5話
翌日は予報とは違い朝から雨だった。
午前中、来客の対応で外を回って戻ると、事務所の前の通りに雨粒の線がいくつも斜めに走っていた。
ビルのエントランスで、桐原が濡れた前髪を指先で押さえ、空を見上げる。
「止みませんね」
「止みません」
「戻りの電車、人が多くて」
「この時間は、みんなが諦める時間です」
僕はドアの脇の簡易カサ立てから一本を抜いた。黒。
「相合い傘は未使用にしたいので、一本は貸します」
「イートイン未使用、みたいに言わないでください」
「業界用語語で安心します」
「分かります」
二人で歩幅を合わせる。
このビルの前の段差は、雨の日にだけ滑りやすくなる。僕は知らないふりで半歩だけ左に寄り、彼女の足が段差から外れるように動線を作った。
桐原は、気づかないふりでありがとうと小さく言った。
コンビニに寄って、封筒とペンと小さい飴を買う。
レジ前で彼女がポツンと尋ねる。
「訂正仕訳って、雨みたいですね」
「雨」
「最初の一滴のうちに拭けばきれい。放っておくと、水たまりができる」
「いい例えです」
「『間違いを責めず、原因を並べる』って、濡れたところを見つけて拭く感じがします」
たまに出る、言葉の芯。
僕は飴の袋を一つ渡して、外の雨を見た。
「雨足が強い。タクシーにしましょう」
「はい」
車内の窓に水が流れ、信号の色がぼやける。
桐原はスマホのメモアプリに、箇条書きで三行だけ書いた。
《訂正仕訳=雨》《最初に拭く》《“なぜ”は翌朝》
短い。短いほど、残る。
事務所に戻ると、ホワイトボードが壁際に立てかけられていた。白が広い。猫と炎の付箋2つだけ、端に貼られている。
「使い方は簡単です。簿記論は仕訳の型、財務諸表論は“定義”。一付箋一要素」
「一付箋一要素」
「『費用は、発生主義で認識』『包括利益の内訳』……言えるように、見えるように置きます」
「見えるように置く」
桐原は、“現金主義と発生主義”と書いて貼った。
僕は横に“費用収益対応の原則”。
睨み合うように並んだ二枚が、少し可笑しかった。
夕方、斉藤がホワイトボードを見て「受験生の下宿かよ」と笑った。
「コンビニ受験です」
「何それ」
「空いた時間に一問ずつ買い食いする感じ」
「うまいこと言った!」
笑いの後、デスクに戻る。
雨音はまだ途切れない。空調の音と混ざって、白いノイズみたいに集中を残してくれる。
夜、定時を越えるころ。
桐原がプリンタ横で見慣れない女の人に頭を下げているのが見えた。
森下先輩――ではなく、外注のデザイナーの麻生さん。安西さん、いつもありがとうございます、と聞こえる。
桐原は少し離れた位置で、二人の会話が終わるのを待っていた。
麻生さんが帰った後、桐原がきゅっと笑顔を貼って戻ってくる。
「さっきの方、綺麗でした」
「仕事が速い人です」
「……あの、安西さんの……」
「取引先です」
「はい」
貼った笑顔が、微かに剥がれる音がした。
誤解の芽は、たいてい音を立てない。
僕は普段どおりに仕事へ戻り、**明日の“やること付箋”**を二枚だけ書いて、机の隅に置いた。
帰りのエレベーター。
非常灯の緑が、雨の粒に光の輪をつけている。
桐原は何も聞かない。
僕も何も言わない。
言葉を足さない沈黙の選択は、相手を信じるのと同じくらい、難しい。
*
“綺麗な人”。
その三文字を、“なぜ”に結びつけない練習をした。
付箋に猫を描いて、貼る。
“明るい頭で探す”は、こういう夜のためにある。