けだるい日
翌週。
私は新規プロジェクトのリーダーとして、かつてないほどの多忙を極めていた。連日深夜までの残業、休日も返上してカフェに移動して資料作りをしていた。
借金だって出来るだけ早く返したいもの。
今は、四宮くんに借りたお金も毎月定額ずつ彼に返している。
まだまだ完済にはほど遠いけれど、もっと頑張って実力が認められれば出世できるかもしれない。
そのためには頑張るしかない。
私は仕事に没頭した。
「桐谷さん、顔色が悪いですよ。少し休んだ方が……」
「平気よ。それよりこのデータの分析、今日の夕方までにお願いできる?」
「それは構いませんが……」
「ならお願い」
部下の気遣う声にも、私は壁を作った。
ひとりで出来る。
だってこれは私の仕事だ。
やりとげなければ、結果はついて来ない。
その夜、マンションに帰宅したのは日付が変わる少し前だった。
シャワーだけを浴びてリビングに戻ると、私は再びノートパソコンを開いた。
明日までに、この企画書を完璧に仕上げなければならない。
カチャ、と背後で小さな物音がして振り返ると、書斎から出てきた四宮くんが呆れたような、それでいて心配そうな顔で私を見ていた。
「……まだ、仕事を?」
「ええ。追い込みをかけないと」
私は視線を画面に戻し、キーボードを叩く作業を再開する。
彼が私の隣のソファに腰掛ける気配がしたが、気にしないふりをした。
「働き過ぎでは?」
「別にいいでしょ」
棘のある声が出たのは、彼の言葉が図星だったからだ。
「土日もあなたは出掛けるフリをして仕事をしていますよね?」
バレていたのか……。
用事があるとウソをついてこの週末はほとんど家に戻らなかった。
それは、仕事をしたかったからだ。
「それだけじゃない、ここ最近帰りは12時を超えることも多い」
「……仕事については口を出さないって言う約束だったでしょ?」
契約結婚の際に交わした、数少ない約束の一つ。
仕事については口出しをしないこと。
それを盾にするなんて、我ながら卑怯だけれど、早くどこかに行ってほしかった。
「あなたの仕事への情熱は尊敬します。ですが、それじゃあ体を壊します」
「別にそれでも……」
いいじゃない。
そう続けようとした私の言葉を、彼が遮った。
「いいと?」
その声は今までになく低く、真剣な色を帯びていた。思わず顔を上げると、すぐ間近に、射抜くような強い瞳がある。
いつの間に後ろに……。
「あなたは人への甘え方を知らなすぎる。借金は別に返さなくていい。そうやって無理して返してほしくない」
「返さないと、あなたと離婚が出来ない」
そう告げると、四宮くんは黙った。
「……余計な、お世話よ。私は自分で決めたペースで返していくから」
私は誰かに甘えながら生きていくような女じゃない。
一人でいい。
そうやって生きてきたし、これからもそうだ。
そう自分に強く言い聞かせ、私は彼の視線から逃れるように再びパソコンへと向き直った。
ここまで言えば、彼も諦めてここから去っていくだろう。
そう思っていたのに。
「僕たちは夫婦だ」
今日の彼は少し頑固であった。
その言葉に、心臓がどきりと跳ねる。
思わず、キーボードを打つ手が止まった。
「これじゃあ夫婦になった意味がない」
静かだが突き刺すような声が続いた。
夫婦って……契約上の関係じゃない。
彼が言うような「意味」なんて、最初からどこにもないはずだ。
「あなたこそ、この結婚が仮のものだって忘れたんじゃないの?お互いに深入りしない。それが条件だったはずよ」
私の言葉に彼はなにも答えなかった。
