第42話【茜】
久しぶりに外に出た。
「……っ…」
カーテンが締め切られて真っ暗だった部屋に慣れた目が世界の眩しさに耐えられず、表情が歪んでしまう。
薄らとだけ目を開け、茜色の瞳で世界を見て足を進めていく。
「………」
痩せ細った身体を引きずるように、私『終茜』は道を進む。
2月も終わりに差し掛かろうとしているが、冬という季節はまだもう少し終わらないでいたいようで、冷たい空気がやつれた頬を撫でる。
足元まで伸びた茜色の髪が靡くのを抑えながら、アテもなく彷徨ってみる。
学生の頃は運動もできて、まさしく文武両道の4文字が似合う美少女だった自負があるのだが、長い間引き篭もり続けた結果、筋肉も体力も殆ど失っており、少し歩いただけで息も絶え絶えだった。
かつて人気者の優等生だった『空華茜』は、もうどこにもいない。
空華茜の18歳になる誕生日。私は全てを失った。
家庭は貧しくても、いつか成り上がるために、死ぬ気で優等生を演じてきた。中学、高校共に学年トップレベルの学力を保持、生徒会長を務め、良い大学への推薦もほぼ確実。友達も多く、誰とでも仲良くなれた。品行方正、文武両道、才色兼備な美少女とは私のためにある言葉だと。そう自分に言い聞かせ、私は常に努力を重ね続けた。
このまま、真っ当に生きて、この手で幸せを掴みとる。その一心で、人生を攻略してきたのに───。
「───茜。貴女はこの人と結婚しなさい」
「……は?」
紅葉に染まる並木の間を駆け抜けて学校から帰ると、家には知らない男の人がいた。
「大企業の社長の息子さんだそうだ。専業主婦でいい。大学に行く必要も無い。この人と結婚しなさい」
「茜。君を初めて見た時から、俺は君の虜になったんだ」
無機質な笑いが怖くて、思わず後退りしてしまう。
「…嫌……意味分かんない」
「…茜。この人と結婚すれば、貴女は何不自由なく暮らせるのよ」
「そうだぞ茜。お父さんもお母さんも、貧乏な生活とはおさらばになるんだ」
「私は…自分の力で……」
「茜。もう頑張らなくていいのよ。貴女の頑張りは報われたのよ」
「違う……こんな報われ方要らない…!!幸せは、私の手で掴み取るの!!」
「茜!」
家を飛び出す。
「お義父さんお義母さん、俺追いかけます!」
何なんだ一体。あんな見ず知らずの金持ち男と結婚?冗談じゃない。
走って、走って、アテもなくて、ただ逃げようと走る。
雲行きが怪しくなってきたと思ったのもつかの間、すぐに雨が降り出す。
「…何なの………意味が分からない……!」
体力には自信がある。体育でも成績トップをたたき出したかったから。何処の馬の骨とも分からない大人一人に負けるはずが無い。
「───捕まえた」
「ッ……!」
手を掴まれて引っ張られる。
「嫌!離して!!」
「……良いね。やっぱり最高に可愛いよ」
「…JKに手を出すとか最低……変態!」
「……少しお仕置が必要だな」
「!?…あ…ッ…!」
───細い腹部に彼の拳がのめり込む。
「ぁ……っ…ッ…ゲホ…!!」
「あぁ……良い。最高に可愛いよ茜」
今度は首を絞められる。
「ッ………やめ……」
「俺と結婚するのは嫌か?」
「嫌に…決まってるでしょ……!!」
「……じゃあ、仕方ないか」
「……!」
諦めてくれるのか。
「…とりあえず家に帰ろう、茜。このままだと風邪引くよ」
「…気軽に……名前を呼ばないで」
「……あ?」
───蹴られて水溜まりの中を転がる。
「ゔ…っ…」
「俺に指図すんな」
「だれか……たすけて……」
「助けるも何も、お前は被害も何も受けてねぇんだよ」
「ッ……」
また首を絞められる。苦しい。どんどん意識が遠のいていく。
「───嫌なら力ずくで従わせるだけだよ」
目が覚めた時、知らない部屋にいた。無駄に広いベッドに寝かせられていた。
「……お、ようやく起きたか…茜」
「!?」
何故私の前にこの男が。
「じゃ、始めようか」
彼の手が私に伸びる。
「え……」
無理矢理覆いかぶさり、私は為す術なくファーストキスを奪われた。
「ッ……ん…んん!!」
抵抗してなんとか汚らわしい唇を払い除ける。
「嫌がる表情、良いね。最高に可愛いよ茜」
「ッ……嫌!!嫌ぁ!!離して!!私を家に帰してよ!!」
「ここがお前の家だよ。俺たちは夫婦なんだから」
「違う!!」
「お前の帰る家はここしかないんだ」
「違う!!私の家はここじゃない!!」
「ここでお前は俺と暮らすんだよ。家族としてな!!」
「やめて…!!」
「…初めて見た時から思ってたんだ。お前を俺のものにしたいって」
───抵抗も虚しく、私は彼にめちゃくちゃにされた。
身も心もボロボロにされ、ぐちゃぐちゃに汚され、放心状態と化していた。
「ぁ……ぁ……」
「茜。お前にひとつ教えてやろう。お前の両親には2000万をくれてやった。その後も足りなくなれば金を渡す。そういう契約をした」
「…ぇ………?」
「お前は親に売られたんだよ」
「嘘…だ…」
「ホントなんだよなぁ。ひでぇよなぁ。金で娘を売るなんてよ」
「………」
「孕んじまえばもう後戻りはできねぇだろ。お前の両親は欲望に素直だったぜ。娘の人生より金だとよ」
「……」
「末永くよろしくな、茜」
理解が追いつかなかった。
