【第5話 動けなくても、整えられる】
匂いで、意識が引き上げられた。
焦げた臭いではない。
焼け落ちた梁の甘苦い煙でもない。
湿った灰のこびりつく臭いでもない。
まったく違う。
澄んだ匂いだった。
花のようでいて花ではない。
甘さはほとんどない。
だが、冷たくもない。
柔らかい。
吸い込んだ瞬間、
肺の奥がわずかに広がった。
浅く刻んでいた呼吸が、
ひとつだけ、深くなる。
意識より先に、
体が反応した。
……生きている。
胸が上下している。
肋骨が皮膚を内側から押している。
喉がひりつく。
腹の奥が重い。
空腹だ。
ただ腹が減っているのではない。
削れきったあとの、
乾いた空洞。
臓器が自分の存在を主張している。
それでも痛みがある。
痛みがあるということは、
神経は生きている。
俺は、生きている。
目は開けない。
焦るな。
呼吸。
鼓動。
感覚。
順番だ。
◇ ◇ ◇
まぶたの裏は暗い。
だが光はあるらしい。
赤く、透けている。
体は重い。
若さの軽さではない。
中身が足りない軽さ。
骨が勝っている。
肉が足りない。
喉を動かす。
乾いている。
唾液が少ない。
水が欲しい。
だが今は動くな。
工程を飛ばすな。
◇ ◇ ◇
ひそひそと声がする。
「ねえ、まだ寝てる?」
「ワープアの子なんでしょ」
「死にかけだったって」
ワープア。
その単語で、
焼け跡が一瞬よみがえる。
黒い梁。
転がる男。
静かな空。
女子供が少なかった。
連れていかれた。
そこまでで止める。
今は分析はいらない。
今は生存だ。
「リリカ、あんた近いって」
「近くないもん!」
少し高い声。
背伸びした調子。
毛布が動く。
首元が、ぐいと直される。
動きが大きい。
丁寧にしようとしているが、
少し乱暴だ。
さきほどの匂いとは違う。
さきほどのそれは、
もっと静かで、
もっと自然だった。
子供たちの視線が、肌に刺さる気がする。
怖れ。
好奇心。
興味。
俺は目を閉じたまま、
呼吸だけを整える。
不用意に目を開けるのは得策ではない。
足音が退く。
部屋が静まる。
◇ ◇ ◇
遠くで歌が始まる。
ゆっくりとした旋律。
揃えようとする声。
讃美歌だろう。
一音だけ、わずかに高い。
俺はそれを聞き分ける。
妙だ。
自分が歌えば外すくせに、
他人の外れは分かる。
前世でもそうだった。
自分のことは不器用だ。
だが他人の修正点は見える。
歌が整う。
揃おうとする意志が、
音を丸くする。
秩序がある。
それだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
◇ ◇ ◇
右手を、わずかに動かす。
重い。
皮膚が骨に張り付いている。
親指と人差し指を擦る。
ざらり。
乾燥。
力を込める。
震える。
筋肉が足りない。
この体は、
襲撃以前から削れていた。
栄養が足りなかった。
休息が足りなかった。
俺は削って死んだ。
この子は削られて死んだ。
似ているが、違う。
今度は壊さない。
握る。
開く。
三回で止める。
腕がもう熱い。
工程は細かく。
再建は順序だ。
◇ ◇ ◇
腹が鳴る。
水分が欲しい。
意識を沈める。
――移動図書館。
棚が並ぶ。
『低栄養状態』
『回復期の食事』
『消化機能の再建』
読む。
急に食うな。
水は少量。
胃を慣らせ。
理屈は同じらしい。
この世界のことは何も知らない。
だが体の仕組みは変わらない。
それで十分だ。
◇ ◇ ◇
再び、あの匂いが近づく。
今度ははっきり分かる。
足音がほとんどしない。
床板を踏む重さが違う。
毛布の端が、
ゆっくり持ち上がる。
首元が、そっと整えられる。
その瞬間。
胸の奥にあった緊張が、
するりと解けた。
呼吸が深くなる。
鼓動が、ほんの少し落ち着く。
意識より先に、
体が理解している。
――安全だ。
理屈ではない。
この世界のことは何も知らない。
だが本能が警戒を解く。
敵ではない。
逃げなくていい。
守られている、と錯覚する。
匂いは強くない。
だが確かにある。
体温に近い匂い。
清潔だが、
作られた香りではない。
脳の奥が、
「安心」と判断する。
指先の震えが止まる。
肩の力が抜ける。
思考がゆっくりになる。
副交感神経が優位になる、
というやつだろう。
前世で読んだ。
だが今は理屈より感覚だ。
この匂いは、
警戒を溶かす。
目を開けない。
今はまだ、
この安心の中で、
回復を優先する。
動けなくてもいい。
整えられている。
生きている。
それで十分だ。
指を、もう一度握る。
開く。
今日はここまで。
次に目を開けるときは、
ただ起きるためではなく、
一歩、進むために。
(第5話 了)
※他作品も連載中です。
最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜
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