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勤労に感謝を。働き続けた男の、転生スローライフ  作者: 蛮ニル


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【第6話 匂いの主】

挿絵(By みてみん)

 目を開ける、という行為が。


 こんなにも体力を使うものだったか、と。

 俺はぼんやり思った。


 瞼の裏に溜まっていた闇が、薄くなる。


 光が差し込む。


 眩しい――というより、痛い。


 視界が白くにじんで、輪郭が溶ける。

 焦点が合わない。


 それでも。


 匂いだけは、はっきりしていた。


 澄んだ、静かな匂い。


 吸い込むと、胸の奥が緩む。

 呼吸がひとつ深くなる。


 昨日もそうだった。

 意識が浮かび上がるきっかけになった匂い。


 そして今。


 その匂いが近い。


 近すぎる。


 ぼやけた視界の中心に、影がある。

 黒い布の影。


 フードだ。


 深くかぶっている。

 顔の半分以上が影に沈んでいる。


 その影が、俺を覗き込んでいた。


 思っていたより距離が近い。


 好奇心か。

 心配か。

 それとも――確認か。


 どちらにせよ、覗き込む癖がある。


 俺には分かる。


 生前、何度も見たからだ。


 他人の体調や感情を、言葉より先に拾ってしまう。

 空気の変化を見逃さない。


 経営者の癖、と言ってしまえばそれだけだが、

 現場に出続けた人間の“悪い習慣”でもある。


 相手が隠しているものほど、

 こちらは気づいてしまう。


 そして、気づいたことを隠すのが上手くなる。


 ……今、目の前の少女もそうだ。


 覗き込んでいるのに、怯えている。


 矛盾している。


 だが矛盾は、傷の形だ。


挿絵(By みてみん)


