた。