深夜の廃神社で『百キロ婆』の心霊撮影をしていた女子大生4人、ガチの犯罪者に監禁される〜本殿から現れた最恐の怪異は、私たちを全力で逃がして悪党だけを夜明けまで処刑しました〜
【第一幕:深夜二時の姫籠神社と、消えないメンソールの匂い】
ヘッドホンの奥で、私の知らない「五人目の足音」が砂利を踏んだ。
ザリッ。
私は思わず足を止め、ネックストラップで首から下げたソニー製の赤外線ナイトショットカメラの上部マイクの音量つまみを指先で絞った。
十一月の深夜二時十分。
杉林を貫く二百段の急な石段の中腹だった。周囲には街灯ひとつなく、足元を照らすのは先頭を歩くリナのLEDライトと、私の手元にあるカメラの緑色の暗視モニターだけだ。
「ちょっとミオ、また止まってるー! カメラマンさん置いてっちゃうよー!」
三段上から、金髪の毛先を揺らしたリナが呑気な声で振り返った。
その後ろでは、同じ大学のサークル仲間であるユカとサキが、お揃いの白いダウンジャケットの襟元を寄せ合って「寒いね」「本当にこんな山奥に幽霊なんているのかな」とクスクス笑っている。
私たち十九歳の女子大生四人が運営する、登録者わずか三千人の心霊検証チャンネル『オカルト女子部』。
今夜の撮影場所に選ばれたのは、山あいの廃集落のさらに奥にある無人の古社――『姫籠神社』だった。
二十年前に宮司が亡くなって以来、完全に放置されているこの神社には、ネットのオカルト掲示板で有名な一つの都市伝説があった。
――『姫籠の百キロ婆』。
深夜零時を過ぎて境内に踏み入った者の前に、身長二メートル近い白髪の老婆が四つん這いで現れ、時速百キロの猛スピードで地の底まで追いかけてくるという怪談だ。
「……ねえ、リナ」
私はカメラ上部に装着した指向性マイクの風防に手を添え、声を潜めて言った。
「やっぱり今日、今からでも引き返さない? さっき石段下の脇道に車を停めた時から、なんだか嫌な感じがするんだよ」
「えーっ、ここまで来てビビってんの、ミオ?」
リナはスマホのジンバルを片手に、呆れたように肩をすくめた。
「片道二時間もかけてレンタカーで来たんだよ!? それに私、今日の昼の三時にインスタのストーリーで『今夜二時から女子四人で姫籠神社の百キロババア検証に行くよ!』って場所のピン付きで告知しちゃったんだから! 今さら逃げたらフォロワー減っちゃうって!」
私は奥歯を噛みしめた。
私が怖がっているのは、都市伝説の老婆なんかじゃない。
さっき石段下の脇道にある砂利の空き地で車から降りた時、私の鼻は冷たい山の空気の中に、かすかな『メンソールタバコの煙の残り香』を嗅ぎ取っていたのだ。
私たち四人は、誰一人としてタバコを吸わない。
しかも懐中電灯で足元を照らした時、私たちの車のすぐ横にあった新しいタイヤ痕の脇に、フィルターがまだ湿ったまま踏み潰されたばかりの吸い殻が一本落ちていた。
誰かが、私たちが来るのを知っていて、先にこの山に入っている。
私がもう一度後ろの暗い杉林を振り返った時、高感度マイクが拾っていた「ザリッ」という不規則な足音は、すでにピタリと止んでいた。
まるで、こちらが立ち止まったのに合わせて、暗闇の向こうの『誰か』も息を潜めたかのように。
「ほら、着いたよー! うわぁ、雰囲気ヤバすぎ!」
石段を登りきったリナの歓声に、私は背中の悪寒を振り払って境内へと足を踏み入れた。
傾きかけた木の鳥居の奥に、樹齢数百年の巨大な杉の木々に囲まれた木造の『拝殿』がひっそりと建っていた。
屋根の銅板は緑青にまみれ、正面の両開きの重い引き戸(格子戸)は半分開いたままになっていた。
「よし、中に入って定点カメラをセットしよう!」
リナを先頭に、私たちは黴と乾いた埃の匂いが充満する拝殿の中へと入った。
