人喰い櫻
新しい学校は、のんびりとしたお嬢さん学校で、すれ違う時に「ごきげんよう」と声をかけあう女の子たちは、前の学校にいた子たちからは感じたことのない品格と余裕を感じるけれど、どこか場違いなところへ来てしまったようでちっとも慣れない。
「お天気がいいから、今日は外でお花見しましょう」
二時間目、村岡先生の提案におどろいた。授業はどうするのだろうか。今からクラス全員でお花見に行くらしい。退屈な漢詩の授業から解放されるのはありがたいけれど、まだひとりも友達と呼べる友達がいないわたしは困ってしまう。すれ違う時、みんな親切にわたしにあいさつをしてくれるけれど、それ以上でもそれ以下でもない。わたしだって、特別彼女たちに話しかけたことすらないのだから、当然のことだ。
女の子たちは次々と教科書を閉じ、軽やかなステップで教室を出て行く。だいたいの子が手ぶらだったけれど、スケッチブックをわきに抱えている子や斜め掛けしたきんちゃく袋にこっそり飴やチョコをしのばせている子もいた。
「ぼっち」に見えないよう集団につかずはなれず歩いていると、村岡先生が声をかけてきた。
「若葉さんははじめてだったわね」
名字でなく名前で呼ばれたのでびっくりした。
「御里公園の桜はこの辺では有名なの。若葉さんは、『世の中に絶えて桜のなかりせば春の心はのどけからまし』という在原業平の句を知っていますか」
前の学校で、習った記憶がある。たぶん、教科書に載っていた。
「聞いたことはあります」
そう言うと、村岡先生はうれしそうに笑った。
「今日は満開の桜を楽しんでくださいね」
先生は、わたしのことをどれだけ知っているのだろうか。転校してきた理由も。先生から離れたくて、急ぎ足で歩いた。前を歩く集団に追いつき、そっとうしろについた。グループの子たちは、みなおしゃべりに夢中で、わたしがきたことに誰ひとり気づいていない。
前の学校に、わたしはいられなくなった。正確には、町にいられなくなった。わたしだけでなく、両親も、弟も、家族全員だ。
わたしが、あんな事件を起こしてしまったから。
本当なら、わたしはとっくにこの世から消えていた。あの日、穂乃果と一緒に屋上から飛び降りるはずだったから。
「いなくなっちゃおうよ。二人で、この世界から」
穂乃果とそう約束した。わたしたちにとって、毎日は不自由の連続でしかなかった。まるで誰かがわたしたちの頭をつかんで水中に押し込めているんじゃないかと思うほど、息苦しくて、今にも窒息しそうだった。
だから大声で泣き叫んだ。けれど、誰も助けにきてくれなかった。そんなこと、当たり前だ。わたしたちの声は水流に搔き消されてしまったし、どんなに流しても、涙は溶けて見えなくなってしまう。
自由になるなんて、そんな贅沢なこと望んでいなかった。
ただ、楽になりたかった。
屋上に着くと、穂乃果は先に来ていた。手をつなぎ、端まで歩いた。そっと足下をのぞくと、枯れた花壇がお墓みたいに見えた。
ただ、飛び込めばいいだけだ。
ただそれだけのことなのに、足がすくんだ。
「あたしたち、友だちだよね」
つないだ手にぎゅっと力をこめ、穂乃果が懇願するようにわたしを見た。
手を離したのは、穂乃果だったのか、それともわたしが穂乃果の手をふりはらったのか。今でも記憶はあいまいなままだ。気づくとわたしはひとり屋上に取り残されていて、おそるおそるのぞいた花壇には、穂乃果が血を流して倒れていた。
遠くの方で叫び声が聞こえた。先生がやってきて、警察がきて、母親が呼ばれた。
「友達なら止めてくれるのが本当でしょう」
「どうしてうちの子だけがこんな目に遭わなきゃいけなかったのよ」
「事故なんかじゃないわ。これは殺人よ」
「あなたが穂乃果を殺したのよ」
半狂乱の穂乃果のお母さんに腕をつかまれ、はげしく揺さぶられた。
夢を見ているみたいだった。
穂乃果のお母さんが言うのだから、わたしがきっと穂乃果を殺したのだろう。それなのに、警察はわた しをつかまえなかった。ママは、穂乃果のお母さんの前でわたしを抱き、
「とにかく若葉が無事でよかった」
呪文のように何度もそう言って、わたしの頭を撫で続けた。
本当ならもう存在していないはずのわたしが、新しい町でこうして生きていることが、ちっとも現実味がなくうまく理解できない。半年間、ほとんど中学に通えないまま卒業し、春からこの学校に入った。新しい制服は、まるで鎧を着ているようで、こすれるたび肌がひりひりする。
「集合は十一時半です。それまでは自由行動です。みなさん、思い思いに楽しんでください」
村岡先生が言うと、
「はあい」
女の子たちののびやかな明るい声があちこちから重なって聞こえた。公園をぐるりとかこむように桜の木が並んでいて、丘の上の方まで一面ピンク色の世界が続いている。
「くれぐれも人喰い櫻のところには行かないように」
「はあい」
え? 村岡先生は今、とてもおそろしいことを言った。それなのに、女の子たちは平然としている。
人喰い櫻。
何、それ? いったいどこにあるの?
