15話
繁忙期の小さな打ち上げは、事務所の丸テーブルにピザと唐揚げとジュースに少量の酒類。
大村が紙皿を配り、斉藤が「ゼリーは持参」と言って笑い、森下先輩は一人でポテトを整列させる。
「ありがとうの交換帳、今夜だけ二つまで可ね」
大村の提案で、ホワイトボードの列が賑やかになる。
『プリンタのトナー、角を合わせて押すだけ、ありがとう』
『“落ち込む十秒速”の単位、ありがとう』
『匿名のレモン、効いた(濃いめ)』
『相合い傘ルール ver.3、助かった』
桐原は、一つ目に『今日のテーブル、斉藤さんが片付けまでやってくれてありがとう』、二つ目に『安西さん、今日の“赤字の箱”、ありがとう』と書いた。
僕は横に猫を置く。当日のうちに、受け取った印。
少し風が強い夜だった。
外のベランダに出ると、春の匂いが紙より軽い。
並んで柵にもたれて、息を合わせる。
「隣って、距離のことだと思ってました」
「はい」
「でも最近、置き方のことだなって」
「置き方」
「“ここに置いておいてもいい”という気持ち。付箋とか、ありがとうとか、疲れとか」
「預かれる相手、ということですね」
「はい。預けすぎない相手でもある」
彼女の言葉は、定義が短い。
理由は、明日に長くしていい。
室内へ戻ると、ホワイトボードの隅に隣人ルール ver.3が増えていた。
- 助けは呼ばれたら一回だけ(据え置き)
- 緊急はノーカウント(据え置き)
- “ありがとう”は当日仕訳。翌日持越不可(据え置き)
- “?”は付箋へ(据え置き)
- 早口は安心の合図(新規)
- 相合い傘はありがとうで処理(新規)
- “赤字”は箱に落として、学びを隣に貼る(新規)
斉藤が「ルール多くない?」と笑う。
大村は「ルールは“続くためのしるべ”だよ」と、ポテトを一本つまんだ。
手すりがあると、歩ける。歩けるから、今日の距離が少しだけ延びる。
解散の時間、玄関で靴を履く音が重なる。
桐原が小さく手を振る。「おやすみなさい」
「おやすみなさい」
廊下の非常灯は、今日も止まらないための色をしている。
僕はホワイトボードの“禁止ワード”を消し、赤い×を箱に落とし、角を合わせて押すだけで椅子を納めた。
扉を閉める直前、春風が一歩分だけ室内に入ってきた。
偶然は、接点。
接点は、手入れをすると縁になる。
明日の付箋を、僕は一枚だけ机の右上に置いた。『まだ途中』。
*
隣は、置き方。
預けすぎないで、預ける。
“今日の分”のありがとうが、明日の私をちゃんと助けてくれるはず。