【第11話 読むということ】
今日も日が昇る前の朝は静かだった。
静かすぎて、逆に目が覚める。
まだ鐘も鳴っていない。
子供たちのざわめきもない。
天井を見上げる。
……落ち着け。
まずは布団を整える。
皺を伸ばす。
角を揃える。
飲食店で厨房を任されたこともある。
整えることは、仕事の第一歩だ。
睡眠と食事。
人間から切り離せない二つ。
だからこそ、丁寧に扱う。
――もっとも。
「台所は出禁よ」
ミテイにそう言われたばかりだが。
◇ ◇ ◇
猫舌騒動。
あれは事故だった。
温度確認を怠ったわけではない。
むしろ完璧にやった。
問題は、この体が想像以上に猫舌だったことだ。
口の中をやけどし、
半泣きになり、
子供たちに笑われた。
結果。
「厨房には入らないこと」
正式に通達された。
……理不尽だ。
いや、妥当か。
信用は積み上げるものだ。
今はまだ、預かり物の命だ。
ならば別の場所で積むしかない。
◇ ◇ ◇
食堂の壁。
掲示板。
文字。
読めない。
目で追える。
形も記憶できる。
だが意味が結ばれない。
その事実が、静かに腹の底へ沈む。
この世界のことを知るには、
書物を読めなくてはならない。
会話はできる。
だが会話だけでは、
世界の表面しか触れられない。
記録。
契約。
歴史。
地図。
文字は、力だ。
「読めないの?」
振り向く。
エマリア。
今日はフードが浅い。
朝の光で横顔が柔らかい。
「はい。教えてください」
迷いなく言う。
守られる側にいる時間も必要だ。
なら、教わることも受け入れる。
彼女は少し驚き、すぐ頷いた。
「いいわ」
◇ ◇ ◇
中庭の隅。
炭で板に文字を書く。
「これは“ア”に近い音」
「近い、というのは?」
「完全には同じじゃないの」
細かい。
発音も、線の角度も、真剣だ。
市場で縮こまっていた姿とは別人のようだ。
俺はなぞる。
線が震える。
「力を抜いて」
指が重なる。
体温。
そして、あの匂い。
柔らかい。
甘い。
草の奥に花が混じったような。
生前、嗅いだことのない匂い。
脳の奥が、勝手に反応する。
理屈ではない。
本能に近い何か。
危険ではないと、
深い部分が判断している。
安心、とも違う。
引き寄せられる、という表現が近い。
「どうしたの?」
「いえ」
慌てて視線を戻す。
集中しろ。
◇ ◇ ◇
「どうして急に?」
彼女が聞く。
「読めないと、世界が狭い」
「狭い?」
「何が書いてあるのか分からないと、
何を知らないのかも分からない」
彼女は少し黙る。
「……本が好きなの?」
「好きというより」
言葉を探す。
「選択肢を増やしたいんです」
「またそれ」
少し呆れた声。
「体も鍛えて、文字も覚えて」
「準備です」
「何の?」
「分かりません」
正直に言う。
「でも準備していれば、選べる」
流されないために。
それだけは、前世で学んだ。
◇ ◇ ◇
文字をいくつか覚える。
まだ読めない。
だが形が意味に近づく。
そのとき。
脳裏に、表紙が浮かぶ。
歴史書。
辞典。
漫画。
移動図書館。
アクセスはある。
だが読めない。
翻訳もされない。
この世界の文字を覚えなければ、
意味を持たない。
便利だが万能ではない。
ちょうどいい。
◇ ◇ ◇
「今日はここまで」
彼女が板を下ろす。
「毎日やるの?」
「やります」
「トレーニングも?」
「はい」
「厨房は?」
少し笑いを含む。
「……立入禁止です」
彼女は吹き出す。
「当たり前よ」
「温度管理は完璧でした」
「猫舌の時点で完璧じゃないわ」
反論できない。
◇ ◇ ◇
「文字が読めるようになったら、何を読むの?」
「この世界の歴史」
「どうして?」
「自分がどこにいるのか、知りたい」
彼女は目を細める。
「変な子」
だが声音は柔らかい。
「明日も来るわ」
「お願いします」
「無理はしないこと」
「半分守ります」
「半分じゃ足りないの」
少しだけ睨まれる。
だが、笑っている。
◇ ◇ ◇
朝の光が強くなる。
子供たちの声が戻る。
板に残った拙い文字を見つめる。
読めない世界が、
少しだけ読める世界に変わった。
厨房はまだ遠い。
だが、焦らない。
鍛える。
覚える。
積む。
信頼も、技術も、知識も。
全部、同じだ。
静かな朝だった。
だが確実に、
世界は広がり始めている。
(第11話 了)
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最強のハンター、神の光を拾う。〜滅びゆく世界で俺はもう一度守りたい〜
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