お忍びデートのお話
※本編12話より後のお話です
一つにまとめられたエリーズの銀色の髪に、侍女のシェリアによって紫色のリボンがするりと結ばれた。
「はい、完成です!」
「ありがとう、シェリア」
エリーズが微笑むと、シェリアも嬉しそうにはにかんだ。
続いてもう一人の侍女のルイザが、花を模した飾りがついたつばの広い帽子をエリーズの頭にそっと被せた。
「エリーズ様、素敵です! 陛下もきっとお喜びになりますよ」
何かと多忙な国王のヴィオルがどうしてもエリーズと二人で王都の街を歩きたいと、午後の数時間だけだが約束を取り付けた。
そのため今日のエリーズは、若草色のくるぶし丈のドレスを選んだ。スカート部分のふくらみは抑えられており、かなり素朴な印象を与える。
「陛下と二人で王都を歩くのは初めてですよね?」
ルイザの問いにエリーズは頷いた。それを聞いたシェリアがきゃあ、と無邪気な声を上げる。
「初めての街デート、楽しんでください!」
「ありがとう。シェリア、ルイザ」
二人の侍女は顔を見合わせて笑い、参りましょうとエリーズを部屋の外へ誘った。
***
王城の裏口に出たエリーズの目に入ったのは二頭だての馬車だった。王族が乗る馬車は扉に国章が描かれた豪華なものでもっと多くの馬が引くが、今回はそれよりも二回りは小さく王都の裕福な民が所有しているものに近い。
馬車の前に立っている人のもとへエリーズは駆け寄った。
「ヴィオル!」
エリーズの愛しい夫も、いつもの威厳あふれる礼装姿ではなかった。薄青色のジャケットはボタン以外に目立った装飾はなく、濃い灰色のトラウザーズも素朴なものだ。唯一目を引くのは、両脇と後ろのつばを折り返した三角帽子だった。白い羽根の飾りがついているそれは、貴族のみならず王都に住む民も愛用するものだ。
妻の姿を見て、ヴィオルは愛おしむように目を細めた。
「可愛いね。僕の妻は何を着ても素敵だ」
「ありがとう! ヴィオルがお帽子を被っているの初めて見たわ」
「ああ、お忍びのときは被るんだよ……変かな」
「とっても似合っているわ」
良かった、と彼は微笑み、手ずから馬車の扉を開けた。今は手袋を外している。
「短い時間だけれど、めいっぱい楽しもう」
***
ヴィオルとエリーズを乗せた小さな馬車は、王都の目抜き通りの一角に止まった。人々は馬車から国王夫妻が降りて来たとは思っていないようで、談笑しながら通り過ぎていく。
王族の外出には、近衛騎士がつくことが絶対だ。だがエリーズと二人きりの気分を味わいたいというヴィオルのため、近衛のローヴァンとリノンには距離を置いたところから見張ってもらい、ヴィオルから合図を出さない限り手出しは無用ということにしている。
今のヴィオルとエリーズは、せいぜい裕福な商家の男とその妻くらいにしか見られないだろう。
「さて、どうしようか。午後のお茶がまだならどこかで飲む?」
「ええ。行きたいわ」
ヴィオルと手を繋ぎ、エリーズは一軒の店に入った。他にもまばらに客がいて、友人あるいは恋人同士が午後のひと時を楽しんでいる。エリーズもお忍びでリノンと共に王都を歩いたことはあるが、こういった店を訪れるのは初めてだった。
エリーズと同じ年頃の給仕の娘が二人を席へ案内し、品書きを手渡した。
「へぇ……たくさんあるね。何がいい?」
「そうね、どうしようかしら……」
豊富な品揃えにエリーズが目移りしていると、先ほど案内をしてくれた給仕の娘がおずおずと話しかけてきた。
「あのぅ……お二人は恋人同士でしょうか?」
「僕たちは夫婦だよ。彼女は自慢の妻だ」