広さは二十畳ほど。床板は湿気でところどころ腐っており、一歩踏み出すごとにギシ、ギシと鈍い音を立てる。
正面の奥には、太い注連縄が張られた観音開きの分厚い木の扉――神体の祀られた『本殿』へと続く扉――が固く閉ざされていた。
リナは部屋の隅の高い奉納棚の上に小型の三脚を立て、本殿から拝殿の室内全体までが広く映るように、不可視赤外線の暗視モードと動体検知センサーで内部メモリに音声付き自動録画を行い、通信可能になり次第クラウドへ映像を送信する『SIMカード内蔵の広角防犯トレイルカメラ』を設置した。
ユカとサキが「早く撮って帰ろうよ、なんかここ空気が重いよ」と腕をさすりながら自分のスマートフォンを取り出した、まさにその時だった。
「……あれ?」
ユカが画面を見つめて眉をひそめた。
「ねえ、急に電波が消えたんだけど。『圏外』になっちゃった」
「えっ、嘘、私のスマホも圏外だわ!」とサキが声を上げた。「さっき石段を登ってた時はアンテナ立ってたのに!」
「おーっ、マジ!? 私のスマホも、モバイルルーターのWi-Fiも全部同時に切れた!」
リナはジンバルから自分のスマートフォンを取り外し、私のカメラに向かって画面を突き出した。
「見てください視聴者の皆さん! 姫籠神社の拝殿に入った瞬間、四人のスマホが同時に圏外になりました! これぞ本物の心霊現象、呪いの磁場です!」
私の背中から、一気に血の気が引いていった。
違う。絶対に心霊現象なんかじゃない。
私のキャリアはドコモで、リナはau、ユカはソフトバンク、サキは楽天モバイルだ。
山奥で自然に電波が弱まる時は、キャリアごとに基地局の位置が違うため、必ず時間差でアンテナが減っていく。四つの異なる通信会社の回線と、2・4ギガヘルツ帯のモバイルルーターの通信が「同じ一秒間」にすべて同時に遮断される物理現象など、この世にたった一つしか存在しない。
――『違法携帯型ジャマー(電波妨害機)』。
半径三十メートル以内のあらゆる無線通信と110番通報を強制的に無効化する犯罪用の機械を、今この瞬間、建物のすぐ外にいる「誰か」が起動したのだ!
「みんな、スマホをポケットにしまって! 今すぐ外へ出て逃げるよ!」
私のただならぬ剣幕に、リナたちが慌ててスマートフォンをダウンジャケットのファスナー付きポケットに押し込み、正面の格子戸へ駆け寄ろうとした瞬間だった。
――ガシャアアアアンッ!!
拝殿の正面入り口の両開きの格子戸が、外側から乱暴に引き閉められた。
直後、左右の戸の中央の取っ手に太い鉄の鎖がグルグルと巻きつけられる重々しい金属音が響き、分厚い南京錠が『ガチャン!』とロックされたのだ。
「え……っ!?」
「な、なに!? 誰か外にいるの!?」
ユカとサキが悲鳴を上げて抱き合った。
私は格子戸に飛びつき、両手で必死に左右へ開こうとしたが、外側から鉄鎖で縛り上げられた引き戸は二センチしか開かない。
その二センチの隙間の向こう側――真っ暗な境内の石畳の上に、黒いマウンテンパーカーを着た一人の男が立っていた。
◆◇◆
【第二幕:袋の鼠と、三十八歳の捕食者】
男は、笑っていた。
年齢は三十代後半くらい。フードの奥から覗く脂ぎった顔には、メンソールタバコの匂いと、獲物を檻に閉じ込めた捕食者特有の粘りつくような興奮が張り付いていた。
「あ、あのっ、すみません! 中に人がいるんです、開けてください!」
まだ状況が飲み込めていないリナが、格子戸の隙間から声をかけた。
男は答えなかった。
代わりに、左手の外ポケットから黒いアンテナが三本生えた金属ケース――やはり業務用の電波妨害機だった――を取り出して見せびらかすように軽く振ってから外ポケットに戻すと、右手に握っていた黒い器具のスイッチを親指で押し込んだ。
――バチバチバチバチッ!!
