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3話

 夜のビルのエントランスは、少し埃っぽい甘さがある。コンビニの自動ドアが開くと、コーヒーの香りが重なった。

 冷蔵ケースの前で、僕らは同時に一つのプリンに手を伸ばし、同時に引っ込める。


「どうぞ」


「どうぞ」


 また重なる。笑って、別の棚から同じプリンをもう一つ取る。


「半分こ、じゃない」


「半分こにするには、スプーンが二本要るので」


「なるほど」

 

 レジへ並ぶあいだ、桐原は足元を見つめ、靴の先で床の線をなぞるみたいに考えていた。


「初日って、もっと叱られるのが仕事だと思ってました」


「叱られても、続かなければ意味がないので」


「続く」


「続く」


 同じ言葉を同時に言って、少しだけ照れた。


 事務所へ戻るエレベーターが、三階と四階のあいだで一瞬だけ止まる。ドアの隙間から非常灯の緑が覗く。短い静寂。


 桐原はポケットからスマホを出しかけて、やめた。代わりに、低い声で言う。


「安西さんって、すごいですね」


「すごくないです」


「すごいです。今日、私の“続く”を作ってくれたので」


「それは、桐原さんが自分で作ったものです」


「半分こ、ですか」


「そうですね」


 ウィン、とモーターが唸ってエレベーターは動き出す。短い停止は偶然。けれど、偶然の中で交わした言葉は、たぶん偶然じゃない。


 夜の事務所。蛍光灯の白が、机の上の影をかすかに濃くする。


 モニタの隅では、猫の絵文字と炎の絵文字が並んでいた。二つの顔が、今日の全部を簡単に要約しているのが、少し悔しい。


「そういえば、税務署からの電話、さっき受けてましたよね。怖くないんですか」


「怖くないです。相手も僕たちと同じ人。たいてい事務連絡」


「“相手も人”……はい」


 心配の正体を知ると、たいていの不安は少し縮む。彼女の肩の力がすっと抜けたのが、横目でも分かった。


 電卓が短い悲鳴を上げる。「ん」


「どうしました」「電池が。……さっき私、買いに行ったのに」


「大丈夫。予備、あります」


 引き出しからボタン電池。袋の角を切り、銀色の丸を押し出す。桐原が目を丸くする。


「なんでもあるんですね」


「なんでもはないです。必要だったものだけ、残ってる」


「格言っぽい」


「副産物です」


「副産物、三回目」


 電池を替えると、表示は元気を取り戻した。キーボードの音が少しだけ速くなる。


「チェックリストの右上、“桐原”。ああいうの、安西さん、よくするんですか」


「よくはしません」


「じゃあ、珍しい」


「珍しいです」


「なんで今日、してくれたんでしょう」


 “なぜ”は危険だ。言葉が余計な筋肉を使う。削るべきか迷って、削らない方を選ぶ。


「たぶん、ですけど」


「はい」


「名前があると、続くからです。“自分ごと”にすると、続く」


「……なるほど」


 桐原は付箋に『続く』と書き、その右に小さく猫、さらに炎。


 紙片の端が少しはみ出る。こういう余白の使い方は、嫌いじゃない。


 斉藤が遠くで声を上げる。「税務署から折り返し来たよー!」


 受話器を肩に挟んだ斉藤の軽口に、桐原がくすっと笑う。


 僕は電話を取り、用件を淡々と捌いた。


 切ったあと、所長の低い声が廊下から聞こえる。誰に向けるでもない独り言のように。


「帳簿の帳尻は、急には合わない。毎日の仕訳が、いつか合うんだよ」


 僕はモニタの明かりを落とす。朝は“ただの隣”だった席が、少しだけ居心地を覚えた。


 偶然で置かれた距離。でも、今日の十五分と二十七分と、プリン二つは、偶然のせいじゃない。


 帰り支度をしながら、桐原が言う。


「明日も、猫と炎、貼っていいですか」


「どうぞ。眠い顔の絵文字は使わないで下さいね。」


「了解です。……おやすみなさい」


「おやすみなさい」


 並んで出口へ向かう。自動ドアが開くと、夜風が少し冷たかった。コンビニ袋の中でプリンの空き容器が小さく触れ合い、かすかな音を立てた。


 非常灯の緑で見た横顔を、たぶんずっと覚えている。“偶然”に、ありがとうって名前をつけたい夜がある。付箋の猫と炎は、明日の私のための摘要。

 “なぜ”はまだ書かない。書けるようになったら、きちんと書きたいから。

 続ける。続けられる。となりの席が、優しい先輩だから。

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