誰かに聞きたかったけれど、先生も女の子たちもあっという間に散ってしまい、わたしはまたひとりになってしまった。しかたなく一番近い樹のところから桜をたどって歩くことにした。
「一緒に歩かない?」
まさかわたしに声をかけてくる子がいるなんて思わないから、振り向くまでに時間がかかった。
背の高い少女がわたしを見ていた。透明な肌に艶のある長い髪を肩まで垂らしている。切れ長の目をした大人っぽいその少女の顔に見覚えがあった。はじめて登校した日、傘をさしかけてくれた子だ。同じクラスだったのに、今まで気づかなかったなんて、わたしったらどれだけぼんやりしていたのだろう。
あの日の朝は、急に雨が降ってきたのだ。家を出る時は、日差しを暑く感じるほど晴れていたのに、突然まとわりつくような霧雨がさあっと降ってきた。天気予報を見てこなかったことを恨めしく思い、空を見上げて立ち尽くしている間にも、こまかい水滴を吸い込んだ制服は重くなり、身体はじんわりと汗をかいた。蒸れたような、いやな臭いが鼻につき、不快感しかない。
一気にテンションが下がる。
「よかったら入って」
凛とした声だった。ぼんやりとした世界の中で、少女だけがくっきりと世界を象っているようだった。
「転入生?」
どうしてわかったのだろうか。
「この辺は急に雨が降るの」
「折り畳み傘はいつだって持っておくものよ」
そうか。そういえば、どの子も傘をさして歩いていた。傘を持っていなかったのは、新参者のわたしだけだった。
昇降口でていねいに傘をたたむと、役割は果たしたとでもいう風に、少女は踵を返した。階段をあがっていく少女のスカートからのぞく白くて細い足に見とれた。長い時間、雨の中を歩いてきたというのに、少女の髪は少しも縮れたりしていない。つややかでキラキラ輝いていた。
少女の後ろ姿を見送ってから、彼女の名前を聞かなかったことを思い出した。
「三上真希」
桜をバックに額のあたりでピースサインをした彼女は、まるで写真集から抜け出したモデルみたいだった。それが、彼女の名前だということに気づくまで、少しだけ時間がかかった。
「上原若葉」
わたしは自分の名前を名乗った。
「知ってるよ」
真希が笑った。
「自己紹介、したじゃない」
そうだった。エスカレーター式で中学から高校にあがってきたみんなと違い、わたしだけ壇上に立って挨拶したのだった。
桜の木の下を真希と並んで歩いた。こうして誰かと歩いていれば、「ぼっち」ではない安心感はあるけれど、真希とわたしではあまりにも不釣り合いすぎて、笑われやしないかと思うと不安になる。うっかり大きな声で話したり笑ったりしたら、嘲笑の餌食になってしまうかもしれない。
緊張したまま歩いていると、
「ねえ、どうしてうちの学校に転入してきたの?」
真希が聞いてきた。どきりとした。
「それは」
言葉に詰まる。あの町の中学で起きたことは、絶対に知られてはならない。なんて答えようかと迷っていたら、
「だって、うちの学校、ちょっと古いと思わない?」
真希が喋り出したのでほっとした。
「みんな、なんかどんくさいって言うか、将来のこと、何も考えていない感じ」
「このまま上の大学行って、花嫁修業みたいなことして結婚するの」
「たぶん、みんなそう」
たった数日しか在籍していないわたしにも真希の言うことがなんとなくわかった。それくらい、この学校には独特の雰囲気があった。おだやかで美しい桜の花びらのような女の子たち。
「あたしはね、もっとちゃんと自立したい」
そう言う真希の横顔は凛々しくて、宝塚を見たことはなかったけれど、きっと男役を演じる女優さんは真希と同じくらいかっこいいんだろうなと思った。真希が言うには、この学校のほとんどの子が幼稚園からずっと学校の中だけで過ごしていて、「世間知らず」なのだと言う。
真希は、高校を卒業したら別の大学に進学するつもりだと言った。親は反対するかもしれないけれど、断固として戦うつもりだと真希は言った。
このままだと自分が「腐って」しまうから。
そう言う真希がますます大人びて見えた。
「ねぇ、人喰い櫻を見に行かない?」
真希がくるりと向き直って言った。一瞬、聞き間違いでないかと思った。
「でも」
わたしが黙っていると、
「もしかして、こわいの?」
試すような目をして、真希がわたしを見下ろしていた。
わたしは首をふった。
こわくはない。そもそもわたしは人喰い櫻なんて知らない。今日、はじめて聞いた。けれど、村岡先生に、行ってはいけないと言われたのだ。先生が言うのだから、きっと何かあるのだろう。それが何なのか知りたい気持ちはある。でも、禁じられたところに行くべきではない。
