彼女を愛おしいと感じた日【四宮怜side】
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
俺は、腕の中で穏やかな寝息を立てる彼女の重みを感じながら、ゆっくりと目を覚ました。
彼女はまだ寝ている。
子どものように無防備な顔ですやすやと寝息をたてている姿を見ると、自分に心を開いているように錯覚できて愛おしく感じた。
本当はまだ俺に心を開いていないことは分かってるんだけどな……。
俺は、起こさないようにそっと彼女の頬にかかった髪を払った。
昨日は彼女と一晩過ごした。
『そうですね……ならあなたが欲しい』
そう言ったのは確かに俺だったが……。
『心まであげるつもりはないから』
……まさか、違う意味で受け取ってしまうとは思わなかった。
今夜は一緒に寝てほしいと言ったのは、ベッドで隣で寝ないかという誘いのつもりだった。
それを彼女は行為のことだと捉えたらしい。
彼女の反応をからかうように意味深な言い回しをした俺も悪いが、まさか桐谷さんがそう捉えるなんて思いもしなかった。
彼女はこの結婚を受け入れていないのに、妻としての務めはこなさないといけないと思っている節がある。
そういう真面目なところが愛おしくもあり、付け入れられそうな危うさを感じるところでもあった。
結婚だって、女性がそう簡単にしていいものではないだろうに。
俺という悪い人間に付け入られた彼女は必死に妻としての役割をこなそうとしてる。
そんなところが愛おしくてたまらない。
本当に可愛い人だ……。
覚悟を決めたような表情で俺の上に乗り上げ『主導権は渡さない』と言い放ったところ。
強がって俺を睨みつける潤んだ瞳。
必死に声を抑えようとして漏れてしまう甘い喘ぎ声。
その全てがどうしようもなく愛おしい。
絶対に知られたくない。
彼女の全てを知るのは俺だけでいい。
俺は眠る彼女の額にそっとキスを落とした。
「……ん……」
最初に彼女に目を引かれたのはいつの頃だったか……。
数ヶ月前、俺は身分を隠しこの会社にやってきた。
配属されたのは、営業企画部だった。
「よろしく四宮くん」
すぐに桐谷さんが俺の教育係となった
彼女が率いる営業企画部は社内でも最も厳しいとウワサされる場所だ。
その理由は定例会議を見ればすぐに分かった。
「……以上が来月度の販促企画案になります」
発表を終えた若手社員の声が緊張で震えている。
会議室の重い沈黙を破ったのは桐谷さんだった。
「それで?結論は?ターゲット層への具体的なアプローチが何も見えない。ただの願望でしょうそれは」
彼女は淡々と事実だけを告げる。
その言葉は刃物のように鋭く若手社員の自信を切り裂いた。
「時間の無駄よ。練り直して、明日までに」
「は、はい……」
うつむく部下。凍りつく空気。
誰も彼女に逆らえない。
その後ろ姿を見ながら俺は静かに息を吐いた。
そんな強い言い方したら、そりゃ怖がるだろうに……。
彼女のやり方はいつもそうだ。
確かに正しいことを言っている。
しかしあまりにもストレートすぎる。
その厳しさのせいもあってか、彼女はいつも一人で戦っているように見えた。
『桐谷さん、飲み会誘う?』
『いい、いい!誘ったらつまらなくなるじゃん!』
そんな会話を実は彼女は聞いているんだよな……。
偶然見かけてしまった彼女がきゅっと唇を噛みしめるところ。
そんな風に傷つくならあんな言い方しなけりゃいいのに。
もっとうまくやれば人生は楽になる。
特に人は味方につけておいた方が生きやすいって知らないのか?
