【第9話 視線の向きと、守る側の顔】
歩ける。
だが、まだ万全ではない。
足裏は頼りなく、膝はときどき抜ける。
立っているだけで、体力がじわりと削られていくのが分かる。
それでも、寝ているだけの時間はもう限界だった。
何かしなければ。
役に立たなければ。
そう思うこと自体が、もはや癖だ。
生前、仕事をしない時間は落ち着かなかった。
今も、それは変わらないらしい。
◇ ◇ ◇
「買い出しに行ってくるわ」
低く、柔らかい声。
フードを深く被った女性が、孤児院の戸口に立っていた。
背は高くない。
むしろ小柄だ。
だが、すっと伸びた背筋のせいか、
不思議と存在感がある。
フードの影が輪郭を曖昧にしていて、
実際の大きさよりも少し遠く感じる。
視線は伏せ気味だ。
そして――あの匂い。
寝込んでいたとき、意識が浮上しかけた瞬間に感じた、
あの匂いだ。
森の朝露のようで、
乾いた布の清潔さのようで、
だが甘すぎない。
肺に入ると、どこか緊張が緩む。
匂いは記憶を掘り起こす。
生前、飲食の現場で働いていたとき、
仕込みの香りだけで厨房の状態が分かった。
焦げは焦りを生み、
煮込みの香りは安心を生む。
だがこの匂いは違う。
警戒が、ゆるむ。
胸の奥で固まっていた何かが、
ほんの少しほどける。
理屈ではない。
本能だ。
人間のどこかが、
“安全だ”と判断している。
五歳の体だからかもしれない。
だが、違う気がする。
これは――惹かれている匂いだ。
◇ ◇ ◇
「私も行く!」
リリカが元気よく手を挙げる。
「……今日は重い荷物になるわよ」
「だいじょうぶ!」
彼女は少し笑う。
だが、その笑みは慎重だ。
俺は立ち上がる。
「……俺も、行きます」
ミテイの視線が鋭くなる。
「まだ無理よ」
「歩けます」
歩ける。
それだけで十分だ。
役に立ちたい。
ただ、それだけだ。
◇ ◇ ◇
市場は活気に満ちている。
野菜の匂い。
肉の匂い。
汗の匂い。
だがその中で、彼女の周囲だけ空気が澄んでいる。
そして――視線。
彼女が店に近づくと、
男たちの目が落ちる。
顔を見ない。
目を合わせない。
胸元に向き、すぐ逸らす。
見てはいけないものを見るような、
だが見ずにはいられないような視線。
彼女の肩が、わずかに強張る。
ああ。
人が苦手なのではない。
視線が、苦手なのだ。
値段のやり取りを横目で見る。
彼女は値切らない。
値切る余裕がないのではない。
長居をしないためだ。
視線を浴びる時間を減らすため。
孤児院の台所事情は厳しいはずだ。
だが彼女は、効率を優先している。
時間の節約。
接触の最小化。
心理的負担の削減。
なるほど。
経営とは金の管理だけではない。
心の消耗も、コストだ。
「持ちます」
俺は荷を取る。
一瞬、彼女がこちらを見る。
真正面から。
逸らさない。
それだけで、彼女の目がわずかに見開かれる。
人は、本来、目を見るものだ。
俺はただ、それをしただけだ。
◇ ◇ ◇
帰り道。
足が震える。
無理はあった。
だが止まらない。
何かしなければ男が廃る。
古臭い思想だと分かっている。
それでも、止まれない。
孤児院の門前で膝が抜けた。
「ほら、言わんこっちゃない」
ミテイが支える。
叱るより先に体を確かめる。
「……この年で“何かしなければ”なんて顔をする子は、
あまりいい境遇で育っていないものよ」
言い返せない。
守られる側でいる時間が、短すぎた。
◇ ◇ ◇
夜。
中庭から讃美歌が聞こえる。
澄んだ声。
昼の市場とは別人のような、柔らかな音。
俺は窓辺に寄る。
フードが外れる。
そして――
耳。
長い。
横にすっと伸び、
先がわずかに尖っている。
……は?
瞬きをする。
もう一度見る。
幻覚ではない。
耳だ。
長い。
尖っている。
まさか。
エルフ?
創作の中でしか見たことがない存在。
剣と魔法の象徴。
本物?
胸が跳ねる。
落ち着け。
五歳の体で何を興奮している。
だが事実は事実だ。
エルフだ。
本物だ。
……すげぇ。
だが、胸を打つのはそこではない。
彼女は歌っている。
誰に見せるでもなく、
誰に誇るでもなく。
ただ、孤児院のために。
小柄な体で。
静かに。
市場で逸らされた視線の意味を、理解する。
希少。
異質。
美しさゆえの孤立。
興奮は、静まる。
代わりに残るのは、理解だ。
エルフだからではない。
働いているから、目を引くのだ。
結局、俺はまた、
仕事をしている人間に惹かれている。
種族よりも、生き方。
耳よりも、姿勢。
守られる側ではなく、
守る側でありたい。
そんな感情が、静かに芽を出していた。
(第9話 了)
※他作品も連載中です。
最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜
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