6話
翌朝。雨は上がり、空の青が少しだけ戻っていた。
出社すると、ホワイトボードに新しい付箋が増えている。“包括利益”、“その他の包括利益”、“一株当たり当期純利益”。字の丸みで、桐原のだと分かる。
「朝、十五分だけ早く来ました」
「明るい頭ですね」
「はい。」
彼女は照れ隠しに付箋を一枚追加した。“『定義は短く、理由は長く』”。
僕はそれを指で軽く叩いた。
「定義は短く、理由は長く。良い言葉だ。今日の合言葉にしましょう」
午前中は、会議が詰まった。
新規の見積もり、既存クライアントの見直し、経費精算のルール改訂。
森下先輩が配った資料には、“リモート経費の上限”の欄が赤く塗られている。
「ここ、“どこで・なにを”の標識を必須に。『在宅』みたいな言葉はやめる」
「はい」
会議が終わって自席に戻ると、桐原がふいに言った。
「安西さん、今日、早口多めですね」
「そうですか」
「説明の時は、早口でいい。結論の時は、ゆっくり」
「誰の教えですか」
「ホワイトボードの」
「ボードが喋るようになったら、疲れています」
「たぶん、疲れてます」
昼。机ランチ。
彼女の弁当箱には、前より色がある。ミニトマトと卵焼き、ブロッコリー。
「栄養は、続くための仕組みです」
「どこで学んだんですか」
「昨日の私の反省会で」
「自己管理がうまい」
「『未来の私が賢い』って安西さんが言ったから、賢くなれる食べ物から始めてみました」
「理屈が強い」
午後。データベースが止まった。
エンジニアの返信は「復旧まで30分」。
所内の空気が止まり、椅子のきしむ音だけが小さく響く。
「こういう時、何をやるかのリストがあると強い」
僕は机の引き出しから紙の束を出した。『システム停止時のやることリスト』。
「紙でできる仕事を挟む。“目で済む”ことを終わらせる」
「“目で済む”……照合、付箋の整理、明日の準備」
「その三つ」
二十分で復旧。思ったより早かった。
桐原は“目で済む”を三つ終え、付箋に“0:04”“0:06”“0:09”**と小さく書き込んでいた。
続く人の数字だ。
夕方。
デザイナーの麻生さんから修正データが届き、僕は確認の電話を入れた。
「ありがとうございます。助かりました。――はい、助かりました。ええ、また」
電話を切る。
振り向くと、桐原が何でもない顔でこちらを見た。
「麻生さん、すごく仕事の速い人でした」
「速いです」
「“助かりました”を二回言ってました」
「本当だったので」
ほんの少しの沈黙。
それから、彼女は自分のメモ帳に何かを書き込んだ。
『嫉妬は、“なぜ”じゃなくて“ありがとう”で薄まる』
僕が何か言う前に、机の付箋の角を二度、指で押さえた。
貼る、という動作に、言葉が要らないときがある。
夜。所長が廊下から声をかける。
「ブレーカーの点検が入る。二十一時に一度停電するから、保存を忘れないように」
「はい」
非常灯の夜が、予告された。
*
“定義は短く、理由は長く”。
“嫉妬は“ありがとう”で薄まる”。
どっちも、言い切りが気持ちいい。
私の“続く”は、今日もホワイトボードに貼られた。