お気に入りのリンゴ
月曜日は憂鬱。普段はあまり考えないけど、今週の月曜日を迎えた朝はあまり気分がすぐれなかった。憂鬱という程ではないけれど、これから大学に行って講義を受けると考えたら、頭と体、両方が拒否反応を起こして、僕はベッドから起き上がれないでいる。それでも、一日休んでしまうと学校にいけなくなるぞ、と僕は自分に言い聞かせて、何とかベッドから起き上がった。
顔を洗って、朝ご飯のパンを半ば無理やり口に押し込む。いつまでたっても口の中がもごもごしているので、牛乳で無理やり流し込んだ。
部屋に戻って着替えて、時間割を見て今日の講義を確認する。今日は「基礎英語」「経営学概論」「情報処理1」だ。鹿鳴館大学に入学が決まった際に、大学側からパンフレットが送られてきて、入学前の準備が色々と書いてあったことの中に、鹿鳴館大学は学生全員にノートパソコンの所有が必須とされている。
今後加速化する情報化社会においてどうこうと書いてあったけど、要するに、大学で講義にノートパソコンを使用するので大学が用意したノートパソコンを購入するか、自分でノートパソコンを購入するか選んでおくように書いてあった。
大学側が用意するノートパソコンは大学のLANに確実に接続できるし、講義で使用するソフトも全て入っているので安心。とのことだったけれどスペックがそれほど高くない割には二十五万円もした。
僕は二十五万円というところよりスペックが高いパソコンを求めていたので、パソコンは自分で用意したかった。パソコンの勉強をしているからパソコンのことは自分でできる、大学のパソコンはぼったくりだ。みたいなことを親に話したところ、親はパソコンのことは全くわからないので、僕に任せるということになった。
そういった訳で、僕は晴れてPowerBookを購入し、大学で使うことになった。大学側の用意したパソコンとは違うパソコンを利用する際には、大学のLANに接続するためのガイダンスに出席しなければいけないらしいけれど、そんなことはPowerBookを使えるのなら些細な問題に過ぎない。
で、今日は情報処理の講義があるので、PowerBookを大学で初めて使う記念の日だ。僕はPowerBookを大事に専用のモバイルケースにしまった。
基礎英語は前にマークシートの試験を受けた。でも、レジュメ以外には何も配布されなかったので、鞄の中のレジュメをまとめて入れているところにレジュメがあったのでそれで準備は問題ない。
経営学概論に至っては、今日が初めての講義なので、今日はパソコンのケース以外は筆記用具とルーズリーフくらいしか僕の鞄には入っていない。細かいところまで言うと、財布とか定期とかハンカチとか。あまり細かいところまで気にし出すと何か一つなくなっただけでものすごく不安になってしまうので、適度に気を付けるくらいにしている。
今日は二限からだ。ちょっと時間に余裕を持って出よう。僕は母のところへ行って、駅まで送って欲しいと頼んだ。
二限に間に合うように出ているスクールバスは、一限のバスよりかなり混んでいる。どうやら、月曜日が憂鬱なのは僕だけらしい。
いつものようにミュージックプレーヤーで好きな曲を聴きながら窓の外を眺めている。少しずつだけど、どの辺りに何があるかわかってきたので時計を見なくてもだいたいの時間はわかるようになってきた。
今日は晴れていて太陽の日差しが眩しい。雨よりは、晴れの方がいい。どうやら今週の月曜日は、最悪という訳でもないらしい。
僕の一番好きな音楽が流れはじめたので、リピートボタンを押した。大学に着くまでに、何回聴けるだろうか。
大学に着いて校舎に入ると、掲示板の前に人がごったがえしている。何の掲示があるんだろう。人ごみを分けて、僕も掲示板の前に割って入った。
掲示板には、基礎英語のクラス分けについて貼ってあった。「それぞれの実力にあった基礎的なところからの英語学習」とは、全員同じテストを受けた結果でクラスの振り分けを行うという意味だったのだろうか。
僕はどのクラスなんだろう。こういう時に、自分の名前が書いてあるとすぐわかるんだけど、学籍番号が書いてある。ばらばらに配置された数字の山から自分の学籍番号を探すのは一苦労だ。まあ、名前がでーんと掲示されるとそれはそれで困るから仕方がないか。
どうやら、十クラスに別れているらしい。左上から右下にずっと数字を追っていく。
