8話
月末が近づくと、紙は勝手に歩く。やはり、紙は性格を持っているのだろうか。
素直な紙は順序どおりに並び、気の強い紙は端っこに逃げ、いたずら好きの紙は、誰も見ていない隙に山の下へ潜る。
プリンタが吐き出す白は、いつ見ても少し気持ちがいい。けれど今日は、胸のどこかに淡い灰色が残っていた。
「安西さん、今日の麻生さん、来社は午後でしたっけ」
桐原がホチキスの音を小さく鳴らしながら、さりげなく訊ねる。
「午後。最終入稿前の確認だけ」
「はい」
それだけの会話。灰色は、音を立てない。
昼前、麻生さんが来た。黒いジャケットに、光りすぎないグレーのネイル。
「こんにちは」「こんにちは」
それだけで、職場の空気が一段、整う。
僕はモニタの前に立ち、必要な箇所だけ短く言う。「ここ、見出しの行間、半ピッチ。写真は明るさ+5」
麻生さんは頷いて、笑わない目で確認する。信頼しているから、冗談を置かない。
「じゃ、いつもの二重保してから送るね」「お願いします」
たぶん、ふたりの会話を、遠くから見ていたら仲がいいように見える。
でも、手すりみたいな距離だ。つかまるためにある、倒れないための距離。
玄関まで送ると、麻生さんが振り返った。
「安西くん、新人さん、いい目してる」
「ええ」
「早口のタイミング、教えてあげて。あなた、そこだけ救命用並に速いから」
「……気をつけます」
「気をつける方じゃなくて、頼ってもらう方。ね」
ふっと軽く笑って、エレベーターに消えた。
恋のない笑顔は、長く残る。
いないと寂しい。けど、隣に座る席ではない。――そういう誰かが、職場に一人いると助かる。
席に戻ると、桐原のモニタ下に猫と“?”が並んでいた。
「新種ですか」
「疑問の付箋です。……“なぜ”は危険だから、剥がせる紙に出しました」
「いい方法です」
「“?”は、夕方までに半分にします」
「半分で十分です」
午後、段ボールの山をタテ・ヨコ・タテで組み替える。重心を指先で確かめて、角を合わせて、押すだけ。
通路が少し広くなった。桐原が「段ボールテトリス、上達しました」と小さく笑う。
夕方、麻生さんから修正データ。
「受け取りました。助かりました」
「こちらこそ。――新人さん、いい歩き方する。止まり方も」
「そう、ですか」
「うん。止まれる人は、力を溜めて進める」
通話を切ると、桐原がプリンタの白を目で追いながら言った。
「さっきの方、綺麗でした」
「仕事の速い人です」
「……綺麗と速い、似てる」
「似ています。取り落とさないという点で」
彼女は頷いて、“?”を一枚、そっと剥がした。
角を二度押して、“ありがとう”の付箋に置き換える。
灰色が、少しだけ薄くなる。
夜。所長が廊下の向こうで言う。
「貸し借りの気持ちも、帳簿に乗るよ。日々の業務だ」
「当日に処理できる仕訳がいいですね」
「そう。翌日振替不可」
帰りのエレベーター。
非常灯の緑は、止まらないための色。
「安西さん」
「はい」
「今日のありがとう、明日、濃いめで言います」
「僕も、明日受け取る濃さを用意しておきます」
*
“?”を出しておくと、心の中の“なぜ”が静かになる。
麻生さんの笑わない目、嫌いじゃない。職場の手すりみたいだ。
明日の私へ。“ありがとう”は濃いめで。