表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/9

2話

 透明の下敷きをワークスペースにし、クリップでレシートを五枚ずつ束ねる。紙の端が反らない角度で置き、電卓には薄い厚紙、シャチハタは先にキャップを外して置く。いつもお決まりのルーティン。スイッチが入る。動作の順番は、いつも同じがいい。


「まず、並べ替えの順番を固定します。日付→取引先→内容→金額。後から誰が読んでも意味が通る“物語の順序”です」


「物語……レシートにも、物語」


「摘要欄は、五つの問いでほぼ書けます。『いつ、だれが、どこで、なにを、なぜ』。迷ったら“なぜ”は削る。原因の推理は未来の自分に任せる」


「“なぜ”削っていいんだ……」


「“なぜ”は危険です。正義感が出るので。たとえば『社長が自分の物を会社のお金で勝手に買った』――人を疑う必要がある。つまり、未来の自分が傷つく」


「たしかに」


「なので記帳する時はまずは、“いつ・どこで・なにを”だけでいい。『3/10 コンビニでテープ・電池・おにぎり購入』。ここから科目を切り分ける」


「おにぎりと電池が同居……コンビニのレシート、大家族ですね」


「軽減税率で食事は8%、ただしイートイン未使用。“電池”は10%。ここで“どこで”が効く。“どこで”が引っかかると、後で思い出せる」


 彼女は付箋に『いつ・だれ・どこ・なに』を書き、小さく笑った。

 僕は彼女のレシートから一枚取り上げ、サンプルを一つ作って返す。

 《3/2 山王コンビニ テープ・電池・おにぎり(所外移動前)》――括弧は余裕があるときだけ、と添える。


「“所外移動前”、かっこいい」


「そのかっこよさは副産物です」


「副産物、好きです」


 くだらない会話は、仕事の音を少し遠くに押しやる。次の束を渡し、紙の角を指で軽く叩く。音でテンポを作ると、手が迷わない。


「インボイス番号はここ。必要なときだけ別ファイルへ。毎回は見ない。『見るべきときに見られる』のが一番大事」


「“見るべきときに見られる”……」


「チェックリスト、渡します。桐原版」


 A4の右上に小さく“桐原”。フォント9pt。気づかれないほど小さく――気づいてほしい位置に。

 彼女はすぐに気づいて目を丸くし、それから笑った。


「私の名前、入ってる。……うれしいです」


「印刷しただけです」


「はい。でも、うれしいです」


 十五分の予定は二十七分で終わった。途中、斉藤が「新人研修は課金制になりました」と言ってお菓子を置き、森下先輩が「摘要は未来の自分への手紙ね」とだけ言って通り過ぎ、所長が廊下で釣り雑誌を開きながら「人生も帳簿も貸借があるんだよ」と呟いた。

 雑音は多いのに、彼女の集中は途切れず、ペン先の迷いは最後にかけて減っていった。


「思ってたより、書けるかもしれない」


「“思ってたより”は伸びしろです」


「早く“なぜ”を書けるようになりたいです」


「お願いします。あともう一つ。『探す時間』をメモしておいてください。五分を超えたら、仕組みの問題です」


「仕組みの問題……人の問題にすると、未来の私が泣く」


「そうです」


 桐原は付箋に可愛らしい猫の絵文字を描き、僕のモニタ脇にぺたり。続けて炎の絵文字も一枚。


「眠い顔の絵文字も描けますけど、貼らない方がいいですよね」


「眠いは業務に支障があるので、保留で」


「了解です。猫の絵文字と炎の絵文字で」


 午後。電話が重なり、プリンタが紙を飲み込み、データベースが固まって、誰かの「なんで?」が空調に吸い込まれていく。受付の優香が来客用の湯呑みを一つ割って「厄落とし」と笑った。


 四時過ぎ、外回りから森下先輩が戻る。


「トナーが切れてる。誰かコンビニで黒を買ってきてくれ」


 斉藤が手を挙げかけて、すぐ下ろした。「僕、銀行寄りたいんで、遠回りになるかも」

 僕が席を立ちかけたとき、隣から小さな声が割り込む。


「私、行きます」


 パスケースを握りしめた桐原の目に、ちいさな火が灯っていた。

「型番はここ。領収書は忘れずに」

「“いつ、だれが、どこで、なにを”。慣れるまで“なぜ”は削ります」

「合格」


 十分で戻った彼女は、頬を赤くしてトナー箱を掲げた。


「買ってきました!」


「早い」「近かったです」「領収書」「あります」


 箱を開け、交換。カートリッジの粉の匂いが懐かしい。


「難しいですか」


「角を合わせて、押すだけ」


「角を合わせて、押すだけ……会計と同じ」


 プリンタが唸り、白い一枚が吐き出される。その白さは、いつ見ても少し気持ちがいい。


 ――定時のチャイム。誰も立たない。三月の定時は飾りに近い。


「安西さんって、静かですけど、時々早口になるんですね」


「そうですか」


「“五つの問い”、そこだけすらすらって」


「……そうかもしれません」


 段取りを並べるとき、迷っている相手に手がかりを渡すとき、僕は早口になる。過去にそれで押しつけがましいと嫌われたことがある。だから抑えている。

 でも今日は、抑えない方がいい気がした。


「早口、好きです。今日、たくさん助けてもらったので。ありがとうございます」


「どういたしまして。でも、後輩を助けるのは先輩として当然の仕事です。桐原さんのミスは僕のミスですから」


 言い慣れない礼儀が、今日は自然に口を出た。


 そして――腹の底で空腹が鳴る。

「甘いもの、食べますか」「食べます」

「プリン、半分こしましょう」


 “未来の私”に、ちゃんと手紙を書いた。『いつ・だれ・どこ・なに』。“なぜ”は、削っていい。

 右上に“桐原”って印字されたチェックリスト。名前があると、続く。たぶん、ほんとに続く。

 プリンは半分こじゃなくて一人一個になったけど、それでも嬉しい。スプーンが二本だと照れる、って気づいてしまったから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