8
春の柔らかな風が、俺とカラン王子の前髪を遊ばせる。
足元の地面にはまだ雑草や野花しか咲いていなくて、記憶の中にある花畑とは程遠い。
そういえば、誰がここに花の種を撒いたのだろう。
場違いにも、そんなことを考えた。
「……お前は、記憶を宿しているのだろう」
そんな取り留めもない思考は、眼前の男の一言で霧散した。
目を見開き、彼を凝視する。
なぜ、それを。
返答を返す余裕もなかったが、彼にはその沈黙が十分な答えだったらしい。
小さく息を吐き、目を伏せた。
「──だが、彼女のことは、覚えてないのだな」
「それは、」
それは、誰のことだ。
きっとそう確認するべきなんだろう。
だが、俺の脳裏には、たった一人の女性の存在しか浮かばなくて。
──ラーレ。
青空の下で笑う、ラーレの姿が、鮮明に思い浮かぶ。
最近の俺は、本当にどうかしている。
記憶にない、けれどふとした時に浮かび上がるラーレの影に、なぜこんなにも、縋り付きたくなるのだろう。
なぜ、手を伸ばしたくなるのだろう。
無言になり、自然と拳を握りしめていた俺をじっと見つめていたカラン王子は、ちいさくその手を挙げた。
それを合図に、俺の後ろに控えていたプラムが森の中へと消えていく。
この男が護衛を外したのを、初めて見た。
『今まで』の記憶とかけ離れたカラン王子の行動に、思わず目を瞬く。
俺の知っている彼は、まさに冷酷非道を絵に描いたように男だった。
自らが王の座に就くために、異母兄妹であるレリアを手中に収めようとする男。
レリアのことを「王になるための駒」と豪語し、それを光栄と思えとのたまうような、そんな人間だったというのに。
目の前に佇む男からは、そんな冷たさは微塵も感じることができなかった。
何が何だかわからないが、もしかしたら。
この男と、初めてまともな会話が出来るのではないか。
──もしかしたら、それが、この永遠ともいえる『やりなおし』を解決に導く手立てになるのではないか。
そう、頭をもたげた淡い期待は。
「──俺は、彼女を殺した」
「──」
次の瞬間、消え失せた。
どさっ!
……気が付いたら、俺は、カラン王子を、押し倒していた。
「なにを、言った」
先ほどの彼の、この男の言葉が、耳にこびりついて離れない。
──俺は、彼女を殺した。
彼女とは、誰だ。
殺した?
俺とは。
つまり。
「お前が、カランが、ラーレを殺したのか……!!」
あの子は、ラーレは、足を滑らせて崖から落ちたのではないのか。
痛みと恐怖に一人で晒され、この男の刀で切り伏せられたのか。
それだけでは飽き足らず、遺体を弔うこともせず、崖から投げ落としたと、そういうのか。
押し出されるように、絞り出された声は、自分のものとは思えないくらい、低く震えていた。
ごうごうと、音が聞こえる。
これは、きっと、俺の内側から聞こえる音だ。
「……っ」
ぎり、と、カランの胸元を締め上げる手に、力がこもる。
地面に押し付けた男の喉が、ひくりと震えるのが分かる。
怖いくらいに整った顔が苦痛に歪むのに、俺の手はさらに自重を込めてその喉を締めていく。
初めてだ。
──こんなにも、『殺してしまえ』という、悪魔の声が、聞こえたのは。
「っ、貴様も、ころしただろう!!」
「なにを言う、っ!!」
だが、それもカランに腹を膝で蹴り上げられ未遂に終わる。
もう一度つかみかかろうとして、今度は俺が地面に叩きつけられた。
俺たちの服も、体も、あっという間に泥だらけになった。
「お前も、何度もあの子を殺しただろう、イキシア!」
「なんの、ことだ!」
蹴り上げあい、掴みかかり、殴りあい。
忙しなく回る視界に、プラムが駆け寄ってくるのが見えた気がした。
懺悔のような色をおびた叫びが、茜色に染まっていく空に響いた。
「俺はあの子を殺した。俺が、俺が忘れたせいだ!」
カランの慟哭が、耳をつんざく。
「俺のせいだ、俺が殺した! だが、だが! イキシア!」
──最初にラーレを忘れたのは、彼女の心を殺したのは、お前だろうが!!!
その声は、かすかに、震えていた。
先ほどまでの乱闘が嘘のように、俺たちの間には、静寂だけが漂っていた。
聞こえるのは、お互いの荒い息遣いのみ。
痛いくらいの沈黙が、考えることの邪魔をする。
……この男は、カランは、何を言っている?
俺が忘れた?
おれが、彼女を殺した?
「…………どういう、ことだ」
お前は、何を知っている?
絞り出した声は、あまりにも小さくて、情けないものだった。