ただ、部屋の空気が一瞬で冷え込んでいくのが分かる。
やがて、聞こえてきたのは諦めを含んだ深いため息だった。
「……そう、ですね。その通りだ。ですが、無茶だけはしないでください」
彼はそれだけを言い残し、私に背を向けて寝室へと消えていった。
佐伯くんにフラれた直後はよく無理をした。
頭に思い出す余裕がないくらい仕事を詰め込んでこなしていった。
でも年のせいか今は無理するとしっかり体に出るようになったわね……。
翌日。
体の不調は明らかだった。
「ふぅ……」
頭痛が続き、時折視界がぐらりと揺れる。
ここまで体調が悪くなったのは久しぶりだ。
でも、それももう今日で終わる。
走り切らなければ……。
私は、カフェインと気力だけで体を動かし続けた。
今日がこのプロジェクトの正念場だ。
今日が一番大事な日になる。
よし、行こう。
唇をきつく結び、私は最後の力を振り絞って立ち上がった。
役員会議室の重い扉を開ける。
部屋の中は、凍りついたような沈黙に支配されていた。
コの字型に配置された長机には、社長である四宮を筆頭に、会社の行く末を左右する役員たちが顔を揃えている。
誰もが険しい表情で、プロジェクトの失敗を告げる資料に目を落としていた。
その視線の一つ一つが、無言の圧力となって私にのしかかる。
特に、上座から私を静かに見つめる四宮社長の視線は、他の誰のものよりも重かった。
彼の前で、無様な姿は見せられない。
この契約のためだけではない。私自身のプライドが、それを許さなかった。
「……それでは、本プロジェクトのリカバリープランについて、ご説明いたします」
私は熱で霞む頭を必死で回転させ、用意したスライドをスクリーンに映し出した。
問題点の分析、改善策、そして新たな予算案。
よどみなく、冷静にただ事実とロジックだけを積み重ねていく。
「桐谷課長。そのプランでは、人員を割きすぎではないかね?」
「ご指摘の点は、こちらのシミュレーションデータをご覧ください。短期的なコスト増を補って余りあるリターンが期待できます」
「しかし、リスクが大きすぎる」
「リスクについては、こちらの第二案でヘッジします。ご覧ください」
次々と飛んでくる厳しい追及を、私は完璧なデータと理論で切り返していく。
消耗していく気力とは裏腹に、頭は冴え渡っていた。
大丈夫。やれる。
私は、一人でここまでやってきたのだから。
ちらりと四宮社長に目を向ける。
彼は表情を変えず、ただ真っ直ぐに私を見つめていた。
その瞳の奥の色は読み取れない。
全ての質疑応答を終え、私はプロジェクトの成功を確信した。
これ以上、誰にも文句は言わせない。
最後の力を振り絞り、私は締めくくりの言葉を口にした。
「……以上で、説明を終わります」
静かにそう告げ、役員会議室の重い扉を開ける。
「結果は審議した後に伝えるよ」
四宮くんの言葉に返事をし、頭を下げると一歩、廊下へと足を踏み出す。
扉が閉まった瞬間、張り詰めていた糸が、ぷつりと切れたのが分かった。
「……はぁっ」
終わった……やっと。
壁に手をつき、ようやく浅い呼吸を繰り返す。
つか、れた……。
安堵したのも束の間、急激に血の気が引いていくのが分かった。
「う……」
ぐらりと視界が大きく揺れ、周りの声がまるで水の中にいるみたいにくぐもって聞こえる。
まずい、早く……デスクに、戻らなきゃ。
気力だけで足を前に進めようとするが、言うことを聞かない。
視界の端から、じわじわと闇が広がってくる。
「──っ!」
とっさに壁を掴もうとした手は、空を切った。
倒れる!