ヴィオルが答えると、娘は顔を輝かせた。
「このお店、恋人か夫婦の方にだけ特別にお出ししている飲み物があるのですが、それはいかがでしょう?」
「それでいい?」
ヴィオルに問われエリーズが頷くと、すぐにご用意しますねと給仕の娘が厨房の方へ引っ込む。
程なくして、グラスが乗ったお盆を持った彼女が戻ってきた。
「ごゆっくりどうぞ!」
そう言ってテーブルの中央にグラスを置き、娘は去っていく。
置かれた品を見たヴィオルとエリーズは揃って目を丸くした。
「……すごいな。こんなの初めて見たよ」
赤色とオレンジ色、ピンク色が混ざり合ったジュースが注がれたグラスは、一般的なものより大きい。ふちには切った果物が飾られている。そして、大きなグラスには二本のストローがささっていた。
「このストローで飲めばいいのかしら」
「そうだね。それも二人で一緒に飲むのが正解みたいだ」
ヴィオルが一本のストローの先端を口にくわえる。彼に倣ってエリーズも同じようにした。必然的に、至近距離で見つめ合うかたちになってしまう。
数種類の果汁を混ぜて作られているのであろうジュースは爽やかな甘さがある。だがそれよりも、エリーズはヴィオルの眼差しの甘さに気をとられていた。彼はジュースを味わいながらも、エリーズから目を逸らさない。紫水晶の瞳はエリーズを釘付けにし、胸をときめきで震えさせる。
ひそひそとした話し声と共に、別方向からの複数の視線をエリーズは感じた。二人の甘い世界に浸る夫婦は他の客の注目を集めてしまったようだ。
もし国王夫妻だと知られたら大騒ぎになってしまうのではないか――エリーズはヴィオルに注意を促そうとしたが、ヴィオルはお構いなしにテーブルの上に置かれたエリーズの手に、自分のそれを重ねてぎゅっと握ってきた。色めき立つ少女の声がした。
やがて空になったグラスを見て、先ほどの給仕の娘が歩み寄ってきた。
「お楽しみ頂けました?」
「ええ、とても美味しかったわ」
エリーズが答えると、娘は照れ笑いを浮かべた。
「良かったぁ……実はお二人のこと、少しだけ見ていたんですけれど、最後まで熱々でしたね!
珍しいんですよ。男の方のほうが恥ずかしがって途中でやめちゃうことが多いので」
「なんだ、この国の男は随分と情けないね」
「ふふ……本当に仲がよろしいんですね、国王さまとお妃さまみたい」
「ああ、そうなんだよ。彼を見習って僕も妻を大事にしようと思っていてね」
代金をテーブルの上に置き、ヴィオルが席を立つ。更に銀貨を一枚取り出して娘に握らせた。
「いいものを勧めてくれてありがとう」
「は、はいっ。どうもありがとうございました!」
給仕の娘が頭を下げる。エリーズはヴィオルに手を引かれ、店をあとにした。
***
再び目抜き通りに出たエリーズとヴィオルは、仲良く腕を組んで美しい街並みを散策した。すれ違う人々は皆、表情が明るく楽しそうだ。ヴィオルが善政をしいているお陰なのだろう。彼がそれを鼻にかけることはないが、エリーズは彼への尊敬の念を一層募らせた。
「どこか行きたいところはある?」
「わたしはこうして歩いているだけでも楽しいわ。ヴィオルが行きたいところに連れて行って?」
「そうか、じゃあ」
その時、雑踏の中でヴィオルはぴたりと足を止め、振り返り下を見やった。
「……これはどうしたことかな」
ヴィオルの片足に、小さな子供がぎゅっとしがみついていた。親らしき者の姿は近くにない。
「もしかして、迷子かしら?」
エリーズはしゃがみ、幼子と視線を合わせた。小ぎれいな衣服を身につけた男の子は、まだ四歳に満たないくらいだろう。顔に涙の痕がある。親を探して泣き続け、ヴィオルにすがってきたようだ。
