16話
六月に入ると、朝の光は紙より薄くなる。
ホワイトボードの端に時間メモが増えた。「90/10」と手書き。桐原の字だ。
「直前期は“90分やる、10分休む”にします」
「いい習慣です」
「“新しいこと、増やさない”も横に貼りました」
「もっといい習慣です」
ボードには、もういくつか合言葉が並んでいる。
『定義は短く、理由は長く』
『ありがとうは当日仕訳、翌日持越不可』
『“?”は付箋に出す』
『赤字は箱に落として、学びを隣に貼る』
午前の90分は、簿記論の総合問題。
桐原は猫、炎、時間メモの順で付箋を並べ、タイマーを押す音を小さくした。
最初の一問で小さくつまずき、目だけ僕を見る。
僕はノートの隅に短い矢印を置く。“ここからここまでが動く”。
彼女はうなずいて、十秒だけ目を閉じ、残りの89分で立て直した。
「“落ち込む十秒速”、便利です」
「単位ができると、量が測れます」
「量が測れると、座り直せます」
10分の休憩。湯呑みの湯気が、季節に追いつこうとしてすぐ負ける。
斉藤が顔を出して、「90/10って筋トレみたいだな」と笑う。
「筋肉は裏切らない」
「仕訳も裏切らない」
「うまいこと言った!」
午後、“見るべきときに見られる”のために、インボイスの別ファイルを整える。
桐原がふと口にする。「麻生さん、今日、来ますか」
「在宅の日です。データは夜に来る」
「二重保存の音、好きです」
「僕も」
夕方、所長が釣り雑誌を片手に通りすがって、ふいに言った。
「焦りは、前払いの利息だからね。払っても元金は減らない」
「では、利息ゼロの方法を」
「90/10と、よく寝る」
「はい」
「あと、専門用語を使って会話しない」
退社前。
桐原が“隣人ルール ver.3”の下に、小さく追記した。
『直前期は“90/10”。90は一緒でも、10は自由』
「休む方法、相手に合わせないルールです」
「いい追記です」
エレベーターの非常灯は、今日も止まらないための色。
彼女が小さな声で言う。「十の休みで、“今日のありがとう”を思い出すの、好きです」
「濃度が上がります」
「はい」
*
90の中で動いて、10の中でありがとうを濃くする。
“新しいことを増やさない”を貼ったら、試験勉強は上手く行く。仕事では新しいことを増やしたいな。