暗闇の中で、青白い高圧電流のスパークが激しく弾け、オゾンの焦げる匂いが隙間から流れ込んできた。
護身用の玩具ではない。大男でも一撃で神経を麻痺させて昏倒させる、改造済みの高出力スタンガンだった。
さらに男の腰のベルトには、小型の懐中電灯と、刃渡り二十センチを超えるサバイバルナイフの鞘、そして工事現場で配管を縛るための『極太の黒い結束バンド(インシュロック)』が何十本も束になってぶら下がっていた。
「ひっ……! い、いやあああああっ!!」
ようやく事の重大さに気づいたリナとユカが、腰を抜かして腐った床板の上に尻餅をついた。
「ははっ、昼間のインスタのストーリー、ありがとねぇ、リナちゃん」
男は格子戸の隙間に顔を近づけ、舌なめずりをしながら低い声で囁いた。
「『今夜二時から女子四人で姫籠神社に行く』なんて、わざわざ招待状を出してくれるんだもんなぁ。おかげで夕方からずっと待たせてもらったよ。……ああ、言っとくけど、石段下の脇道に停めてあった君たちのレンタカー、タイヤは四本ともナイフで裂いておいたから。朝まで誰も助けになんか来ないよ」
男は格子戸から離れると、砂利を踏みしめながら建物の側面へと歩き出した。
「表の戸は鎖で閉めた。今から裏の『勝手口』から中に入って、一人ずつ順番に縛り上げてやるからな。大人しく待ってろよぉ」
ザリッ、ザリッ、と建物の裏手へ回り込む重い足音。
拝殿の中は、完全なパニックに陥った。
「う、嘘でしょ……嘘でしょ!? どうしようミオ、スマホも繋がらない、あんな奴に捕まったら……っ!」
サキが過呼吸を起こして泣きじゃくり、ユカは窓の木の雨戸を必死に叩いたが、二十年間釘で打ち付けられたままの雨戸はビクともしない。
裏の勝手口には、錆びた小さなネジ錠が一つ付いているだけだった。あんなもの、大人の男が外から蹴り飛ばせば一発で壊れる。
私たちには武器もない。逃げ道もない。
恐怖で膝がガタガタと震える中、私たち四人は少しでも裏口から遠い場所へ逃げようと後ずさりし、部屋の最奥――固く閉ざされた『本殿(神体のある奥宮)』の分厚い木の扉の前に、背中を押し付けるようにして身を寄せ合った。
――ガチャ、ガチャリ。
建物の裏手で、勝手口の古いドアノブが外側から回される音が響いた。
男が体当たりをするために一歩下がる気配がする。
「神様……っ!」
私は震える両手でサキとリナの肩を抱きしめ、背後の冷たい本殿の扉に額を押し付けて、涙声で祈った。
「誰でもいい、化け物でもいいから……お願い、私たちを助けてええええっ!!」
勝手口の腐った木戸が男の蹴りで内側へ吹き飛び、左手に懐中電灯、右手にスタンガンを構えた男が拝殿へ踏み込んできたのは――まさにその瞬間だった。
◆◇◆
【第三幕:百キロ婆の顕現と、時速百キロの強制逃走】
――バキィィィィィンッ!!
男の蹴りよりも十倍も大きな轟音が、私たちの『真後ろ』で炸裂した。
私たちのすぐ頭上で、大人の腕ほどもある太い『本殿の注連縄』が、目に見えない巨大な刃物で断ち切られたかのように真っ二つに弾け飛んだのだ。
同時に、二十年間一度も開かれたことのなかった本殿の分厚い観音開きの扉が、内側から凄まじい突風とともに左右へ弾け飛んだ!
蝶番ごとちぎれ飛んだ重さ三十キロ近い本殿の木の片扉が、砲弾のような勢いで部屋を横切り、勝手口から踏み込んできたばかりの男の顔面へとまともに激突した!