「こんにちは。お名前が言える?」
エリーズは優しく問いかけたが、幼子は答えなかった。くりくりした目から再び大粒の涙が溢れ出す。
「ああ、大丈夫よ。泣かないで。一緒にお母さまとお父さまを探しましょうね」
エリーズはしゃくり上げる幼子を抱きしめ懸命にあやしたが、泣き止む気配がなかなかない。名前さえ分かれば親を探しやすくなるのだが――
「……よし、おちびさん、これを見て」
ヴィオルが片膝をつき、幼子の前で一枚の硬貨を示した。それを右手で握って軽くゆすり、再び手を開く。硬貨は手の中から消えてなくなっていた。
幼子がぽかんとしてヴィオルの手を凝視する。吸い寄せられるようにヴィオルの方へ向かうと、硬貨を探して彼の袖口を覗き込む。
「おかしいなぁ、どこへ行ったんだろう?」
そう言いながらヴィオルは幼子が来ている上着のポケットに手を入れた。
「あ、ここにあった」
ポケットから手を抜き開くと、そこに硬貨があった。幼子が驚いて自分のポケットに手を突っ込む。すっかり泣き止んでいた。
「ふふ、すごいわね?」
エリーズに頭を撫でられ、幼子の顔に少し笑みが広がる。エリーズはすかさず問うた。
「あなたのお名前を教えてくれる?」
「……ユーリ」
「教えてくれてありがとう。素敵な名前ね」
ユーリの両親が現れる気配はない。きっと血眼になって探しているはずだが、王都といえど広い。一人の小さな子供を探し出すのは至難の業だろう。
ユーリは再びヴィオルに抱き着いた。
「あなたを気に入ったみたいね」
「僕、子供にはそんなに慣れていないんだけどな」
そう言いながら、ヴィオルはユーリを抱き上げた。合図を出してローヴァンたちに来てもらってもいいのだろうが、まるでヴィオルが唯一の命綱だと言わんばかりにしがみついているユーリを放す気にはなれないようだ。
「とりあえず、騎士団の詰所まで連れて行こう。もしかすると親がそこに来ているかもしれない」
王都内には何か問題が起きた際に対処するため、騎士が常に待機している場所がいくつか設けられている。
最寄りの詰所に向かい、ヴィオルが小さなユーリを抱いたまま歩き出す。エリーズもその後に続いた。
***
迷子を捜している親の情報は騎士団の詰所には届いていないようだったが、騎士たちは他の場所に待機している者とも連携をとりユーリの親を見つけるために動き出した。
ユーリはすっかりヴィオルに懐いて離れなかったため、親が来るまでヴィオルとエリーズは共に詰所で待機することになった。長椅子に座るヴィオルの膝の上にユーリは機嫌よくちょこんと座っている。
「……ここはエリーズの特等席なんだけれど」
「ふふ。いいのよ。ヴィオルの膝の上が落ち着くのはわたしも同じだから」
「だってさ。我が妻の寛大な心に感謝するんだよ?」
冗談めかしてヴィオルが言い、ユーリの頬をふにふにとつつく。ユーリはその手を取ってしげしげと眺めた後、自分の小さな手を伸ばしてヴィオルの上着の中を探ろうとした。
「おっと、悪戯はだめだよ……ああ、あれがまた見たいのかな」
ヴィオルが先ほどの硬貨をまた取り出すと、ユーリの目がきらきらと輝きだした。
「ちょっと遊ぼうか」
ヴィオルが硬貨を左右の手の間でゆっくりと行き来させる。右手の平に硬貨を置いて、両手を拳にしてユーリの前に出した。
「どっちに入ってるかな?」
ユーリは迷うことなくヴィオルの右手に手を伸ばした。ヴィオルがそちらの手を開くと、硬貨はそこにあった。
「当たりだ。もう一回しよう」