この人はあまりにも不器用すぎる。
俺は桐谷さんに対してそんな風に思っていた。
しかしそれが覆ることになる。
彼女は戦う理由があって戦っていたのだと。
ある日。
会社の命運を左右する重要な最終交渉の日がやってきた。
「本日の訪問先ですが……例の会長がお相手です」
タクシーに乗り込む直前、俺は隣を歩く彼女にそう告げた。
相手は業界でも有名な老獪な会長。
女性を侮る癖があることでも知られていた。
社内でも彼のその悪評は有名だった。
女性がいっていい結果になったことを見たことがない。
「ここは男性社員に任せた方がいいのではないでしょうか」
俺のその提案に彼女はぴたりと足を止めた。
そしてゆっくりとこちらを振り返る。
その瞳には今まで見たこともないほどの強い怒りの光が宿っていた。
「……絶対に嫌」
低い静かな声。
普段は表情を変えないが、この日は怒っていることが伝わってきた。
「どうして性別が違うだけで結果が変わるわけ?私が必ず契約をもぎ取ってみせる」
そう言って彼女はタクシーに乗り込んだ。
彼女はなぜそこまで頑なになるのだろう。
わざわざ傷つきに行く必要はない。
彼女はもうたくさん結果を出しているというのに……。
そして交渉の場。
重厚な応接室の空気は案の定、鉛のように重かった。
「こちらが弊社が提案する新商品Bの市場予測であり……」
その目は品定めするように彼女を頭のてっぺんから足先まで見下ろしている。
彼女が完璧なデータとロジックを提示しても会長は鼻で笑うだけだ。
「キミのようなお嬢さんには、まだ早いんじゃないかね」
会長はそう言って侮蔑をしてから、視線を隣の俺に向けた。
「さて男同士で本題に入ろうか」
場の空気が凍りつく。
だから言ったのに……。
人の考えを変えるなんていうのは、どう考えても無理だ。
だったら難しい方で行くのではなく、突破できそうな戦い方を考えないといけない。
これじゃあ彼女は傷ついたあげく、モチベも下がるだろうに。
そう思って彼女の顔を見る。
しかし彼女は、その侮辱に表情一つ変えなかった。
そして完璧な笑みを浮かべるとこう言った。
「会長。御社の五年前の大失敗……その原因をご存知ですか」
「……なんだと?」
そこから彼女は相手の過去の経営判断のミスを的確にそして容赦なく指摘していく。
会長の顔はみるみるうちに顔面蒼白になっていた。
まさか自分が見下していた相手にこんな風に言われるとは思わなったのだろう。
「その失敗の根本的な原因は、旧態依然としたマーケティング手法にあります。時代は今、変わっています」
彼女はそこで一度言葉を切った。
そして一枚の資料をテーブルの中央へと滑らせる。
「ですが弊社の新しいシステムを導入すれば、その地図は最新のものにアップデートされると思うんです。失敗から学びを得る……これはとてもいい歴史になります」
圧巻のプレゼンだった。
ここまで踏み込んで話をする人間はなかなかいないだろう。
会長は完全に沈黙した。
さてどうなる。
この会長を怒らせたら、クビが飛ぶのは確定だが……。
長い長い沈黙の後、会長が重々しく口を開いた。
「……桐谷さん、と言ったね」
「はい」
「たしかにキミの言っていることは正しく、そして事実であった。こんなにハッキリと言われたのは初めてだよ。そこまで入って意見を言ってくれるのなら信頼が持てる。そちらの会社と契約を結ぼう」
会長はそう言うと立ち上がり彼女に手を差し出した。
すごいな……。
ここまでやり遂げてしまうとは……。
彼女はその手を迷うことなく強く握り返した。
桐谷さんの力で商談は成立した。
俺たちは応接室を出てタクシーを待ちながら外で話しをした。
「桐谷さんの商談力、すごかったです。見習わないといけませんね」
「別に……私はいつも通りしたまでよ」
あれだけのことを成し遂げても、その少しも浮かれていない姿がまた彼女らしかった。
「でもあそこまでして戦わないといけないのは、辛くないですか?」
俺が静かに尋ねると、彼女は言う。
「……私が戦わなければ、状況が変わらないからよ」
状況が変わらない……?
「この業界はまだ古い。女だというだけで見下されるし、まともに話すら聞いてもらえない。悔しいけどそれが現実よ」
彼女は自分の拳を強く握りしめる。
「でも、だからこそ戦わなければ変わらない。私が壁になって、道をこじ開ければ後に続く女性たちが少しは楽になるかもしれないでしょう?」
俺はなにも言えなかった。
そこまで考えていたのか……。
「他の女性が性別なんかと戦わなくていいような未来にしたいの」
そのために自分を傷つけてまでもこの商談を成立させたのか……。
「すごい、ですね……」
気づけばそう言葉が出ていた。
すると、彼女は初めてふわりと笑った。
「そんなこと無いわ」
──ドキン。
初めて見た……。
この人、こんな顔もするのか。
いつも鎧を纏っている彼女のそのあまりにも無防備な笑顔は心を打たれるものがあった。
ああ、そうだ。
俺はまだこの人を知らない。
でも確信した。
きっと彼女を知れば知るほど俺は……この人に恋愛感情を持つようになる。
その言葉通り、俺は彼女と仕事をすることが楽しみになっていた。
でももうこんな時間も終わりか……。
明日にはこの会社の社長としてみんなの前に出なければいけなくなる。
その時、彼女はなにを思うだろうか。
騙されたと俺のことを軽蔑するだろうか。
そんなことを考えていた時。
『……いくら必要なの』
俺は聞いてしまった。
彼女の秘密を。
『8000万……』
8000万?
