突然の返済
『あなたが可愛すぎて、ダメだ』
『俺以外にそんな顔……見せたらダメですからね』
うわああああ、もう……無理!無理!
朝起きたら、昨日のことが鮮明に蘇ってきた。
何度も甘い声で可愛いとか、そんな顔他の人に見せたらダメだとか独占欲を見せてきたり……。
こんなの恥ずかしくて耐えられない。
ただ淡々と行為をして、彼の欲を発散させて終わろうと思っていたのに……。
私まであんなに乱れて……。
昨日はおかしかった。
絶対に絶対におかしかったの!
昨日のことはもう忘れよう。
そう思いながら、私はコーヒーを淹れようと棚に手を伸ばす。
その時、背後からふわりと優しい温もりに包まれた。
「ひゃっ……!」
彼が私を後ろから抱きしめて、耳元で囁く。
「身体は大丈夫ですか?」
「なっ」
彼の吐息が耳にかかる。
その熱だけで体の芯がじんと痺れるようだった。
「べ、別になんともないわよ!」
私は彼の腕の中でもがいた。
「言っとくけど!あれは妻として役割を果たしただけだから!勘違いしないでよね!」
これは契約だ。
彼が求めたから私はそれに従っただけ。
それ以上でもそれ以下でもない。
そう自分に言い聞かせないとこの恥ずかしさに耐えられない。
だが彼は私の必死な抵抗をまるで意に介さない。
それどころか面白そうにふっとその瞳を細めた。
「分かってますよ~でもあれだけ感じてくれたら僕はそれで……」
「うわああああっ!もう今日はこっちに来ないで!」
私がそう叫びながら彼を突き飛ばす。
彼は今度こそ抵抗せず私から距離を取った。
そして降参だと言わんばかりに両手を上げる。
「はいはい。今日はもうやめておきましょう」
全く……体を許したのは妻としての役割のためだ。
決して心を渡したわけじゃない。
それから彼との安定した夫婦生活が始まってから案外時間が経った。
最初は、一緒に暮らすことすら嫌だったけど、案外この生活は悪くないものだと思っていしまっている自分もいる。
彼といると、どこか安心してしまうんだ。
ほっと力が抜ける場所が四宮くんの隣であることを自覚していた。
そんなある日の夜だった。
仕事を終えソファでくつろいでいると私のスマートフォンが鳴った。
表示された名前は「父」
お父さん……?
久しぶりだ。
最初こそ毎日のように連絡はとっていたけど、ここ最近忙しいこともあってあまり連絡をとっていなかった。
なんだろう。
私は電話に出た。
「もしもしお父さん?」
『おお美和、今大丈夫か?』
「うん大丈夫よ。どうかしたの?こんな夜に」
父の声はなんだか元気そうだった。
なにかの相談ではなさそう。
『それがな!聞いて驚くなよ』
父は興奮を隠しきれない様子で続けた。
『お前に借りていた金だ。近いうちに全額返せそうなんだ!』
「──え?」
その言葉の意味が一瞬理解できなかった。
返す?8000万円を?
私は元々父からお金がかえってくると思って渡していなかった。
これは今まで男手ひとつで育ててくれた父への感謝のために渡したものだ。
『新しい印刷技術が軌道に乗ってな。大きな契約もいくつも取れた。これも全部四宮社長が信じて力を貸してくれたおかげだ』
父の喜びの声がどこか遠くに聞こえる。
まさかお金が返せるなんて……。
「でもそのお金はお父さんにあげたものだから」
「なにを言ってる。娘から借りっぱなしだなんて父親として失格だ。ちゃんと返せるから受け取ってくれ」
私の頭の中はただ真っ白だった。
お金が帰ってくるということは、私はこの縛られた契約から解放されるということ。
それは嬉しいはずなのに……なぜだかあまり喜べなかった。
父と電話を切った後、しばらくして玄関のドアが開く音がした。
四宮くんが帰ってきた。
「ただいま」
彼は私の顔を見るなり言う。
「今日は疲れました」
「おかえりなさい」
私は彼の顔を見ることが出来なかった。
四宮くんは着替えを終えると、いつものように私の隣に腰をかけた。
言わなければ。
借金をすべて返せること。
だからもうこの契約は終わりだと。
そう言わなければいけないのに……。
言ったら終わってしまう。
……怖いの?
