騎士夫婦の休日のお話
※本編二十二話~二十三話の裏で起きたお話です。
国王の近衛騎士を務めるローヴァン・コルテウス、そしてその妻で王妃の近衛騎士であるリノンには、常に主の傍に控え守るという役目がある。
だが、いつものように王城へ向かった二人の近衛騎士の出で立ちは普段とは異なっていた。ローヴァンは銀色の甲冑ではなくこげ茶色のジャケットと薄い灰色のトラウザーズに革製の靴、リノンは淡い緑色のチュニックとぴったりした白いズボンと短いブーツ。王都ではごくありふれた服装で、彼らが騎士だと一目で気づく者はいないだろう。
王城の正門に現れた二人の騎士に対し、ヴィオルはすまなさそうに眉を下げた。
「悪いね。わざわざ見送りに来てくれなくてもよかったのに」
「気にしなくていい。ただこちらの気がすまないというだけだ」
リノンはヴィオルの隣に立つエリーズへ微笑み、小さく手を振った。
「エリーズ、楽しんできてねっ」
「ええ。リノンたちもね」
今日一日、国王夫妻は二人で休暇を過ごす。近衛騎士の夫婦にも水入らずの時間を楽しんでほしいと休暇が与えられたのだ。
王族が護衛をつけずに外出することは許されないため、ローヴァンが信頼をおく別の騎士が代理として選ばれている。
うきうきとした様子でヴィオルとエリーズは馬車に乗り込んだ。その馬車がゆっくりと動き出し、馬に乗った騎士がその後をついていく。
その姿が見えなくなったところで、リノンがローヴァンの方に身を寄せた。
「ねえ、今日どうしよっか?」
「こういう日の過ごし方は、俺よりお前の方がよく知っているだろう」
「ん~、それじゃあ……」
間延びした声とともに、リノンはするりと自分の腕をローヴァンのそれに抱き着くように絡めた。
「久しぶりに……あれなんてどう?」
「……本気か?」
「いいじゃん、最近めっきりご無沙汰だよ? ローヴァンもそろそろ恋しくなってきてる頃じゃない?」
リノンの黒髪が揺れ、鳶色の瞳が媚びるようにローヴァンを見上げる。ローヴァンは小さく息をつき頷いた。
「まあ……確かにお前の言う通りだ。行くとするか」
***
「はい、特盛ふたつお待ちどおさん!」
どん、と音を立ててローヴァンとリノンの前に置かれたのは、ほかほかの湯気が昇るグラタンだ。表面のチーズが熱さでぷくぷくと小さな泡を作っている。
「やったぁ! いただきまーす!」
リノンは早速スプーンを手にし、グラタンを口に運んだ。
「おいしー! やっぱりここのグラタン最高!」
二人が訪れたのは王都にある食堂だった。平民たちの居住区の中に位置しており、どんな大食漢でも満足できる量を提供することを売りにしている。席はほぼ満員状態で、各々の話し声で賑やかだ。給仕たちが皿を持って忙しなくテーブルの間を行き来している。
ローヴァンも大皿に臆することなく食べ始めた。ローヴァンとリノンは二人揃って健啖家で、コルテウス家の料理番はほぼ一日中働いている。
しっかり食事をとって体をつくることも騎士の仕事のうちだが、何でも好きなだけ食べていい訳ではない。国王夫妻並みに多忙な二人にとって共通の息抜きは、とにかく好きなもので腹を満たすことだ。
あちち、と呟きながらもリノンはグラタンを食べ進め、すでに三分の一は彼女の腹に消えていた。普通の女性ならこの辺りで根をあげそうなものだが、リノンの限界はまだ遠い。
騎士として鍛錬を積んできたリノンの体は一般の女性より筋肉量が多いはずだが、見た目にはほとんどそれを感じない。山猫のようにしなやかな体つきだ。それでいて大の男と同じ量の食事を平らげる妻を見ていると、ローヴァンは未だに不思議な気持ちになる。
だが、リノンが料理を頬張る姿は見ていてとても気持ちがいい。ローヴァンはかつて何人もの名家の娘と見合いをしてきたが、彼女らの中にこのような食べ方をする者はいなかった。リノンが下品というわけでは決してなく、食事をただひたすらに楽しんでいることが伝わってくる。
「どしたのローヴァン、お腹いっぱいになっちゃった?」
ついリノンの表情に目を奪われていたローヴァンを、彼女はきょとんと見つめた。
「珍しいね。じゃああたしに頂戴」
「待て。まだ食える」
ローヴァンは自分の皿に伸びて来たリノンのスプーンを止めた。
「……ローヴァンってそのへん結構厳しいよね。陛下ならエリーズに頂戴って言われたら何でもあげちゃうと思うよ?」
「……あれはあれで少々問題だ」
