2話
透明の下敷きをワークスペースにし、クリップでレシートを五枚ずつ束ねる。紙の端が反らない角度で置き、電卓には薄い厚紙、シャチハタは先にキャップを外して置く。いつもお決まりのルーティン。スイッチが入る。動作の順番は、いつも同じがいい。
「まず、並べ替えの順番を固定します。日付→取引先→内容→金額。後から誰が読んでも意味が通る“物語の順序”です」
「物語……レシートにも、物語」
「摘要欄は、五つの問いでほぼ書けます。『いつ、だれが、どこで、なにを、なぜ』。迷ったら“なぜ”は削る。原因の推理は未来の自分に任せる」
「“なぜ”削っていいんだ……」
「“なぜ”は危険です。正義感が出るので。たとえば『社長が自分の物を会社のお金で勝手に買った』――人を疑う必要がある。つまり、未来の自分が傷つく」
「たしかに」
「なので記帳する時はまずは、“いつ・どこで・なにを”だけでいい。『3/10 コンビニでテープ・電池・おにぎり購入』。ここから科目を切り分ける」
「おにぎりと電池が同居……コンビニのレシート、大家族ですね」
「軽減税率で食事は8%、ただしイートイン未使用。“電池”は10%。ここで“どこで”が効く。“どこで”が引っかかると、後で思い出せる」
彼女は付箋に『いつ・だれ・どこ・なに』を書き、小さく笑った。
僕は彼女のレシートから一枚取り上げ、サンプルを一つ作って返す。
《3/2 山王コンビニ テープ・電池・おにぎり(所外移動前)》――括弧は余裕があるときだけ、と添える。
「“所外移動前”、かっこいい」
「そのかっこよさは副産物です」
「副産物、好きです」
くだらない会話は、仕事の音を少し遠くに押しやる。次の束を渡し、紙の角を指で軽く叩く。音でテンポを作ると、手が迷わない。
「インボイス番号はここ。必要なときだけ別ファイルへ。毎回は見ない。『見るべきときに見られる』のが一番大事」
「“見るべきときに見られる”……」
「チェックリスト、渡します。桐原版」
A4の右上に小さく“桐原”。フォント9pt。気づかれないほど小さく――気づいてほしい位置に。
彼女はすぐに気づいて目を丸くし、それから笑った。
「私の名前、入ってる。……うれしいです」
「印刷しただけです」
「はい。でも、うれしいです」
十五分の予定は二十七分で終わった。途中、斉藤が「新人研修は課金制になりました」と言ってお菓子を置き、森下先輩が「摘要は未来の自分への手紙ね」とだけ言って通り過ぎ、所長が廊下で釣り雑誌を開きながら「人生も帳簿も貸借があるんだよ」と呟いた。
雑音は多いのに、彼女の集中は途切れず、ペン先の迷いは最後にかけて減っていった。
「思ってたより、書けるかもしれない」
「“思ってたより”は伸びしろです」
「早く“なぜ”を書けるようになりたいです」
「お願いします。あともう一つ。『探す時間』をメモしておいてください。五分を超えたら、仕組みの問題です」
「仕組みの問題……人の問題にすると、未来の私が泣く」
「そうです」
桐原は付箋に可愛らしい猫の絵文字を描き、僕のモニタ脇にぺたり。続けて炎の絵文字も一枚。
「眠い顔の絵文字も描けますけど、貼らない方がいいですよね」
「眠いは業務に支障があるので、保留で」
「了解です。猫の絵文字と炎の絵文字で」
午後。電話が重なり、プリンタが紙を飲み込み、データベースが固まって、誰かの「なんで?」が空調に吸い込まれていく。受付の優香が来客用の湯呑みを一つ割って「厄落とし」と笑った。
四時過ぎ、外回りから森下先輩が戻る。
「トナーが切れてる。誰かコンビニで黒を買ってきてくれ」
斉藤が手を挙げかけて、すぐ下ろした。「僕、銀行寄りたいんで、遠回りになるかも」
僕が席を立ちかけたとき、隣から小さな声が割り込む。
「私、行きます」
パスケースを握りしめた桐原の目に、ちいさな火が灯っていた。
「型番はここ。領収書は忘れずに」
「“いつ、だれが、どこで、なにを”。慣れるまで“なぜ”は削ります」
「合格」
十分で戻った彼女は、頬を赤くしてトナー箱を掲げた。
「買ってきました!」
「早い」「近かったです」「領収書」「あります」
箱を開け、交換。カートリッジの粉の匂いが懐かしい。
「難しいですか」
「角を合わせて、押すだけ」
「角を合わせて、押すだけ……会計と同じ」
プリンタが唸り、白い一枚が吐き出される。その白さは、いつ見ても少し気持ちがいい。
――定時のチャイム。誰も立たない。三月の定時は飾りに近い。
「安西さんって、静かですけど、時々早口になるんですね」
「そうですか」
「“五つの問い”、そこだけすらすらって」
「……そうかもしれません」
段取りを並べるとき、迷っている相手に手がかりを渡すとき、僕は早口になる。過去にそれで押しつけがましいと嫌われたことがある。だから抑えている。
でも今日は、抑えない方がいい気がした。
「早口、好きです。今日、たくさん助けてもらったので。ありがとうございます」
「どういたしまして。でも、後輩を助けるのは先輩として当然の仕事です。桐原さんのミスは僕のミスですから」
言い慣れない礼儀が、今日は自然に口を出た。
そして――腹の底で空腹が鳴る。
「甘いもの、食べますか」「食べます」
「プリン、半分こしましょう」
“未来の私”に、ちゃんと手紙を書いた。『いつ・だれ・どこ・なに』。“なぜ”は、削っていい。
右上に“桐原”って印字されたチェックリスト。名前があると、続く。たぶん、ほんとに続く。
プリンは半分こじゃなくて一人一個になったけど、それでも嬉しい。スプーンが二本だと照れる、って気づいてしまったから。