空華茜の真っ当な生き方は、全て無駄だったとでもいうのか。清く正しく美しく、誰からも慕われ、頼られる優等生。勉強も、運動も、対人関係も、何もかも死ぬ思いで頑張って、私は私の幸せを掴もうとした。
それが、こんな。こんな形で崩れ去るなんて。
溢れ出した涙で、濡れたシーツが更に濡れていく。
全部。全部……。
無意味な頑張りだったのか。
翌朝、熱が出てふらふらの状態のまま、逃げるように学校に行く。
もう何が何だか分からない。ただ、今まで積み重ねてきた日常を取り戻したかった。
「茜?顔色悪くない?」
クラスメイトが心配してくれる。
「…ぇ……そう……?」
「そうだよ。熱あんじゃない?」
「…大丈夫……ほんと……大丈夫だから……」
「大丈夫じゃないって。保健室いこ?」
「私の皆勤賞……」
「そんなこと気にしてんの?真面目すぎ」
「真面目な…優等生…なんですけど…」
「いーから。茜は頑張りすぎなんだよ。今まで体壊さなかったのが奇跡みたいなもんじゃん」
「……ち…が……う……」
「絶対に大丈夫じゃないでしょ。茜、ほら。保健室連れてってあげるから」
「……」
クラスメイトの女子たちに5人がかりで半ば強制的に保健室に連れていかれる。
「ほら、寝ときな茜」
「……授業くらい受けられるのに……」
ベッドに横たわる。
「……茜」
「……なに」
「……私たちはみんな、あんたが頑張ってること知ってるから」
「………」
泣かない。人前では泣かない。泣けない。空華茜は強い女の子なのだから。
負けてたまるか。
負けて……たま……る…か…。
───学校が終わるといつものように、私は私の家を目指した。
「───茜?もうここは貴女のお家じゃないのよ」
「………ぇ……?」
認めたくなかった事実を認めるしか無かった。
───ああ、本当に……私は……売られたのか。
「旦那さんと仲良くしなさいよ」
「ぁ………ぁぁ……」
家の前の道端で崩れ落ちる。
もう、帰る家もない。
日常が崩れ去った。
最低な男に傷つけられ、私はどんどん壊れていった。
あの時、もう既に私は『空華茜』ではなく『終茜』に変わってしまっていたのだ。
あれから2週間が経った。遂に私の体には異変が出始める。
どうしていいかも分からない。
強い存在であり続けたかった私は誰にも言えなかった。
助けを求められなかった。
時が進むにつれ、細くくびれていたウエストのラインが崩れていくのが分かる。
「……茜、最近太った?」
「………」
もう本当にダメなんだと実感が湧いてきた。
これ以上学校にはいられなかった。
居たくもない家の部屋に引き篭るようになり、卒業式の火が来てもずっと不登校のままだった。
「……このまま餓死して……ッ…」
───このまま餓死してやる。そんなつもりで自分を追い込んでいった。でも、どこかで、お腹の中にいるあの男との子を心配してしまう。感じたくもない母性がお腹の子に向いてしまう。
「……あの男はクズの最低なゴミだけど……貴女に罪は無いんだよね…」
悪いのはあの男だ。あの最低なクズにたった一人の娘を売り飛ばした両親だ。私とこの子は何も悪くない。
「……そろそろ…名前……考えてあげようか……」
女の子だというのは分かっている。今はもう跡形もなく崩れ去ってしまったけれど、品行方正、文武両道、才色兼備な美少女であった空華茜の娘に相応しい名前にしてあげようと思う。
「私の娘だもん……やっぱり、赤っぽい色の名前かな……」
どこかで聞いた。赤はヒーローの色だと。誰もじゃなくてもいい。誰かのヒーローになれる女の子になって欲しい。
「ひいろ…。……緋。…この名前が可愛いかも」
優しい響きだ。恐らくは、私のような可愛い女の子になってくれるはずだ。こんな残酷な結末だけは送ってほしくないが。
「…貴女は…幸せになってよ……」
────そんな18年前のことを、今更思い出す。
「………バカみたい……」
それは娘への愛情をまだ持っていた頃の自分への言葉か、はたまた娘への愛情を忘れてしまった自分への言葉か。
どっちにしても、自分は母親の風上にも置けないクズに成り下がってしまったのだ。いや、そもそも親になる覚悟など持ち合わせていなかった。なりたくてなった訳じゃないのだから。だが、割り切ったはずだった。親になってしまうことを、割り切って受け入れようとはしていたはずだ。娘に罪などないのだから。母として、ちゃんと育ててあげようと思っていたはずなのだ。
もう一度、娘の顔が見たいというのは我儘だろうか。
見限られて、家族とも思われなくなっても仕方がないことをしてきた。そのことに、彼女が居なくなってから気付くことが、あまりにも愚かで、情けなくて、やるせない。
ただ、願いはひとつだった。どうか、どうか、生きていてほしい。
アテもなく彷徨って、気が付けば公園に来ていた。
若い4人組のガールズバンドの路上ライブの音が聞こえてくる。50人近い人がおり、かなり賑わっている。人が多くてよく見えない。
ボーカルの子の声が自分の声によく似ている気がする。それは気のせいなのか。
「───」
───頑張って背伸びをして、路上ライブを覗き込む。
「───ぁ………」
───緋色の髪が揺れている。
「──愛したいなら思う存分愛せばいい」
言葉に意味を託し歌う我が子の姿が、そこにあった。
……To be continued




