14話
週の中ほど、初めての“赤字”が出た。
僕のではない。桐原のでもない。
ホワイトボードの右上に、赤で小さく×が一つ。
『メール添付ミス(相手先に古いファイル)』
書いたのは桐原。当日仕訳のルールに従って、その日のうちに貼った。
「対処は送信取消+最新送付+電話一本。“なぜ”は明日の頭で」
「はい」
僕は横に小さく図を描いた。原因と対処を矢印で結ぶ。
“間違いを責めず、原因を並べる”。
桐原は深呼吸を一つして、電話をかけた。
「先ほど古いデータを送ってしまいました。最新をお送りします。失礼しました」
声は、落ち着くための速度だった。
夜。
麻生さんに最終レイアウトの確認が必要になり、チャットを送ると、既読がすぐ付いた。
『了解、今夜だけ在宅。二重保存で返すね』
数分後にファイル。正確で、速い。
僕は一回で濃いお礼を送った。
『助かりました。いつもありがとうこさいます。』
既読のあと、了解の絵文字がひとつ。
給湯室で、桐原が紙コップにスープを注いでいた。
「メール、対処できました」
「合格です」
「赤字、明日には消します」
「消す前に、学びを隣に置いてください」
彼女はうなずいて、赤い×の右に付箋を一枚。
『添付→件名→本文→宛先→送信(指差し確認)』
角を二度押し、猫で封をする。
「許し方がきれいだと、直し方もきれいですね」
「直すほうが、長持ちするので」
帰り支度の前、ホワイトボードの下に小さな箱を置いた。
“赤字の箱”と書いてある。
×を物理的に剥がして落とす場所。
翌朝、この箱は空になる。
エレベーターの中で、桐原が言った。
「麻生さん、背もたれみたいなものですね」
「はい」
「いないと寂しい」
「そうです」
言葉はそれだけ。
わかっているという種類の沈黙は、長く持てる。
*
恋じゃないけど、いないと寂しい。
背もたれは、目に入る場所じゃなくて、背中で感じる場所にある。
“二重保存”のクリック音は、私の合図。
今夜も、誰かが続けられる音が鳴ればいい