あった。僕の番号だ。教室は四号館の四階らしい。僕が人ごみから抜け出すと、予鈴が鳴った。あ、ヤバいかも。
僕は四号館に入ると、階段を一気に駆け上がった。
チャイムの音と同時に教室に入って前を見たら、先生はまだいなかったので、ほっと胸をなで下ろす。後ろの席はもう埋まっているので、前から二番目の席に座った。
一分ほどしてドアが開いたけど、学生だった。その人が渋々といった感じで僕の前の席に座った。さすがにみんな前には座りたくないようだ。そんなことを考えていたら「ガラガラ」と勢いよく教室の前のドアが開いて、長身の男の人が入ってきた。背筋がピンと張っている。年は六十代くらいだろうか。髪の毛は真っ白だ。
「少し遅れました。申し訳ない。宇白といいます。この大学に赴任するまでは国連で働いていました」
教室が少しざわめく。「国連」という言葉にとんでもなくすごい重みを感じた。
「えー、私がこのクラスを担当することになりました。先日のテストで点数が高かった上位二十名がこのクラスのメンバーです」
上位二十名に僕が?マークシートは本当に怖い。そしてこの教室の空気が怖い。
「何やら、他のクラスでは中学、高校の基礎ができていない点から学習するなどと言っていましたが、このクラスではそういったことは一切しません。全員大学生なんだから、大学生が学習すべき英語の講義をやります。あと、やる気がない者はすぐに教室から出ていってもらって結構。もちろん、単位は認定しません。後期に私以外の担当の先生の講義を受けてください」
多分、この教室にいる学生全員が宇白先生の醸し出す迫力と空気に飲まれてしまっているだろう。私語はもちろん、物を動かす音一つ聞こえない。
「では教科書を配ります。これは私が国連にいた時に、実際に英語学習のテキストとして用いられていたものです。まあ、アメリカ人なら子どもが読む程度のものなんだが、英語圏ではない地域で生活する人が英語を学ぶ際にこのテキストはよく利用されています。」
前の席から新書サイズの本がまわってきた。一冊手に取って後ろの席にまわす。ぱらぱらとめくっていたが、表紙から本文、後ろのカバーまで全て英語で書かれている。これがテキスト?確かに少し薄いけれど、洋書を一冊も読んだことのない僕にはハードルが高すぎる。かといって今さら無理ですなんて言える状況ではない。これから毎日英語を猛勉強するしかない。
「えー、基本的にこの教科書を音読後、和訳していくスタイルをとります。各自教科書に書き込みをして構わないので、わからないところがあれば書き込んでおくように。あと、当然だが毎回予習をしてくるように。まあ、予習しなくてもこの程度の英語なら大丈夫かもしれんが」
相当ハイレベルなことを要求されているようだ。まあ、講義の予習は普通かもしれないけど、少なくとも僕には予習しないと何が書いてあるのか、単語は読めても文章の意味はくみ取れないだろう。首筋をつーっと、汗がつたった。他の人の反応を見たいけど、前一点のみを見ることしか許されないような気がして、僕は宇白先生の顔をずっと見ている。
「あ、当然のことながらみんな辞書を持ってきているとは思うが、私の講義では英英辞書を基本的に使用します。英語の文章から英語を読み取るということを身に付けるように。英英辞書は図書館にあるはずだ。私の意向で五十冊ほど入れてもらっている。購入してもらってもいいのだが、それなりの値段はするので無理に購入しなくても構わない。あ、そうそう。各自辞書を持ってきていると思うが、見せてもらおうかな。机の上に出してくれたまえ」
教室が少しだけざわめいた。まさか持ち物チェックまであるとは。
一応、電子辞書を持ってはいるけれど、要求されているものとは違うだろう。でも、持ってきてないよりはましだと思って、僕は鞄から電子辞書を出して机の上に置いた。
「え、おいおい。何も出していない者がいるじゃないか。今日の講義をなんだと思っているんだ。辞書も持ってこず英語の勉強をしようというのか?」
先生の声のトーンが上がる。胸が痛くなった。苦しい。
「辞書を持ってきていないものは手を上げるように」
後ろからすっと手が上がる気配がした。前の方に座っている人は持ってきているみたいだけど、やっぱり持ってきていない人もいるのか。
「一、二、三……十二人もいるじゃないか、はは、半分以上辞書を持ってきていないとは驚きだ。今まで受け持ってきた中で最悪の結果だよ、これは」