「ぐぶっ!?」
男は自分が何を食らったのかすら理解できないまま、鼻血を撒き散らして後ろ向きに吹き飛び、拝殿の隅の床に後頭部を強く打ちつけて白目を剥き、その場に昏倒した。
ミシミシ、バキッ……ズズズズ……ッ。
本殿の底知れぬ暗闇の奥から、何かが這い出してくる。
私は反射的に、首から下げていた赤外線ナイトショットカメラのレンズを後ろへ向けた。
緑色の暗視画面に映し出された『それ』を見た瞬間、私の心臓は氷の塊になった。
人間ではなかった。
四つん這いになっているのに、その背中の高さだけで私の胸元まであった。立ち上がれば優に二メートルを超えるだろう、異常に手足の長い『白髪の老婆』だった。
ボロボロに擦り切れた江戸時代の麻の着物をまとい、針金のように逆立った真っ白な長髪の間から、黒目のまったくない「満月のように白く発光する二つの巨大な目玉」がギョロリと飛び出している。
姫籠神社の都市伝説――『百キロ婆』が、本殿の奥から本当に姿を現したのだ!
「ひ、ひぃぃぃぃっ……!!」
リナとユカが声にならない悲鳴を上げて床にへたり込んだ。
老婆の乾いた木の枝のような巨大な手が、私たちの頭のすぐ横の床板を『バシンッ!』と叩き、耳まで裂けた巨大な口がガクリと顎を外すように開いた。
食べられる。
犯罪者に襲われる前に、この化け物に頭から噛み砕かれる――そう思って私が固く目を閉じた、その刹那だった。
老婆は、私たちの目の前十センチまで顔を突き出すと、古い釣鐘を丸太で殴りつけたような耳をつんざく大声で咆哮したのだ。
『――けがれる前に、失せろォッ!!』
暴風のような呼気が私たちの髪を吹き飛ばした。
次の瞬間、老婆は右腕を横へと大きく振り抜いた。
だが、その鉤爪のような手が叩きつけられたのは、私たちの体ではなかった。
――ドガアアアアアアンッ!!
老婆の剛腕は、気絶した男が倒れている裏口とは正反対の『拝殿の西側の木壁』を、太い柱ごと外へ向かって粉々に殴り飛ばしたのだ!
腐った杉板と雨戸が紙くずのように吹き飛び、外の下り坂へと続く石畳の参道がぽっかりと口を開けた。
老婆は呆然と固まっている私たち四人のダウンジャケットの背中を、巨大な手のひらで乱暴に、しかし骨を折らない絶妙な力加減で、その壁の大穴から外へと一気に突き飛ばした!
「きゃああああっ!」
「痛っ……えっ、外!?」
湿った落ち葉と石畳の上に転がり出た私たちが顔を上げると、壁の大穴の縁に四つん這いで仁王立ちになった二メートルの老婆が、白く光る目玉をカッと見開いて叫んだ。
『なにをモタモタしておるか、馬鹿娘どもが!! わしに足を喰いちぎられたくなければ、一秒たりとも後ろを振り返らずに下の里まで全力で走れェッ!!』
ドンッ!! と境内の地面が爆発したように揺れた。
四つん這いの老婆が、まるでジェットエンジンでも点火したかのような猛スピードで私たちのすぐ後ろへ飛び出してきたのだ!
「ぎゃあああああっ! 走って、みんな走ってええええっ!!」
そこからの二分間は、純粋な恐怖とアドレナリンだけの白昼夢だった。
私たち四人は互いの手を引っ張り合いながら、二百段の石段と、その先の国道へ続く五百メートルの参道を転げるように駆け下りた。
だが、後ろから迫ってくる老婆のスピードは、人間の理解を完全に超えていた。
――ドタドタドタドタドタッ!!
まるで暴走するダンプカーが真後ろの空気を押し潰して迫ってくるような轟音。
私たちが五段駆け下りる間に、老婆は石段の左右の杉の幹を三角跳びのように四つん這いで蹴り渡り、私たちの靴のかかとから「わずか十センチ後ろ」の石段を手のひらでバシン、バシンと叩きながら追いかけてくるのだ!