 少女の目が、こちらを見る。


 光の中で、瞳の色は判別できない。

 焦点がまだ甘い。


 それでも分かる。


 ほんの一瞬だけ、

 瞳が引いた。


 肩が、わずかに強張る。


 呼吸が浅くなる。


 視線が逸れる準備をする。


 ――見られることに慣れていない。


 いや。


 見られた“あと”に、慣れてしまっている。


 逸らされる。

 避けられる。

 気まずくされる。


 そういう種類の経験を積んできた目だ。


 だからこの距離まで覗き込めるのに、

 目が合うと、逃げたくなる。


 俺は、逸らさない。


 意地ではない。


 ただ、逸らす必要がないからだ。


 俺は今、生きることに集中している。

 余計な遠慮は、命取りになる。


 少女は一瞬固まり、

 そして視線を落とした。


 逃げるのではなく、下に落とす。


 まるで、「ほら、やっぱり」という結果を待つように。


 だが結果は来ない。


 俺は何も言わない。


 評価もしない。


 詮索もしない。


 ただ――喉が痛い。


 乾いている。


 口の中が砂みたいだ。


 声を出すのは久しぶりな気がする。


 肺の空気を押し出し、

 喉を鳴らして、ようやく言葉を作る。


「……みず」


 かすれた音だった。


 自分の声が、こんなに弱いとは思わなかった。


 少女が、ぴくりと反応する。


 肩の力が少し抜ける。


 そこで初めて気づく。


 彼女も、緊張していたのだ。


 少女は小さく頷き、

 何も言わずに身を引く。


 フードの影が遠ざかる。


 匂いが薄くなる。


 薄くなって初めて、

 俺はその匂いに引っ張られていたことを自覚した。


 理由は分からない。


 魔法でも、何かの力でもない。


 ただ、体が警戒を解いた。


 生物としての本能が、

 「安全」と判断した。


 それだけだ。


◇ ◇ ◇


 少しして、足音が戻ってくる。


 今度は水の気配がする。


 コップか、木の杯か。


 液体が揺れる音。


 匂いがまた近づく。


 澄んだ匂い。


 距離が縮むにつれて、少しだけ濃くなる。


 香りではなく、存在感だ。


 少女が俺の頭を支える。


 手は冷たくない。

 熱すぎもしない。


 手際がいい。


 慣れている。


 世話慣れた手だ。


 杯の縁が唇に触れる。


 水が舌に落ちる。


 冷たい。


 ――痛い。


 喉が焼けるように痛む。


 乾ききったところに水が触れると、

 こんなふうに痛むのか。


 それでも飲む。


 少しずつ。


 急ぐな。


 胃が驚く。


 移動図書館が浮かべた文字が、頭の奥でブレーキをかける。


 水は細く、喉を通っていく。


 痛みが少しずつ引く。


 呼吸が整う。


 鼓動が落ち着く。


 それと一緒に、余計な緊張が抜けた。


 さっきまで、全身が“固まって”いたのだ。


 死なないように。


 脅威が来ても動けるように。


 その固さが、匂いと水でほどけていく。


 副交感神経が優位になる。


 前世の知識が、淡々とラベルを貼る。


 だが実際は、理屈より単純だ。


 安心した。


 俺は安心した。


 この匂いの近くで、安心した。


 それが事実だ。


 少女は杯を引き、俺の顔を見ないように視線を落としている。


 怯えが残っている。


 覗き込んでしまったことを、少し後悔しているようにも見える。


 俺は、ここでまた観察してしまう。


 癖だ。


 他人の不安に気づいてしまう。


 だが言葉は出さない。


 今、言葉を足せば、相手の傷に触れる。


 触れれば、関係が動く。


 関係が動けば、こちらの体力が削れる。


 俺はまだ、起き上がれない。


 だから、必要なことだけでいい。


 水を飲み、

 息を整える。


 生きる工程を進める。


◇ ◇ ◇


 廊下の向こうが騒がしくなる。


 子供の声。


 小走りの足音。


 そして、勢いよく扉が開く。


「起きた!? ほんとに!? ねえ、ねえ、起きたの!?」


 高い声。


 リリカだ。


 小さな影が突進してくる勢いでベッドのそばまで来て、

 寸前で止まる。


「……あ」


 そこでようやく、空気を読む。


 俺の横にいるフードの少女を見て、

 リリカは口をつぐむ。


 そして慌てて、咳払いをする。


「えっと……お、おはよう。タスク」


 おはよう。


 その言葉が、妙に現実的だ。


 昨日まで焼け跡にいた男に向ける言葉としては、

 あまりに平和で、あまりに日常だ。


 だが日常は、回復の味がする。


 リリカは視線を俺と少女の間で往復させ、

 言いたいことが山ほどある顔をする。


 それでも一応、抑える。


 偉い。


 フードの少女は、さらに視線を逸らし、

 ほんの少しだけ身を引いた。


 その動きは、やっぱり怯えの形だった。


 俺はまた、逸らさない。


 見つめるためではない。


 ただ、そこにいるから見る。


 仕事の現場で、機械を見るのと同じだ。


 異常があるか。

 壊れていないか。

 苦しんでいないか。


 癖だ。


 少女が不意に、フードの奥から小さく息を吐く。


 それは、震えではなく。


 諦めでもなく。


 ほんの僅かな――緩みだった。


 俺の視線が、彼女の予想を外したのかもしれない。


 だが俺は、それを確かめない。


 確かめるのは後だ。


 今は、水が喉を通った。


 それだけで、今日は一歩だ。


 匂いの主は、まだ名を名乗らない。


 だが俺は覚えた。


 この匂いの近くでは、

 呼吸が深くなる。


 心臓が落ち着く。


 警戒がほどける。


 生きるための工程が、少し進む。


 静かな匂い。


 静かな怯え。


 そして、静かな回復。


 俺の人生は、今度こそ。

 急がずに進める。


(第6話 了)


※他作品も連載中です。

最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜

https://ncode.syosetu.com/n0190lh/

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