24話
七月の終わり、朝の光は紙より薄い。
ホワイトボードの隅に時間のメモが増えていた。手書きで「90/10」「新しいことは増やさない」。横に小さく「下見は“新しいこと”に含めない」――桐原の字。
「会場の下見、今日の十の休みに差し込んでもいいですか」
「いい心掛けです。“見るべきときに見る”の典型」
「帰りは気持ちの最短で」
「気持ちの最短?」
「途中にプリンがあるかも、ってことです」
「計画段階で甘味を入れない」
「は〜い。気を付けます」
午前の九十。桐原は猫、炎、時間メモの順で付箋を 整え、タイマーの音を出さずに押す。
総合問題は、出題者の“癖”が出やすい。取れるところから。
迷いかけたとき、彼女はノートの端に小さな四角を描き『十秒』と書いた。落ち込む十秒速。
十秒のあと、数字が定義の短い顔を取り戻す。
ピッ。
休憩十分。僕らは最寄り駅から会場までを歩いた。
交差点で歩道橋を避けるルート、雨の日に滑りやすい段差、タクシー待ちの列の伸びる向き――“当日に迷わないための迷い”を集めて、付箋に落としていく。
「会場のドア、開く向きが内ですね」
「帰りの人とぶつからないよう、左に寄る」
「標識にします」
会場を一巡したあと、小さな公園に寄った。
風鈴の音が一つだけ、木の陰で鳴っている。
桐原は短い影の中で、深呼吸を二回。“深呼吸は無料”と所長の字が脳裏で笑った。
「本番の朝、ここで十秒もらっていいですか」
「予約、受け付けました」
「当日仕訳で」
「はい」
戻り道、斉藤からメッセが来た。
《受験票、今夜もう一回二重チェックね! “赤字箱”の横に受験票箱置いといた》
桐原が小さく「了解」の猫を描いて送り、僕の横でふっと笑う。
“続く人”の笑い方だった。
午後の九十は財表。定義は短く、理由は合格ライン。
桐原は語尾を「〜である」で揃え、“なぜ”は薄くのルールを指でなぞる。
途中、ホワイトボードの隅に新色の付箋が一枚増えた。薄い青。六月の青の残りだ。
『当日メモ:左寄り、ドア内開き、十秒、風鈴』――角を二度押す。
夕方、麻生さんからチャット。
『本日版、二重保存。背もたれ在宅。試験週は“背もたれ低め”で』
低め。寄りかかりすぎない高さ。倒れない距離の調整を、言葉で助けてくれる。
帰り際、桐原がホワイトボードの下に紙箱を置いた。
“受験票の箱”。
上に猫が一枚、ふたの封のように貼ってある。
「隣人ルール、ver.6にします」
「追記をどうぞ」
「『受験週は“未投函”を右上で保管。開封は“風がある日”』」
「風、予報されました?」
「私の中では」
エレベーターの非常灯は、今日も止まらないための色だった。
八月の入口の音が、階段の隙間から少し匂った。
*
《桐原カット》
“当日に迷わないための迷い”を集めると、呼吸が整う。
受験票の箱に猫を貼った。当日の私が迷わないように。