『遅い! 遅いぞ小娘! 足を止めたら丸呑みにしてやるぞォッ!!』
捕まえようと思えば、0・1秒で追いつける距離だった。
それなのに老婆は決して私たちの体には触れず、ユカが足を滑らせて転びそうになると、後ろから突風のような神通力の息を吹きかけて私たちの体をふわりと浮かび上がらせるように支え、さらに私たちが石段を下りきって「タイヤを切られたレンタカーのある脇道」の方へ曲がろうとすると、一瞬で先回りして脇道の入り口に立ち塞がり、『そっちではないわ、大通りへ走れェッ!!』と吠えて国道の方へと追い立てた!
まさに、牧羊犬が迷える羊の群れを全力で安全な場所へ追い込むかのように。
私たちは泣き叫びながら、五百メートルの参道を一度も転ばずにノンストップで駆け下りた。
そして、ようやく参道の出口にある大きな朱色の『一の鳥居』をくぐり抜け、国道沿いに輝く二十四時間営業のコンビニと『駐在所(交番)』の赤いランプの光の中へ私たちが転がり込んだ瞬間――。
ピタリ、と背後の地響きが止まった。
アスファルトの上に倒れ込んだ私が、荒い息を吐きながら恐る恐る後ろを振り返ると。
街灯の光が届かない『一の鳥居』のすぐ内側の暗闇に、あの二メートルの白髪の老婆が静かに立っていた。
老婆は鳥居の結界から外へは一歩も出ず、駐在所から慌てて飛び出してきた老巡査の姿を確かめると、耳まで裂けた口元を「ニィッ」と満足げに歪めて笑い――次の瞬間、突風とともに時速百キロ(秒速二十八メートル)の白い残像となって、五百メートル上の山奥の神社へとわずか十数秒で真っ直ぐに駆け戻っていった。
◆◇◆
【第四幕:姫籠の神様と、クラウドに届いた『最後の録画データ』】
二十分後。
温かいストーブが焚かれた駐在所の中で、毛布にくるまった私たち四人は、白髪の優しい老巡査が出してくれた温かいほうじ茶を震える手で飲んでいた。
「……そうか。あんたたち、あの『姫籠様』に山から追い出されたんだな」
私たちの話を最後まで聞いた老巡査は、バカにするどころか、山の方向へ向かって深く頭を下げて手を合わせた。
「お、お巡りさん……あの百キロで走るおばあさんの化け物を、知ってるんですか?」
私が尋ねると、老巡査は穏やかに頷いた。
「ネットじゃ『ターボババア』なんて怖い都市伝説にされてるようだがね、あそこは呪いの神社なんかじゃないよ。『姫籠神社』というのはな、昔から『姫(若い娘)を籠に入れて悪漢から守り抜く神様』を祀った神社なんだ」
「え……? 娘を守る神様……?」
「ああ。江戸時代の飢饉の頃、あの山で落ち武者や山賊に襲われそうになった村の娘たちを守るために、山の神様があえて恐ろしい『山姥』の姿に変じて現れ、娘たちを驚かせて麓の村まで全力で逃げ帰らせたという言い伝えがある。だからあのお婆さんはな、女の子には指一本たりとも傷をつけないんだよ」
老巡査はそこで少しだけ目を細め、険しい声で付け加えた。
「……ただ、伝承には続きがあってね。娘たちを無事に麓まで逃がしたあと、姫籠様は山へと引き返し、神聖な境内で娘を傷つけようとした悪党どもに『夜明けまでたっぷりと神罰を下す』と伝えられているんだ」
その言葉が終わるのと同時だった。
――ピロリンッ!
駐在所のテーブルの上に置いていたリナのスマートフォンが、通知音を鳴らした。
私たちが逃げ出してから三分間、気絶していた男がピクリとも動かなかったために待機状態になっていた拝殿の奉納棚の『広角防犯トレイルカメラ』が、男が起き上がった動きを検知して不可視赤外線の暗視モードで新たに六十秒間の音声付き映像を内部メモリに記録し、直後にジャマーが破壊されて通信が復旧したことで、山奥の微弱な電波を使って二十分かけてクラウドへの自動アップロードを完了させたのだ!
