12話
三月の終わり、朝の光は紙にやさしい。
ホワイトボードの端に時間が書かれた付箋が一枚増えていた。手書きで「落ち込む用の十分」とある。字は桐原の丸み。落ち込む時間を決めて落ち込むのは確かメンタルに良かったっけ。
午前、模試の自己採点をした。
僕は点を小さく書く。取れたところを先に置き、落としたところはあとで。
桐原は“できなかった帳”から始めた。
『商品有高帳・後半』『包括利益の“理由”』『理論の語尾』
「語尾は揃える、ですね」
「うん。定義は短く、理由は長く。でも語尾は一色で」
彼女は頷いて、猫の下に炎を一枚重ねた。
その上で、赤ペンをとる。ホワイトボードに、今日の禁止ワードを一つ。
『もうだめ』――大きく、でも角はまるく。
「“もうだめ”は、明日の私が悲しむので」
「いいルールです」
昼。机ランチのふたを静かに開ける。
斉藤が顔を出し、「模試、どうだった」と訊く。
僕は「おおむね想定内」と答え、桐原は「落ち込む十秒+九分五十秒で整えました」と言った。
「新しい測定単位出てきた」
「“落ち込む十秒速”です」
「単位で言うな!」
笑いが散って、紙の海へ戻る。
午後、桐原は“ありがとうの交換帳”に短く書いた。
『匿名のレモン、効いた。ありがとう』
僕は横に猫を置く。名乗らなくても、濃さは伝わる。
夕方、麻生さんから最終確認のチャット。
『二重保存済み。念のためバックアップは別フォルダ』
短い。きれい。倒れないための距離が、今日も保たれる。
帰り際、桐原がホワイトボードの“禁止ワード”を指でなぞった。
「これ、明日消します。今日だけでいいから」
「当日仕訳、ですね」
「はい」
エレベーターの中、非常灯の緑が落ち着くための色をしていた。
彼女は小さな声で言う。
「“もうだめ”を、“まだ途中”に置き換える癖、つけたいです」
「置換仕訳、いいと思います」
*
赤いペンで『もうだめ』に丸をつけて、当日だけ効く魔法にした。
“まだ途中”で帰るのは、続く人の帰り方だと思う。