【第8話 猫舌、仕事せず】
腹の音で目が覚めた。
昨日までは、ただ体が重かった。
今日は違う。
腹が、減っている。
空腹を感じるということは、回復している証拠だ。
いいことだ。
だが――匂いがする。
廊下の向こうから、湯気の匂い。
野菜を煮た甘さと、水気の多い匂い。
塩気の薄さまで分かる。
耳も拾う。
鍋肌に木べらが当たる、乾いた音。
火は弱い。
煮立ちきっていない。
何かしなければ、男が廃る。
五歳の体だが、気持ちは元社長だ。
そして元・飲食店経験者でもある。
「……不眠不休C、今こそ働け」
三日寝ただけで体が鉛だ。
スキル名だけ立派で、実態は昼寝名人ではないか。
壁に手をつき、ゆっくりと立つ。
視界が揺れる。
膝が笑う。
それでも一歩。
廊下に出ると、子供が二人こちらを見た。
「あ、起きてる」
「ほんとだ。歩いてる」
ひそひそ声。
俺は軽く手を振り、匂いの元へ向かう。
◇ ◇ ◇
台所は思ったより狭い。
大鍋が一つ。
薪の火。
木べら。
水桶。
湯気が立ち上る。
火の色を見る。
薪の組み方を見る。
鍋底の黒ずみを見る。
火は弱い。
だが薪は節約したいのだろう。
この状況では、強火は贅沢だ。
俺は生前、飲食店の厨房に立ったことがある。
特別な料理を任されたわけではない。
ただ、火と時間を守る役目だった。
仕込み。
出汁。
塩の一振り。
派手ではないが、崩れると全部が崩れる仕事。
そして自炊もしていた。
寝る時間が遅くても、
食だけは整えようとしていた。
睡眠と食は、人間から切り離せない。
どちらかが崩れると、人は荒れる。
どちらも整うと、少し優しくなる。
趣向を凝らすのは贅沢ではない。
生きる意志だ。
――五歳だが。
「なに?」
ミテイが振り向く。
「……みる」
精一杯それだけ言う。
鍋の縁に手をかける。
背が足りない。
背伸びする。
木べらを借りる。
重い。
五歳の腕では、予想より重い。
それでも混ぜる。
鍋底に沈んだ野菜を返す。
均一に熱が回るよう、ゆっくりと。
木べらの感触が手に残る。
この感覚は覚えている。
味見だ。
おたまを少し借りる。
ほんの少しだけ。
口に含む。
――熱い。
熱い。
熱い。
舌に突き刺さる。
脳天まで一直線に熱が走る。
「……っ」
声を飲み込む。
ここで叫ぶのは格好悪い。
だが涙がにじむ。
猫舌。
確かにあった。
▲猫舌(ランク無し)
獲得理由:熱いものが苦手。
引き継ぐな。
そこを引き継ぐな。
舌の表面が、わずかにざらついている。
温度の輪郭がくっきりと分かる。
分かる。
分かるが、熱いものは熱い。
俺は息を吸い、鼻から抜く。
冷ます。
もう一度、今度は少し冷ましてから。
塩が、わずかに足りない。
「……しお、すこし」
ミテイが目を丸くする。
「え?」
「……ちょっと」
それだけ言って、木べらを返す。
足が震えている。
椅子に座る。
子供が笑う。
「へんなかお」
確かに変な顔だろう。
五歳の体で真剣に鍋に向き合い、
猫舌で涙目になっている。
格好はつかない。
だが、寝ているだけよりはましだ。
ミテイが塩をひとつまみ入れる。
軽く混ぜる。
湯気が変わる。
ほんの少し、匂いが締まる。
それだけでいい。
完璧にする必要はない。
減らさなければいい。
「ありがとう」
小さく言われる。
俺は首を振る。
礼を言われるほどではない。
基本に忠実にしただけだ。
腹が鳴る。
盛大に。
子供たちがまた笑う。
俺も笑う。
猫舌は役に立たない。
いや、少しは役に立つ。
温度に敏感だからこそ、
味の輪郭も分かる。
だが格好は悪い。
舌がひりひりする。
五歳の体は正直だ。
無理はできない。
それでも、椅子に座りながら思う。
食は削っていいものじゃない。
眠りも同じだ。
どちらも整えば、
人は少しだけ未来を考えられる。
スローライフ。
湖畔。
静かな台所。
まずは、熱いスープに勝てるようになってからだな。
(第8話 了)
疲れすぎて死んでいました。
※他作品も連載中です。
最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜
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