再び硬貨を左右の手で行ったり来たりさせ、今度は左手に置いて両手を握る。
「さて、今度はどっち?」
またしてもユーリは硬貨の居場所を当てた。よしもう一回、とヴィオルはまた同じ動きをする。だが次にユーリが選んだヴィオルの左手に、硬貨はなかった。ならばこちらと今度は彼の右手を開かせたが、そちらの手も空だ。
「まあ、失くなってしまったわ!」
エリーズが言うと、ユーリはそんなはずはない、と言いたげにヴィオルの上着の袖口や胸の内ポケット、果ては先ほど硬貨が現れた自分のポケットも探った。しかしどこからも硬貨は出てこない。
「困ったなぁ、また逃げられてしまったみたいだよ」
そう言いながら、ヴィオルは隣に座るエリーズの首の後ろにそっと手を伸ばした。エリーズの銀髪を指で撫で、ややわざとらしくはっと目を見開く。
「ああ、こんなところから出て来た!」
エリーズの髪からヴィオルが手を離すと、その指には硬貨が握られていた。
「すごーい! 一体どうしてかしら?」
エリーズが小さく拍手をすると、ユーリは楽しそうな声をあげた。ヴィオルの手から硬貨を取り、もう一度してくれと言うように彼の方に差し出したその時――
「ユーリ!」
聞こえてきた男女の声に、ユーリが振り返った。騎士に付き添われた品の良い夫婦がユーリの両親のようだ。
ユーリがヴィオルの膝からぴょんと降り、家族のもとへ走っていく。母親が小さな体をひしと抱きしめた。
「無事で良かった……!」
「どうやら、僕たちの出番はここまでのようだね」
「良かったわね、ユーリ」
ユーリの父親がヴィオルとエリーズに向かい、丁重に頭を下げた。
「この度は息子がお世話になり本当にありがとうございます。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
エリーズは微笑んだ。
「迷惑だなんてとんでもないです。ユーリはとってもいい子でしたよ」
「それにとても賢い子だ」
ヴィオルとエリーズに対し、今度はユーリの両親が揃って深々と礼をした。
「是非ともお礼をさせてください。お名前は何と仰るのでしょうか」
父親の問いにヴィオルは首を横に振った。
「名乗るほどの者ではないよ。お礼も結構だ」
「ですが、それでは私たちの気が済みませんわ」
母親が食い下がるがヴィオルはなおもお構いなくと言い、エリーズの手を取った。
「申し訳ない、すぐに出発しなければいけないからこれで失礼するよ。さあ行こう」
「ええ。ユーリ、さようなら」
母親の腕に抱かれたユーリにエリーズが手を振ると、ユーリは笑ってそれに応えた。
***
「まさか、あの夫婦も国王夫妻に助けられたとは思っていないだろうね」
城へと戻る馬車の中、ヴィオルが帽子を脱いでひと息つきながら言った。
「そうね、助けになれて本当に良かったわ」
「……ごめんね。せっかくのデートなのに、君のことをすこし蔑ろにしてしまったな」
「とんでもないわ。とっても楽しかったからいいの」
エリーズはそう言って、ヴィオルの肩に顔を寄せた。
「ユーリも、ヴィオルが優しい人だって分かったからあんなに懐いたのよ」
「そうか。それならまあ、悪い気はしないよ」
ヴィオルが笑みを浮かべ、エリーズの肩を抱く。自然と唇が重なった。
朝から晩まで身を粉にして民に尽くす国王が、自分の子育てに関われる時間はそう多くないだろう。
でも、ほんのひと時だけでも、いつか授かる宝物を今日のように膝に乗せてあやす彼の姿が見られたならどれほど素晴らしいだろう。
そう遠くないはずの未来に思いを馳せ、エリーズは愛しい夫の手を握った。