「あ……! 拝殿に置いてきたトレイルカメラの映像が、クラウドに届いてる……!」
リナが震える指で画面をタップし、老巡査と一緒に五人でその動画ファイルを開いた。
広角レンズの赤外線白黒画面に鮮明に映し出されたのは、私たちが壁の大穴から突き飛ばされて逃げ出した「三分後」の拝殿の内部だった。
本殿の扉にぶつかって気絶していたあの三十八歳の男が、「う、うぅ……っ」と鼻血を押さえながら床からフラフラと立ち上がったところだった。(その動きに反応してカメラの自動録画がスタートしていた)。
『い、痛え……なんだ今の突風とデカいババアは……!? 着ぐるみか!? クソッ、せっかく袋の鼠にした女どもが逃げちまったじゃねえか!』
男は舌打ちをし、床に散らばった懐中電灯とスタンガンを拾い上げると、自分がやって来た裏の勝手口から外へ出ようと振り返った。
だが――男が蹴り壊したはずの勝手口の扉が、ひとりでに『バタアアアンッ!!』と凄まじい勢いで閉まり、目に見えない力で完全にロックされた。
『は!? おい、開かねえぞ! じゃあ今の壁の穴から――』
男が西側の壁の大穴へ走ろうとした瞬間。
山の下から、ジェット機が突っ込んでくるような『ドタドタドタドタッ!!』という超高速の足音がみるみる近づいてきたかと思うと、ちょうど私たちを一の鳥居まで送り届けてから五百メートルの参道を時速百キロで駆け戻ってきた白い残像が、壁の大穴から拝殿の天井の梁へと一気に飛び込んできた!
同時に、外から吹き荒れた突風で壊れた雨戸と杉板が吹き寄せられ、壁の大穴までもが外側からバリケードのように塞がれてしまったのだ。
自分が正面の格子戸に外から鉄鎖と南京錠をかけたせいで、男自身が「完全密閉された拝殿の檻」の中に閉じ込められたのである。
『ひっ……!?』
男が左手の懐中電灯を上へ向けた。
地上四メートルの暗い天井の梁の上に、身長二メートルの白髪の老婆が、巨大な蜘蛛のように逆さまに張り付いて男を見下ろしていた。
――ドシンッ!
老婆が男の目の前に降り立った瞬間、そのかかとが、先ほど男が吹き飛ばされた拍子に外ポケットから床へ転がり落ちていた黒い電波妨害機を『バキィッ!』と木っ端微塵に踏み潰した。(この瞬間に電波妨害が消え、カメラのクラウド送信機能が復旧したのだ)。
『ば、化け物め! 近づくな、撃つぞォッ!!』
パニックに陥った男は懐中電灯を床に取り落とし、右手の改造スタンガンを老婆の肩に押し当ててスパークさせながら、左手で腰から抜いたサバイバルナイフで老婆の胸を突き刺した。
だが――ナイフの鋼鉄の刃は、老婆の麻の着物に触れた瞬間に乾いた音を立てて根元からポッキリと折れ、高圧電流の火花は老婆の白髪をチリチリと揺らしただけで完全に消滅した。
『……ほう。そんな豆鉄砲と爪楊枝で、このわしを脅すつもりかえ?』
老婆がゆっくりと立ち上がった。
天井の梁に頭が届くほどの圧倒的な巨体が、男の目の前にそびえ立つ。
白く発光する二つの巨大な目玉が、失禁して床に尻餅をついた男の顔を上から覗き込み、耳まで裂けた口が三日月のように大きく歪んだ。
『あの娘たちには、指一本触れさせんよ。……さて、神聖な社に汚らわしい縄と刃物を持ち込んだ下劣な虫ケラよ。まだ夜明けまでは三時間もある。お前が自分の足で立って歩けなくなるまで、この部屋の中で時速百キロの鬼ごっこをして遊んでやろうねぇ……!』
『い、いやだ……助けてくれ、誰かここから出してくれえええええっ!!』