そう思った時、体に走るはずの衝撃はいつまでたってもやってこなかった。
代わりに力強い腕が、私の体をぐっと引き寄せるように支えていた。
「……桐谷さん!」
今まで聞いたこともないような、切羽詰まった声。
床に叩きつけられる寸前、駆け込んできた影が、滑り込むように私の体を抱きとめた。
彼はふわりと私の体を抱き上げた。
スーツ越しに伝わる確かな体温と、心臓の音。
その心地よさに抗うこともできず、私は彼の胸に顔をうずめるようにして、意識を手放した。
「ん……」
次に目を覚ました時、私は見慣れた寝室のベッドの上にいた。
窓の外は、もうすっかり夜の帳が下りている。
「……気がつきましたか」
声のする方へ顔を向けると、ベッドサイドのイスに腰掛けた四宮くんが、静かに私を見つめていた。
「私……」
「職場で倒れたんです。なので私がここまで運びました」
「……そう」
記憶が蘇り、全身から血の気が引いていく。
最悪だ。社内の人間の前であんな無様な失態を。
それも、注意されていた彼に介抱されるなんて。
「……ごめんなさい。迷惑、かけたわね」
「迷惑だなんて少しも思っていませんよ。それよりも……」
彼はゆっくりと立ち上がり、私の額にそっと手を当てる。
ひんやりとした感触が、熱い肌には気持ちよかった。
「まだ熱が高い。今日はもう、なにも考えずに休んでください」
「でも、まだ仕事が……」
「まだ仕事のことですか?全く飽きれた」
その言葉がなんだか見放されてたみたいで私は切なくなった。
返す言葉もない。
だってその通りだもん。
「あなたが倒れた時、生きた心地がしなかった」
「え?」
思わず顔を上げる。
彼はベッドから少し離れた壁際に立ち、私から顔をそむけるようにして、固く拳を握りしめていた。
「あなたにとってはただの契約結婚かもしれない。それもいつかは縁の切る予定の。でも僕にとってはそうじゃない。覚えておいてください、僕はあなたのこと守るつもりで籍を入れたと……」
守る──。
どういうことなの。
さっぱり意味が分からない。
「とにかく今は寝てください。なにかして欲しいことがあればなんでもしますから」
彼はそれだけを言い残すと、部屋を出て行ってしまった。
熱で朦朧とする頭では、答えなんて見つかるはずもなかった。
ただ彼の温かい手の感触だけが、まだ私の肌に残っている。
その余韻に安堵したのか抗えない眠気が押し寄せ、私はゆっくりと意識を手放した。
それからどのくらい時間が経っただろう。
「……さむい」
体の芯から這い上がってくるような不快感で私は目を覚ました。
体は燃えるように熱いのに、骨の髄が凍えるように寒い。
悪寒が、全身を襲う。
「……ぅ、……」
私はたまらず、身を縮こまらせて布団を喉元まで引き上げた。
「はぁ……はぁ」
苦しい。
こんな時にはどうしても思い出してしまう。
まだ幼かったあの日々を。
病気で日に日に痩せていく母の手を、ただ握りしめることしかできなかった、無力な自分を。
『美和は強い子だから……お父さんのこと、お願いね……』
消え入りそうな声で、母はそう言った。
私は泣きたかった。嫌だと叫びたかった。
でも、そんなことを言って母を困らせてはいけないと必死で涙をこらえた。
強い子でいなければ……。
寂しいなんて、辛いなんて言ってはいけない。
私が、しっかりしなくちゃ。
「おかあ、さん……」
熱に浮かされた頭で、無意識に母を呼ぶ。
忘れていたはずの、どうしようもない孤独感と冷たい絶望が、体の芯から這い上がってくる。
その時、ガチャリと静かにドアが開く音がした。
入ってきたのは、飲料水と氷枕を持った四宮くんだった。
「美和さん……?」
心配そうに駆け寄ってくる彼。
「なにか話してましたか?」
「別に……なにも」
ゆっくりと足音が近づいてきてそっと額に触れる。
ひんやりとして気持ちがいい……。
「……ひどい熱だ」
四宮くんは盆と水の入ったグラスをサイドテーブルに置いて私の氷枕を替えてくれた。
「ん……」
薄く目を開けると、心配そうな顔で私を見下ろす四宮くんと視線が合った。
