7話
二十一時、ぱちんと音がして、事務所が半分だけ夜になった。
モニタは落ち、非常灯が緑の輪郭線で棚や机を縁取る。
廊下の先で、所長の声。
「安西くん、各席の電源確認。桐原さん、受付と備品チェックを頼む。終わったら階段の踊り場まで一緒に回って」
「はい」「はい」
暗い場所の歩き方を、僕は知っている。
角を合わせて、押すだけ――は紙の時。
夜は、段差と人の気配を見る。
受付のカウンター下、予備電池の箱。数を指で数える。
備品棚の封筒・切手。
冷蔵庫には、斉藤のラベルなしゼリー飲料が三本。没収はしない。今日は。
「非常灯って、安心の色ですね」
「そうですね」
「緑って、“進め”の色だからかな」
「止まらないための色です」
二人で踊り場に出る。窓の外の街が、別の地図みたいに静かだ。
桐原がポケットから付箋を取り出し、“非常灯=止まらない色”と書いて、スマホの裏に貼った。
「落ち着くための言葉を持ち歩くの、好きです」
「僕も、好きです」
戻る途中、給湯室で小さな音がした。
見ると、湯沸かしポットのスイッチが入ったまま。
桐原がひょいとコードを抜き、スイッチを押して赤い点を消した。
「未来の自分が泣くので」
「はい」
見回りを終えて自席へ戻ると、非常灯の下でも見える場所にだけ字の濃い付箋が残っていた。
猫、炎、それから**“定義は短く、理由は長く”**。
桐原は自分の席に座り、暗いキーをゆっくり叩く。保存だけは、非常灯でもできる。
点検が終わり、灯りが戻る。
白い世界に目が慣れるまでの数秒が、少し惜しい。
非常灯の夜には、言葉の余白が増えるから。
「安西さん」
「はい」
「今日、ありがとうってたくさん言えてよかったです」
「僕も、ありがとうと言われて助かりました」
言葉が、自分の脳内に並ぶ音がした。
感謝と承認、貸借のバランスが合うのは、たまにでいい。合った夜は、長く眠れる。
帰り支度。
ホワイトボードに近づき、僕は付箋を一枚、自分から貼った。
“『偶然は接点。接点は手入れすると縁になる』”
角を二度押さえて、桐原を見る。
彼女は猫を一つ描いて、僕の付箋の左下に貼った。
「続き、明日もやりましょう」
「明るい頭で」
エレベーターに乗る。
扉が閉まる直前、斉藤が廊下の角から手を振った。
「おつー! 明日、弁当会ね! 俺の冷蔵庫のやつ、誰も手出すなよー!」
「冷蔵庫のゼリーは保護しました」
「保護!?」
扉が閉まる。
小さく笑う音だけが、箱の中に残った。
*
非常灯の色は、止まらないための色。
“ありがとう”と“続く”を、今日も貼れた。
偶然=接点。接点の手入れ=隣を選ぶ。
明日の私に、ちゃんと渡す。