4話
三月の後半になると、紙は性格を持ち始めると思う。
素直な紙は順番どおりに集まり、気難しい紙は机の隅に逃げ、悪い紙はどこかで行方をくらます。段ボールは積み重なるたびに重力を賢く使うようになって、事務所の通路は、もはや“運搬者のセンス”を試す迷路だ。
「安西くん、こっちの決算の箱、**“未済”から“済”**へ回していい?」
「未済の中で“試算表待ち”と“確認待ち”に分けましょう」
「なるほど。二山にするのね」
森下先輩の声が落ち着いている。僕は台車の上で段ボールをタテ・ヨコ・タテと組み替え、重心を指先で確かめた。
隣では桐原がA4の紙束を両腕に抱えて、歩幅を小さく前へ運んでくる。腕が短いのではない。紙の方が大股なのだ。
「“済”の箱、こっちで合ってますか」
「合ってます。ラベルの右上に日付を。“未来の自分へ”」
「は、はい。未来の私、今日も泣かせない」
桐原の机には、相変わらず猫と炎が描いている付箋。今日は加えて、クリアファイルの端に小さなメモが一枚。手書きで“探す五分”とある。
昼に話して以来、彼女は本当に“探す時間”をメモし始めていた。五分を超えたら後は仕組みの問題。午後だけで二回、五分が鳴った。
「安西さん、質問です。“仮払金”が増え続けるのは、どう止めればいいでしょう」
「“仮払金”は迷子の一時避難所です。避難所が増えるのは標識不足。**入力フォームに“どこで”“なにを”**を必須にしましょう。そうすれば正しい勘定科目に振替できますよ」
「標識……なるほど。『どこ』『なに』の二つを、逃がさない」
「逃がさない、は正しい言い方です」
くるりと体をひねって段ボールを最奥へ押し込み、台車を引き抜く。たったそれだけで通路が少し広くなった。
桐原が「すごい……段ボールテトリス」と小声で言う。
「コツは角を合わせて、押すだけです」
「会計と同じ」
「会計と同じ」
午後いち。斉藤が缶コーヒーを二本持って現れた。
「おつかれ。桐原ちゃん、社会人デビューにして初繁忙期どう?」
「走りながらメモしてます」
「いいねえ。……あれ、猫の横にメモが増えてる。5分? これ何」
「『探す五分』です。それを超えれば後は仕組みの問題ですから」
「意識高っ。俺にも貼ろうかな」
「斉藤さんはまず“机の上の化石”を発掘しましょう」
「辛辣!」
笑いが散って、また集中が戻る。
小さな笑いは、紙の海に浮かべるブイみたいなものだ。戻る場所があると、沈まずにいられる。
夕方、来客が重なった。領収書の束に現金出納帳の金額が一致せず、小口現金の袋からは寂しい音がする。
所長が新しい領収書綴りを持って現れ、いつもの低い声で言った。
「帳簿の帳尻は急には合わない。日々の仕訳が、いつか合うんだ」
「はい」
「焦って“なぜ”に手を出さないこと。原因は、資料が揃ってから翌日の明るい頭で探す」
“なぜは危険”を所長まで言ってくれるのは、僕としてはありがたい。
桐原は真顔で頷き、付箋に“明るい頭で探す”と書いた。そこに小さく猫。
彼女は自分の言葉で覚えるのが上手い。続く人の書き方だ。
定時をだいぶ過ぎる。
プリンタがトナーの匂いを吐き、電卓が短い息をして、湯呑みがカタ、と申し訳なさそうに鳴る。
桐原の横顔は、朝より落ち着いていた。十五分の研修が、彼女の指に染みていくのが分かる。
「安西さん。これ、訂正仕訳……合ってますか」
「見ます」
紙を受け取り、赤ペンで×の上に訂正の矢印を描く。“間違いを責めず、原因を並べる”。
彼女はその矢印をじっと見た。
「きれい」
「図形として、ですか」
「いえ、許し方として」
言葉の選び方が、時々いい。
帰りの時間。桐原が紙袋を持って立ち上がる。
「今日、プリンは……」
「今日はやめましょう。明日の頭に残ります」
「そうでした。明るい頭で探す」
外はぱらぱらと雨。ホールのガラスに小さな水紋が散る。
エレベーターを待つ間、僕は自分でも意外なことを言った。
「明日は、ホワイトボードを一枚、壁際に出します」
「勉強用ですか」
「はい。簿記論と財表、書きたい式を“付箋一枚一式”で。視界に映る場所に置く」
「見える場所……続くための標識」
「そうです」
エレベーターが来る。扉が閉まる寸前、斉藤が廊下から顔を出した。
「明日、午後から雨らしいよー! 桐原ちゃん、折りたたみ持ってきなー!」
「は、はい!」
扉が閉まって、二人で小さく笑った。
*
“探す五分”を貼ったら、五分が見えるようになった。見えると、減らせる。
“なぜ”を削ると、謝り方が優しくなる。
許し方がきれいな先輩に、明日の私も教わりたい。