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白と黒のお妃様のお話

※本編40話より後のお話です。

 衣擦れの音が聞こえて目を開けたヴィオルの鼻を薔薇のような甘い香りがくすぐり、頬をさらさらした感触が撫でた。

 ヴィオルは広くふかふかの寝台に体を投げ出していた。枕になっているものはほのかに温かい。柔らかい布地に包まれた人の膝だ。


「ヴィオル、起きた?」


 聞き慣れた愛らしい声に、ヴィオルは体を起こした。妻のエリーズが微笑みを浮かべてヴィオルを見ている。純白の上品なシュミーズドレスを着た姿は、白百合の化身のように清らかで美しい。


「エリーズ? ……ごめん、寝てしまっていたみたいだ。膝、辛くなかった?」


 その姿に見惚れながらもヴィオルが詫びると、彼女は笑ったまま頭を振った。


「いいの。ヴィオルはいつも頑張っているんだから、たまにはうんと甘えていいのよ」


 エリーズはそう言って寝台の上で膝立ちになると、ヴィオルを優しく抱き寄せた。彼女の胸に顔を寄せる体勢になり、極上の感触がヴィオルの脳を溶かす。

 エリーズは慈愛に満ちた手つきでヴィオルの髪を撫でた。今は何時なのか、のんびりしている暇はあるのか……一瞬だけ芽生えたその考えはすぐに消え、ヴィオルは天にも昇るような心地で妻の背に手を回す。

 その時、何者かがヴィオルの背後から肩をつかみ、エリーズから引きはがした。


「えっ!?」


 驚いて振り向いたヴィオルの目に映ったのは、艶やかな銀色の長い巻き毛と透き通るような白い肌、ぱっちりした(すみれ)色の瞳――エリーズだった。

 ヴィオルは動転して、先ほどまで妻がいた場所に再び顔を向けた。白いドレス姿のエリーズが確かにそこにいる。だがまた振り返ると、もう一人のエリーズがいる。もう一人の彼女は胸元が大きく開いた、体の線にぴったりと沿う形のドレスを着ていた。大胆なスリットが入っていて、太(もも)がその隙間から見える。蠱惑(こわく)的な魅力を放つ姿は、さながら夜を司る女王だ。


「わたしを忘れるなんてひどいわ、ヴィオル!」


 黒いドレス姿のエリーズが、ヴィオルにぎゅっと抱き着く。ほぼ反射的にヴィオルは彼女を抱きしめ返した。

 同じ人間が二人いる――そんなことがあるはずない。冷静に考えてどちらかが偽物のはずだ。だが二人のエリーズの違いは服だけだった。他は顔も体つきも声も、すべてが同じだ。ヴィオルの勘も、二人ともが本物だと告げている。

 訳が分からないまま黒いドレスのエリーズを抱きしめるヴィオルを、今度は白いドレスのエリーズが彼女から引き離そうとした。


「ヴィオルはわたしがぎゅってするの、離れて!」


 だが黒いドレスのエリーズも譲らない。


「やめて、ヴィオルはわたしをぎゅってする方がいいんだから!」


 普段は温厚な王妃だが、いま二人のエリーズは瞳にめらめらとお互いへの嫉妬の炎を燃やしている。白いドレスのエリーズが言った。


「大体、そんなはしたない格好でヴィオルに近づいたりしてはいけないわ!」

「そんなことないわ。ヴィオルはわたしがはしたない格好をしている方が好きなの。そうよね、ヴィオル?」

「え、あ、まあ、そうだね……」


 紛れもない事実なのだが、面と向かってはっきり言われると気の抜けた返事しかできない。でも、とヴィオルは白いドレスの妻へ向き直った。


「もちろん君も素敵だ。永遠に見ていたいくらい綺麗だよ」


 それを聞いて白ドレスのエリーズが頬を染めると、黒ドレスのエリーズが口を尖らせてまたヴィオルにしがみついた。


「ヴィオル、わたしの方を見てったら!」

「あ、ああ。ごめんね」


 ヴィオルに頭を撫でられ、黒ドレスのエリーズはうっとりと目を細めた。


「……ヴィオル、キスして。おねがい」


 潤んだ瞳と鈴のような声の懇願に耐えられるはずもなく、ヴィオルは彼女に応えた。角度を変えて何度も繰り返される口づけを、黒ドレスのエリーズは甘い吐息を漏らして受け止める。


「ああ、嫌! ヴィオル!」


 背後から聞こえた悲痛な声に、ヴィオルははっと我に返った。白ドレスのエリーズは目に涙を浮かべ、両手の拳を震えるほど強く握りしめて夫ともう一人の自分を見ていた。


「ごめん! 君を忘れた訳ではないよ」


 黒ドレスのエリーズとヴィオルの体が離れ、今度は白いドレスのエリーズがヴィオルとの距離を詰めた。白ドレスのエリーズが手を伸ばし、夫の頬を優しく包む。


「わたしに、させて?」


 ささやくような声の後、白ドレスのエリーズは唇をヴィオルのそれに優しく押し当てた。あなたが愛おしくてたまらないのだと伝えるかのように、白ドレスの彼女はヴィオルの唇を(ついば)み、優しく()む。ヴィオルは目を閉じ、妻の奉仕に酔いしれた。