この生活が終わるのが。
そんなの私じゃない。
だってずっと早く返して離婚したくて仕方なかったのに。
「どうかしましたか?元気がない」
「……ううん。なんでもない」
四宮くんは心配そうな顔で私の頬にそっと触れた。
「またウソついてる」
その優しい声と温かい感触。
私はいつの間にか絆されてしまったのかもしれない。
彼の手が今度は私の髪を優しく撫でる。
「あなたは言わないと言ったら言わない強情さがあるので……」
そして彼は私の肩にこてんとあごを預けた。
「僕の方を癒してください。今日は疲れたので」
その優しい声に私の心臓がどきんと大きく跳ねた。
彼はいつもそうだ。
私のこの性格を知って先回りした優しさをくれる。
だから居心地がいいと思ってしまったのかもしれない。
「ちょっ……重い……っ」
驚いて彼を引き剥がそうとする。
だが彼はさらに強く私を抱きしめた。
「好きですよ、美和さん」
逞しい腕の中にすっぽりと閉じ込められてしまう。
ダメだ……私、たぶんミスをした。
心を許さず契約結婚を進めていくはずだったのに、どこかで彼に心を許してしまった。
それから彼に真実を告げることができないまま一週間が過ぎてしまった。
父からは約束通り私の口座に8000万円が振り込まれていた。
もうこれで確かに返すことが出来る。
それなのに黙っていてはダメだ。
四宮くんだって私と別れたら新しい道に進んでいくかもしれないのだから。
私はこの日、その足で役所へ向かい離婚届を一枚もらってきた。
自分の欄を埋めていく。
こうすれば、彼に言う決意が出来ると思ったんだ。
夜。
彼が帰宅するのをリビングで待っていた。
玄関のドアが開く音がする。
彼はいつも通り疲れた顔でリビングに入ってきた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
まだなにも知らない彼に言わなくちゃいけない。
ちゃんと言うんだ!
「あの……帰ってきて早々ごめん。話があるの」
私のその改まった口調に彼は不思議そうな顔をする。
「ええ、構いませんが……」
そしてジャケットを脱ぎ身なりを整えながらもこちらに身体を向けていた。
彼は身なりを整えたら私の前のイスに座るだろう。
面と向かって言うと決心が鈍りそうで私はまだ彼が準備が出来ない間に伝えた。
「父がね、お金を返せるくらい経営が上手くいったんだって。新しい契約も取れて軌道に乗ったって言われたの……それで、貸したお金全額私にかえってきた」
その瞬間、彼が手に持っていたネクタイがするりと床に滑り落ちた。
彼は一瞬フリーズした後、すぐに冷静さを取り戻して言った。
「……それで?」
そうね。
彼の言う通り私が言わなくちゃいけない。
「四宮くんに借りていた分のお金……これで全てお返しします」
彼は部屋着に着替えると、黙って私の向かいのイスに腰を下ろした。
その視線はテーブルの上に置かれたもう一枚の紙へと注がれている。
記入済みの離婚届。
彼はそれにゆっくりと手を伸ばした。
「なるほど……用意がいいですね」
その声はひどく冷たかった。
「お金が返せたら僕は用なしというわけか」
「ち、違う……!」
私は思わず立ち上がった。
用なしとかそうじゃなくて、四宮くんを縛っていたのは私だと思うから……解放してあげないといけない。
そう思ったのに彼は私の言葉など聞こえていないかのように、ただ冷たく笑った。
「書きますよ約束でしたから……でも最後くらい僕のお願いを聞いてください」
「お願いって……」
そこまで言うと四宮は私の手を掴んで寝室に連れていく。
「ちょっ……!」
有無を言わさぬ力強さで彼は私をベッドへと押し倒した。
そして四宮くんは静かに告げた。
「……美和さん、今ここで好きって言ってください」
「えっ」
「それが僕の最後の願いです」




