9話
土曜の午前、図書館の窓際は水の光がやさしい。
ノートの端に猫、炎、時間のメモ。ホワイトボードのない場所でも、見える仕組みは持ち運べる。
「今日は簿記論から。一付箋一仕訳」
「はい。定義は短く、理由は長く」
「……理由は、後で」
「後で」
最初の一問で、桐原の筆が止まる。商品有高帳の行が細かい。
僕は口を出さない。代わりに、ノートの余白に小さな矢印を一本だけ描く。
“ここからここまでが動く”――視線の手すり。
五分かけて、彼女は自力で立て直す。
「方法は合っています」
「よかった。……ねえ、間違えた問題について泣くのはいつがいいと思います?」
「座ったあとです」
「だよね」
僕はスマホのタイマーを10:00にして、机の右上に置いた。
「十秒だけ、どうぞ」
桐原は俯いて、十秒だけ泣いた。泣いたというより、水を替えた。
残りの九分五十秒を、表の線に置いていく。
ピッと鳴ったら、付箋の炎を一枚、ノートの端に貼る。
「落ち込みって、量があるんですね」
「量があるから、成長できます」
「……なんか、許せます」
「何を」
「昨日の私を」
十一時の休憩。自販機の冷たいボトルを両手で持つ。
「コンビニ受験の図書館版ですね」
「そうです」
「“目で済む”も、少しできた」
「照合と明日の付箋。合格です」
帰り際、桐原が言う。
「麻生さんって、いないと寂しい人なんですね」
「そうですね」
「恋って感じじゃなくて、お互いに支え合ってる」
「うまい言い方です」
別れたあと、僕のスマホが震えた。
《今日の“ありがとう”、明日ちゃんと渡す。》
短いほど、伝わる。
*
十秒泣いて、九分五十秒で座り直す。
成長のある職場は、歩ける。
明日の私へ。“ありがとう”は濃いめで。