「若葉って案外真面目なんだね」
「人喰い櫻なんて、単なる迷信だよ」
「別にいいよ。若葉が行かないなら、あたしひとりで行く」
真希はそう言って、わたしを置いてさっさと先へ行こうとする。どうしてそんなことができるのだろうか。
「一緒に歩かない?」
さっきはやさしく誘ってくれたくせに。
「待って」
「わたしも行く」
そう言って、真希の背中を追いかけた。真希は振り向いてくれなかった。だから、わたしは走って行って、真希のとなりにぴったりとくっついた。
公園のはずれの丘に続く道を二人並んでのぼっていく。桜並木が続いている。そっと風が吹くたび淡い花びらが舞い、小舟のように行ったり来たりしながら地面に落ちた。
人喰い櫻は、きっとこの上にある。いったいどんな櫻なのだろうか。文字通り本当に人を喰う櫻だとしたら、いったいどうやってそんなことができるのだろうか。世の中に虫を餌にする植物が生息していることは聞いたことがある。けれど、人を喰う桜なんて今まで一度も聞いたことがない。
「昔、武士が町娘と恋に落ちたの。けれど、身分違いの二人の結婚は許されなかった。それで、二人は駆け落ちしたの。家族が連れ戻そうとしたけれど、二人とも見つからなかった。二人が一緒に逃げていく姿を見た人は何人もいるのに、二人の行方をさがすことはとうとうできなかったの。二人の足取りが途絶えた場所。それがこの丘」
真希が教えてくれた。
目の前の櫻は、どこか意思を感じさせる濃いピンク色をしていた。落ちていた花びらを真希が手のひらにすくって見せてくれた。中心部分はむしろ紅に近い。
なんという品種だろうか。
「こんな話もあるわ。赤ん坊の夜泣きがうるさくて、旦那さんに叱られた奥さんが、赤ん坊を抱いてここへ来たの。夜風にあたれば、赤ん坊もきっと大人しく眠ってくれる。奥さんはそう思ったのね。けれど、朝になっても奥さんは家に戻らなかった。赤ん坊と一緒に消えてしまったの」
「きっとこの櫻のせい」
突然、強い風が吹いて、花びらがいっせいに震えた。
「若葉」
真希がわたしの名前を呼んだ。櫻の木の根元に立ち、わたしを見ている。
吸い込まれそうになって、思わず足がすくんだ。
「希望は、櫻のむこうにあるの」
「行こう」
真希が、わたしに手をさしのべる。その姿が穂乃果と重なる。
「あたしたち、友だちだよね」
真希のとも穂乃果のとも区別のつかない身体にまとわりついてくる腕をふりはらい、何度も転びそうになりながら走って丘を下った。振り向いたら、一気に吞みこまれてしまいそうで、ただひたすら前だけ見て走った。
やがて、女の子たちのにぎやかな声が聞こえてくると、ようやくほっとできた。淡いピンク色の桜の下で、彼女たちは、終わらないおしゃべりに花を咲かせている。
真希を置いてきてしまった。
しばらくすると、罪悪感が襲ってきた。
やさしく傘をさしかけてくれた、一緒にお花見しようと誘ってくれた真希を、わたしは置いてきてしまったのだ。どうしよう。一度ならず、二度も友だちをうらぎったくせに、村岡先生やクラスメイトに真希の不在をどう説明しようか、そんなことばかり考えている自分に嫌気がさした。
「若葉さぁん、こっち、こっち」
村岡先生が手をふっていた。先生のまわりにいた女の子の数人が、待ちくたびれたようにわたしを見ていた。
「よかった。これで全員そろったわね」
村岡先生が、今、全員って言った。村岡先生を先頭にみんなが歩き出す。女の子たちのおしゃべりは止まらない。手の中に桜の花びらをいっぱい閉じ込めている子や集めた花びらを一枚ずつ飛ばしている子、棒つきのロリポップを大胆になめている子もいた。
女の子たちのなかに、真希の姿をさがした。
けれど、どこにも見つからない。思い切って、ロリポップをくわえながらのんびり前を歩いていた子に声をかけた。
「あの、三上さんがいないんだけど」
「三上さん?」
「三上、真希さんのことだけど」
「誰、それ」
そう言って、彼女は唾液濡れてつるつるになったロリポップをもう一度口の中につっこんだ。
知らないなんて、そんなことあるだろうか。わたしが彼女から目を離さないでいると、
「あ、欲しい? これ、あげるよ」
そう言って、彼女はポシェットから傘のかたちをしたチョコレートをとり出すと、わたしの目の前に差し出した。一瞬、受け取っていいものか戸惑ったけれど、断わるのも変な気がして、わたしは素直に手をのばした。
それは、桜の花びらよりずっと重みがあって、ゆっくりとわたしを現実の世界に引き戻してくれるようだった。
先の尖ったチョコレートをそっとスカートのポケットにすべらせる。
胸がつんと痛くなった。