1話
受付から戻ると、僕のデスクの上に小さな紙袋がひとつ、無造作に置かれていた。
白地に桜のスタンプ。封は斜めにセロハンテープ。差し入れにしては軽すぎるし、書類にしては柔らかい。嫌な予感がしてそっと口を広げた瞬間――薄い紙の蛇が机を走った。
レシートは逃げ脚が速い。空調の風に煽られて、寄るともなく離れる。床へ滑り落ちる一枚、キーボードの間に潜り込む一枚。僕は慌てない。右手で手近な二枚を押さえ、左手で机端のストッパーを引き出す。三月の会計事務所で、レシートが逃げるのは季節の風物詩だ。
「わ、わわっ、それ――!」
隣から跳ねる声。イスのキャスターが床を鳴らし、視界の端に明るい髪が揺れた。新しく配属されたばかりの女性――桐原 佳奈。朝のミーティングで名乗っていた。
彼女はぎこちない体勢でかがみ込み、机の地平を駆けるレシートを追う。爪が紙を滑る音が少し危なっかしい。
「すみません、受付で“安西さんの机に置いといて”って言われて……でも、中身は私の……あっ、やっぱり私でした。私の、ながっ」
「でしょうね」
僕は床の数枚を拾って角を揃え、シャチハタのキャップを外して紙束に仮止めした。向かいから同じキャップがやってきて、こつん、と小さく鳴る。
「どうぞ」
「どうぞ」
言葉が重なる。妙に耳に残る、小さな接触音。
彼女は一拍だけ目を丸くしたあと、照れたように笑った。笑うと、目尻が柔らかい。人の良さが表情に刷り込まれている。
「改めまして、桐原です。今日からお世話になります。隣、失礼します」
「安西です。よろしくお願いします」
「よろしくお願いします。あの、その、レシート……ほんとにすみません。私、こういうの、うまくやれると思ってたんですけど」
「うまくやれない日は誰にでもあります。ぐちゃぐちゃは直ります」
「直るんですか」
「直ります。ただ――」
「ただ?」
「摘要欄が空白だと、未来の自分が泣きますよ」
「てき、よう……?」
「メモ欄。未来の自分への伝言です」
「未来の私、すぐ泣くタイプだと思うので……えへへ」
“えへへ”と笑う社会人を、僕は久しぶりに見た。嫌味がない。緊張をほぐす、正しい分量の笑い方だ。
午前は例年どおりの混沌に包まれていた。所長の大村が穏やかに名刺を配り、斉藤が事務所の小口現金の封筒を振って「重さで残高を当てるゲーム」を始め、森下先輩が「ゲームじゃない」と静かに止める。
プリンタは紙を飲み込み、電話は二本同時に鳴り、来所者のコートはハンガーから滑り落ちる。ため息が湯気みたいに天井へ昇っていき、空調の音と混ざって消えた。
いつもと同じ喧噪。ひとつ違うのは、右の視界の端で、小さな手が落ち着きなく動くこと。付箋をちぎろうとして二枚いっぺんに剥がしてしまい、「あっ」と口を丸くすること。
自分の道具箱の中身をまだ把握していない手つき。悪くない。これから馴染む。
昼が近づく。僕はお気に入りの腕時計を見てから、椅子を半歩だけ回した。椅子のキャスターは、ゆっくり転がすと音が小さい。
「昼、時間ありますか」
「は、はい。お弁当、持ってきてます」
「レシートの並べ方と、摘要の書き方。十五分で教えてあげます」
「じゅ、十五分で……終わるんですか」
「たぶん」
言ってから、少しだけ後悔する。新人教育は得意じゃない。説明すると文が硬くなって、相手の目のハイライトが少しずつ消えていくのを何度か見ている。
けれど桐原さんは、僕の「たぶん」に、ほっとしたみたいに頷いた。余白のある言葉は、効く。
――電子レンジの「チン」が昼休みを告げる。僕らは机を寄せた。
*
本格的に働き始めた初日って、もっと怒られるものだと思っていた。
でも隣の席の人は怒らなかった。無口で、声が平らで、冷たいのかなと思ったけれど、レシートを拾う手が優しかった。机を寄せるとき、キャスターの音が小さかった。
それから“たぶん”って言った。できるかもしれないの余白。私はその余白に、甘えてみよう。