妃を迎えてからのヴィオルは、幼馴染のローヴァンですら知らない甘みのある態度を見せるようになった。だが夫からどれほど贈り物攻めにあっても王妃エリーズは常に謙虚だ。一部の使用人や騎士はいずれ彼女が王の寵愛を盾にして高慢に振舞い始めることを危惧していたが、そのつもりが一切ないと知れ渡った今、エリーズはすっかり城中の人間を味方につけている。
ローヴァンは手を伸ばし、リノンの口元を親指でぬぐった。
「あ、ごめん。ついてた?」
リノンが申し訳なさそうに肩を縮める。ローヴァンはふっと笑った。
「いいんだ。お前はそれでいい」
***
二人揃って大皿いっぱいのグラタンを完食し、リノンを先に店から出してローヴァンは会計に立った。
支払いを終え店を出る。リノンは向かいの建物の軒下に立っていた。二人組の若い男と何やら楽しそうに話し込んでいる。
ローヴァンはそれに目を留めるや否や、考えるよりも先に大股でその方へ歩み寄っていた。
「あ、ローヴァン」
リノンの隣に立ち、ローヴァンは二人の青年をじろりと見た。ヴィオルの膝元である王都に荒くれ者が現れることはないが、軟派な男なら少なからずいる。ローヴァンと青年たちとの目が合い、彼らは気まずそうにした。
「ローヴァン? どうかしたの」
ローヴァンは答えずリノンの腕を掴んで引っ張った。突然のことにリノンはよろめいたが、ローヴァンは構わず彼女を離さないでずんずんと進む。
「ちょ、ちょっと、だからどうしたのって! 危ないよ!?」
足を止めることが許されない状況に戸惑いながらもリノンは、立ち尽くす青年たちの方へ肩越しに振り返った。
「お兄さんたちごめんね、またねー!」
***
人通りの少ない路地まで来たところで、ようやくローヴァンはリノンを解放した。腰に手をあて、リノンはローヴァンの顔をきっと睨んだ。
「もう、ローヴァンったら! さっきのお兄さんたちびっくりしてたでしょ! ただでさえローヴァンはおっきいのに、凄んだらめちゃくちゃ怖いんだよ、分かってるの?」
リノンの言うことにも一理あるが、ローヴァンにも譲れない主張がある。
「……自分の妻を口説かれて、落ち着いてなどいられるものか」
ローヴァンが唸るように言うと、吊り上がっていたリノンの眉が下がった。
「……へ? なに言ってるの。あたし口説かれてなんかないけど」
「なら、さっきの奴らとは一体何を」
「あの人たち、さっきあたしたちの隣のテーブルで食べてたお客さんだよ。あたしがいっぱい食べてるのを見てびっくりした、すごいねって褒めてくれてただけ!」
つまりローヴァンの完全な勘違いだ。ローヴァンの胸に気恥ずかしさがこみ上げる。
「隣にいた人の顔も覚えてないなんて、グラタンに夢中になりすぎでしょ。まあ美味しいけどさ」
「……すまん」
正確にいえば、ローヴァンが釘付けになっていたのはグラタンではない。それを美味しそうに頬張るリノンの顔なのだが――それをはっきり言えないままローヴァンは黙り込んでしまった。
そんな彼の腕を今度はリノンがつかみ、きゅっと引っ張った。
「ま、いいや! あたし甘いもの欲しくなっちゃった。揚げパン買いに行こ!」
「分かった、分かったから落ち着け。食ってすぐ走ると腹が痛くなるぞ」
王家への忠義を重んじる家で厳しく育てられたローヴァンは、リノン相手につい保護者めいたことを言ってしまう。しかし彼女のあっけらかんとした内面には何度も救われている。
なかなかそれを切り出すことができないまま、ローヴァンは彼女に手を引かれ歩いていった。
***
その夜、夜着に着替えたリノンは大きく息をつくと共に、ぼふんと寝台のローヴァンの隣に腰を下ろした。
「はぁー、満足満足」
この日リノンはグラタンと揚げパンだけに留まらず、林檎のパイや飴、ジュースも腹の中に収めた。それでも体調を悪くする素振りはまったく見せていない。
「腹は痛くないのか」
「ぜーんぜん。でも明日からいっぱい消費しないと太っちゃうって考えるとちょっと後悔してるかも」
「……今のうちに、少し動いておくか?」
これがヴィオルなら、気の利いた言葉で巧みに妻をその気にさせるのだろう。ローヴァンにそれは少しばかり難しい。
「あは。いいよ。ローヴァンを補給したら明日からも頑張れる」
それでも、選んだ女性はローヴァンに抱き着き笑顔で応えてくれる。ローヴァンにとっては紛れもなく最高の妻だ。
普段は男勝りで少し子供っぽいリノンが、寝台の上でだけ見せる姿を知っているのは自分だけ――その事実で、ローヴァンの心はたっぷりの幸せで満たされていく。