次の瞬間、画面の中を白い暴風のような残像が縦横無尽に駆け巡り、男の情けない絶叫と、壁から壁へとピンボールのように追い回される音が響き渡ったところで、六十秒の録画ファイルはプツリと終了した。
駐在所の中に、長い沈黙が落ちた。
ユカとサキがポロポロと安堵の涙をこぼし、老巡査は深く頷いてから警察無線の受話器を手に取った。
「……よし、本署に応援を呼ぼう。ちょうど隣県で若い女性ばかりを狙った連続拉致傷害犯が指名手配されていたが、映像の男の人相と完全に一致している。夜が明ける頃にパトカーで迎えに行ってやらないと、あの男、本当に魂まで抜かれちまうぞ」
◇ ◇ ◇
翌朝、午前六時。
朝日が昇ると同時に、老巡査と十人の警察官たちが姫籠神社の石段を登っていくのに、私たちもパトカーの後部座席から同行した。
そして、神社の境内の入り口で私たちが目にした光景は、一生忘れられないものになった。
傾いた木の鳥居の真ん前に、あの三十八歳の男が転がっていた。
男は、自分が女の子たちを縛るために持ち込んだ『極太の黒い結束バンド』で、手首から足首まで見事なミノムシ状態にぐるぐる巻きにされており、そのすぐ脇には、素手で引きちぎられた正面扉の鉄鎖と、踏み潰された違法ジャマー、改造スタンガン、折れたナイフ、そしてリナが設置した無傷のトレイルカメラが証拠品として丁寧に並べて置かれていた。
男に外傷はかすり傷ひとつなかった。
だが、昨夜まで真っ黒だったはずの男の髪の毛は、わずか三時間の恐怖によって『一本のこらず真っ白な白髪』へと変わり果てており、虚ろな目で泡を吹きながら、駆け寄った警察官のブーツにボロボロと涙を流してしがみついたのだ。
「た、助かった……お巡りさん、早く俺に手錠をかけてくれえええっ!!」
男は幼児のように泣きじゃくりながら絶叫した。
「電車より速いババアが……四つん這いのババアが三時間ずっと俺の顔の横を時速百キロで走り回って、『ほれ走れ、止まったら踵を喰いちぎるぞ』って笑い続けたんだァッ! ぜんぶ自白します、余罪も全部話しますから、二度とあのババアが入ってこられないコンクリートの独房に一生俺を閉じ込めてくださいいいいっ!!」
刑事たちに両脇を抱えられ、「ありがたい、豚箱はなんて安全なんだ……」とうわ言のように呟きながらパトカーへ連行されていく男を見送り、私たち四人は顔を見合わせて吹き出した。
それから私たちは、朝の光が差し込む静かな拝殿の前へと歩み寄った。
昨夜、老婆が私たちを逃がすために殴り抜いた西側の壁も、吹き飛んだはずの本殿の扉も、神通力で元通りに戻されたのか何事もなかったかのようにピタリと元の場所に収まっており、その隙間から朝の爽やかな山の風が吹き抜けていた。
私たちは賽銭箱の前に一列に並び、持っていたお小遣いと、駐在所の隣のコンビニで買ってきたばかりの『最高級の羊羹と緑茶のペットボトル』を丁寧に供えて、二礼二拍手一礼をした。
「姫籠のおばあちゃん神様、昨日は私たちを守ってくれて、本当にありがとうございました!」
私が心を込めて頭を下げた瞬間。
誰もいないはずの本殿の奥から、風が鈴を鳴らすような、優しくて少しだけ得意げな老婦人の笑い声が『ふふっ』と聞こえた気がして――私たちは朝の境内で、いつまでも晴れやかな笑顔を交わしたのだった。
【完】
最後までお読みいただき、誠にありがとうございました。
本作は日本のアニメから着想を得て、日本の民俗学や伝承に登場する怪異(山姥や姫神信仰など)について調べて執筆したオリジナル短編です。
また別の物語でお会いできましたら幸いです。