「……しの、みやくん。うつるかもしれないから、いい」
「妻が高熱でうなされているのに、放っておけるわけないでしょう?それこそ夫として失格だ」
彼はそう言うと私の体をゆっくりと抱き起こし、背中にクッションを当ててくれた。
グラスを私の口元に運び、ゆっくりと水を飲ませてくれる。
「わたし、たちは契約結婚だからそんなこと、までしなくて、いい……」
たどたどしく言葉をつむぐと、四宮くんは一瞬だけ手を止めて言った。
「あなたはいつまでも強情だ。じゃあ僕がしたいからします、それでいいですね」
有無を言わさぬ口調で告げる四宮くん。
身体がだるいのもあってか、それ以上反論はできなかった。
ぬるくなった氷枕がまた冷えて、少し体が楽になった。
このまま眠れるかもしれない……。
そう思った時、彼はひとり言のようにつぶやいた。
「キミは……人に甘えなさすぎる」
その言葉が、熱で緩んだ心の隙間にすとんと落ちてくる。
だって甘えたって返ってくるとは限らないじゃない。
拒否されるかもしれないし、キャラじゃないって跳ねのけられてしまうかもしれない。
最初から一人でいた方がマシだ。
「強く、ならなきゃ……」
まさか返事が返ってくると思わなかったのだろう。
四宮くんは私を見つめた。
「強く、ならなきゃ……いけない」
ああ、私……熱にうなされて変なことを言ってる。
こんなこと、四宮くんに言う必要なんてないのに……。
頭がぼうっとするせいだ。
四宮がはっと息をのむ。
しばらくの沈黙の後、彼は私の髪を優しく撫でながら語りかけるように言った。
「……ずっと、強くいる必要はないですよ。人はみんな誰かに寄りかかって生きている。だからそれを迷惑だなんて思う必要はないんです」
四宮くんの声が心地よく頭に響く。
こんなに言い声をしていたっけ……。
まるで自分の中の鎖を解いてくれるようなそんな声だった。
「……その寄りかかれる存在が僕だといいんですけどね」
少しだけ、照れたように付け足された言葉に私の胸がきゅっと締めつけられる。
頼ってもいいんだ……。
私は彼に身を預けても迷惑だと思われない……?
彼はいつもそうだ。
その温かい手で、私の居場所を作ろうとしてくれる。
努力してないのは私の、方……。
彼はそれだけを告げると、静かにイスから立ち上がった。
その背中が、遠ざかっていく。
いやだ。
行かないでほしい。
今日はこのままここにいて……。
気づいた時には、私は彼の袖を弱々しく掴んでいた。
「……!」
立ち止まる四宮くん。
「……行か、ないで」
自分でも驚くほど、小さい声が出た。
ゆっくりと振り返った彼の顔は、驚きに目を見開いていた。
「それは……やられたな」
彼は小さく息を吐くと、私の手を取ってそっとベッドサイドのイスに腰を下ろした。
「よくできましたね」
まるで小さな子どもをあやすように、空いている方の手で私の頭を優しく撫でた。
大きな手の温かさに、今までずっと張り詰めていた体からふっと力が抜けていく。
子どもじゃないんだから。
人に甘えただけなのに、褒められるなんて変なの……。
でも心地よい手のひらの感触と、彼の優しい声が私の心の奥底に固く凍っていたなにかを、ゆっくりと溶かしてくれた。
四宮くんの側ってなんだか……心地、いい──。
「寝てしまいましたか……」
しばらくして、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始めたのを確かめると、四宮はそっと彼女の頭を撫でていた手を止めた。
眠っている彼女の顔は、起きている時の険しさがウソのようにあどけない。
やっと。
やっと弱音を吐いてくれた……。
まだ時間がかかると思っていた。
だから。
『……行か、ないで』
そう言われた時、どうしようもないほどの愛しさが込み上げてきた。
危なかったな……。
風邪じゃなかったら思わず本音をもらしていたところだ。
俺はゆっくりと顔を近づけ、美和さんの額にそっと自分の唇を落とした。
「……早く、よくなってくださいね、美和さん」
そのつぶやきは、静かな寝室に優しく溶けていった。