教室の空気は、もうどんよりとして真っ黒に見える。
「手を上げていないものは辞書を持ってきているんだな、どれどれ、英和辞書ばかりだな、まあ、英英辞書は最初から持っていなくても構わない。……ん、君、それは何だね?」
先生の目は僕に向けられている。
「で、電子辞書です。え、えっと……英和辞書と和英辞書なんかが入っています……」
僕が必死に絞り出した声は蚊が鳴いているかのような声にしかならなかった。
「ん、電子辞書かね?うーん……たくさんの辞書を持ち歩くより効率的かもしれんが、辞書というものはやはり使い込んでこそ味の出てくるものなんだよ。まあ、他の先生なら構わないと思うが、私の講義では紙の英英辞書を持ってくるように」
「は、はい…」
なんとか怒られはしなかったけれど、もうこの教室にいるのは限界に近い。他のみんなは大丈夫なんだろうか。僕の高校の講義が甘いのはわかっているけど、一般の高校の講義もこれくらい厳しいものなんだろうか。
教室には宇白先生の熱い話が続く。大学生とはどうあるべきか、学生としての勉強に対する心構えなど、生活に関することの話題が多い。
僕たちはただ静かに話を聞くだけ。できることは、ただそれだけだ。
国連で働いていたときの話から、退職してこの大学に赴任してくるまでの印象的な出来事を話した後で、宇白先生は自分の腕時計に目をやった。
「ふう、思ったより時間をくってしまったな……。最初の一文だけ訳して終わりにしようか。では……一番後ろの眼鏡をかけている君、音読して」
「Every story,even a faerie tale,comes to an end.」
「はい、よろしい。発音もほぼ完璧だ。では、この日本語訳を……白いリボンを着けている君、そう、君だよ」
「えっと……全ての物語は……う、んと……すいません。わかりません」
当てられた女の人は申し訳なさそうに言った。気持ちはわかるよ。この空気じゃまともに考えるのは難しいよね。心の中で勝手にエールを送った。
「では、左端の列の後ろから二番目の君、答えて」
「えーと……わかりません」
「わかりません、じゃないだろう。少しは考えてみたまえ」
厳しい。厳しすぎる。最初の講義なんだからもうちょっと大目に見てあげてください。お願いします。もう僕たちを解放してください。
「えっと、フェアリー……のところがわかりません」
「そうか。ああ、もうすぐチャイムが鳴ってしまうな、えーっと、では、前から二番目の君」
「……」
「おい、君だよ、君。電子辞書持っていた君」
まさかとは思ったが、当てられてしまった。前から二番目の人は四人いるけどそのうちの「君」は僕なのか……。なんて考えていたけれど、今は当てられたことを嘆くより日本語に訳すことの方が大事だ。頭をフル回転させて考える。
「あ、はい、えーっと……物語は、おとぎ話でさえ、すべて終わりを迎える」
僕の持っているあらゆる知識を二秒間の間に込めた。
「はい、正解」
おお、とどよめきが上がった。
「そう。Faerie taleは『おとぎ話』という意味だ。わからなかったものは教科書に書き込んでおくように」
先生がそういうと、二限目の講義の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「今日はここまで。次回は全員、英英辞書を持ってくるように」
宇白先生はそう言うと、入ってきた時と同じく、背筋をピンと伸ばして早足で教室を去っていった。
張り詰めていた緊張の糸がゆるんだようで、途端に教室がざわざわしはじめた。
「きっつー」という声が後ろから聞こえてきた。やっぱりみんなかなり厳しい講義だと感じていたようだ。
「俺、無理やわ。お前どうよ?」
「俺も無理。でも、今からクラス変更無理やんな?前期から単位落とすのはヤバくない?」
「僕も無理でーす」と心の中で叫んで、一階の自動販売機で何か飲み物を買おうと思って、そそくさと教室を後にする。
フェアリーテイルという言葉がおとぎ話という意味だと知っていたのはただの偶然みたいなものだ。たしか、中学時代にやったゲームの攻略本のコラムみたいなところに書いてあったような記憶を忘却の彼方から引き戻してきた。
エレベーターで一階まで降りて、冷たい缶コーヒーを一気に飲んだ。汗で背中にシャツが張り付いているのは。絶対に四階から一階までの移動とは関係ないと誓って言える。