あまりの大金に最初はホストとかからお金をだまし取られているんじゃないかと思った。
ってあの人に限ってないか。
『……ごめんお父さん、私もそこまでは持ってなくて……なにか方法がないか調べてみる。だからもう少しだけ待ってて』
お父さん……?
俺はすぐにスマホで桐谷さんの苗字をいれた。
そこにヒットしたのは桐谷印刷という小さな会社だった。
企業の公式サイトらしきものはあるが更新が止まっていて、数年前の業界新聞の記事には厳しい経営状況に置かれていると書かれていた。
どうやら経営難に陥っているらしい。
彼女が一人でどうにかできる規模の話ではないことだけはすぐに分かった。
なるほど……そういうことか。
気づけば俺は彼女の前に出ていっていた。
『ずいぶんと、お困りのようでしたので』
彼女に意地悪をしたかったんじゃない。
助けたいと思った。
自分なら力を貸せるとも……。
『その8000万、僕なら用意することが出来ます』
それから不器用な彼女が変な道へ進まないためという意味もあった。
誰かのためなら自分が傷ついても構わないと考える彼女なら、父親のために自分を売ったりしそうだと思った。
それだけは絶対にさせたくない。
そして翌日、俺は身分を明かし同じ話をもう一度桐谷さんにした。
『うちが桐谷印刷と提携パートナーになることだって可能だ』
ただ純粋に助けたいという気持ちだけだったが、彼女の目には屈辱の目が宿っていった。
そりゃそうだよな……。
彼女は今まで一人で戦ってきたタイプの人間だ。
誰かの力を借りなければいけない、この提案には軽蔑しているだろう。
でも救えるのは俺しかいないから。
『ではどうするおつもりですか?あなた一人の力で8000万という大金を用意できるとでも?それともお父様のご実家は見捨てるおつもりですか?』
無理にでもこちらの案に乗るように促した。
俺を睨みつける桐谷さん。
彼女への自分の気持ちは気づいていた。
社長としてみんなの前に出る前に告げておけば少しは状況が変わったかもしれない。
でもここまで黙っていた罰というものだろう。
彼女は俺を睨みつけた。
嫌いな人間を見るような目で……。
そうだ。
俺と彼女は手を差し伸べ救い出すような関係ではない。
それなら……。
「でもあなたは人にものを頼むのが嫌いだ。だからそうだな……僕からもあなたにお願いをしたい。そうすればこの契約はフェアになる」
俺は新しい提案をした。
ビジネスの契約ならお得意だろう?
早く乗ってくれ、この条件に。
『……なにが望みなの』
そう尋ねられ、俺はすぐに答えた。
『僕と結婚してください』
その時の、ほんの少しの安堵と俺を心の底から軽蔑するようなあの瞳を俺は、一生忘れることはないだろう。
彼女は俺のことをこれからそうやって軽蔑していくのかもしれない。
でもそれでも放ってはおけなかった。
自分の好きな女性を手に入れる方法としては卑怯だったかもしれない。
でも美和さん……。
「絶対にあなたを守ってみせますから」
彼女はまだ知らない。
俺がどれだけ彼女に惚れているか。
この結婚が俺にとっては、ただの契約ではないということを。
今はまだいい。
いつかキミが本当の意味で俺の妻になるその日まで。
この気持ちは大事にとっていこうと思う──。
隣で寝ていた桐谷さんの瞼が薄く開かれる。
「ん……」
潤んだ瞳が数回瞬きをして、そして目の前にいる俺の存在をはっきりと捉えた。
どうやら起きたみたいだ。
「おはようございます」
声をかけると俺の胸から慌てたように身を離し。彼女はシーツを胸元まで引き上げる。
そしてキッと目を吊り上げながら言った。
「昨日のことは……忘れて」
ふっ……。
かわいいな。
そういうところが愛おしいというのに。
「それは無理な相談ですね。昨夜のあなたは、あまりにも可愛すぎた」
「なっ……!」
忘れてと言いながら、その顔は正直に昨夜のことを思い出しているのだろう。
みるみるうちに耳まで真っ赤に染まっていく。
その分かりやすすぎる反応にぎゅっと抱きしめて包み込んでしまいたくなった。
「知らない!記憶から抹消する!!」
ああ、もう……。
こんなに俺の方が気持ちが大きくなる恋愛は今まで初めてだ──。