 口づけを終え、白ドレスのエリーズがヴィオルの瞳をじっと見る。


「ヴィオル……愛してるわ。あなたのためだったら何でもする。だからお願い、わたしだけを見ていて」

「そんなのずるいわ! ヴィオル、こっちを見て!」


 黒いドレスのエリーズが、ヴィオルの肩をつかんで自分の方を向かせる。


「わたしの方がヴィオルを愛してるの。あなたになら何をされてもいいわ」


 そう言って黒いドレスの胸元に指をかけ、下げるふりをする。


「ね、だからわたしを選んで?」


 煽情(せんじょう)的な仕草で夫を篭絡(ろうらく)しようとする恋敵にとうとう痺れを切らしたらしい白ドレスのエリーズが、黒ドレスのエリーズに喰ってかかった。

 

「もう、ヴィオルを困らせないで! ヴィオルはわたしに愛されているときが一番幸せなのよ!」

「いいえ違うわ。ヴィオルはわたしを愛している時が一番幸せなの!」


 ヴィオルを挟んで白いドレスと黒いドレス、二人のエリーズが睨み合う。両者ともに一歩たりとも譲る気はないようだ。

 緊迫した雰囲気に、遂に限界を迎えたのは――


「……ない」

「えっ?」


 二人のエリーズが声をそろえ、ヴィオルの方を見る。


「どちらか一人なんて選べない」


 ヴィオルはきっぱりと言い切り、二人の王妃を押し倒した。寝台に転がされた二人が困惑した表情を浮かべる。


「二人の気持ちは十分に伝わったよ。僕のことをこれ以上ないくらい愛してくれているのは同じなのに……喧嘩なんてされたら僕はすごく悲しいな」

「ご、ごめんなさい……」

「そんなつもりではなかったの……」


 二人のエリーズは雰囲気は違っても、狼狽(うろた)える表情は同じだ。ヴィオルは彼女たちに微笑みかけた。


「いいんだ。僕の甲斐性の見せどころだからね」


 どう考えても普通ではない状況だが、ヴィオルの理性は完全に吹き飛んでいた。

 これが誰かの陰謀だとしても、例えこのあと殺されるとしても、いま目の前に広がる、世界中どこを探しても見つからなかったはずの楽園を手放すなどあり得ない。

 ヴィオルは手を伸ばし、片手ずつで二人の妻の腰をそっと撫でた。


「三人でいっぱい仲良くしようね」


***


「……ヴィオル!」

「っ!?」


 大きくはないがはっきりと名を呼ぶ声を聞き、ヴィオルは目を開けた。エリーズが心配そうな顔で身を起こし、夫の顔を覗いている。


「あ、あれ……?」


 ヴィオルも起き上がって周りを見回した。そこはいつもエリーズと共に休む寝台の上だ。夜明けはまだのようで寝室は薄暗い。

 隣にいるのはドレスではなく、夜着をまとったエリーズ――彼女は一人しかいなかった。


「……夢か」


 よく考えれば当たり前のことだ。夢とはいえ自分を取り合う二人の妻を組み敷いて野獣のように盛っていた己の姿を思い起こすと呆れてものが言えなくなる。


「起こしてごめんなさい。ヴィオルが何だか苦しそうにしていて……もしかしたら具合が悪いのかしらって思ったの。何か怖い夢を見ていたの?」


 さすがに「分裂した君が僕を巡って争ったので二人まとめて可愛がった」などと本当のことを話したら気でも狂ったのかと思われそうだ。このことは自身の胸だけにしまっておくこととして、ヴィオルは事実をぼかして伝えた。


「ううん、すごくいい夢だったよ……君を抱く夢だ」

「そ、そうだったの……起こさない方が良かったかしら」

「いや、それよりも君に心配をかけてしまったことが申し訳ない」


 思えば寝る前もエリーズとたっぷり愛し合ったのに、まだこんな欲求不満じみた夢を見る自分はどうかしているのかもしれない。愛ゆえにこうなってしまうのだと自身に言い聞かせ、ヴィオルは妻の髪を優しく撫でた。


「まだ起きるには早い時間だけれど、また眠れそう?」


 エリーズが頷いたので、ヴィオルは寝台に横たわって彼女を招いた。エリーズも隣に寝そべり、ヴィオルの方に体を寄せてその胸に顔を埋めるようにする。(じき)に規則正しい寝息が聞こえ始めた。

 愛らしい寝顔を見ていると、ヴィオルの口元は自然と緩む。どれほど甘美な夢であっても、現実に生きる彼女の髪の香りや唇の柔らかさ、きめの細かい肌の温もりには到底敵わない。

 夫に健気に尽くす献身的な姿、愛する男を独占したいという一人の女性の一面――それらが合わさったエリーズこそが、初めて出会った日からヴィオルの心を虜にしてやまない最愛の人だ。

 彼女を抱き寄せその額に口づけをして、ヴィオルはもう一度眠りについた。

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