うさぎのおもてなしのお話
※本編40話より後のお話です。
エリーズは近衛騎士のリノンと共に、城下町の散策に繰り出していた。貴族がよく利用する服やアクセサリーを扱う店の品ぞろえを見るのも楽しいが、エリーズがいつもリノンに連れて行ってもらうのはそこから少し離れた、平民たちが主に集まる通りだ。人々の賑やかな生活の様子はエリーズにも活力を分けてくれる。
そこでエリーズはふと、一枚の張り紙が建物の外壁に貼ってあるのに気づいた。女性の絵が描かれている。その女性はエリーズの見慣れない格好をしていた。兎を模した黒く長い耳を頭につけ、ぴったりと体の線に沿ったビスチェと網目のタイツ、高いヒールの靴という煽情的な出で立ちだ。
「……リノン、これは何かしら?」
なになに、とリノンがエリーズの傍に来てその張り紙を覗く。
「うわ、ここにも宣伝が貼ってあるんだ」
「宣伝?」
「あー……この近くにある酒場なんだけれどね。こういう兎の恰好をしたおねーさんたちが男の人に給仕するの。最近流行ってるんだって」
「まぁ」
驚いた様子のエリーズを見て、リノンはぶんぶんと手を振った。
「いかがわしいところじゃないよ? 普通にお酒を注いだり、軽く話し相手をしたりそういう程度の給仕!」
「そうなの……わたし、まだまだ知らないことがたくさんあるのね」
「いやー、こんなことまで知ってる必要はないと思うよ」
それにしても、とリノンは腕を組んで張り紙をまじまじと見つめた。
「男ってこういうのが好きみたいで騎士団の中にもこの酒場に通ってる奴が何人かいるんだけどさ、何がいいのかよく分かんないよねぇ」
「男の人……ヴィオルも、好きかしら?」
呟くように言ったエリーズの顔をリノンがはっとした様子で見て、慌ててエリーズの肩に両手を置いた。
「エリーズ、大丈夫だよ? 陛下がこの酒場に行ったなんて聞いたことないし、もしそんなことがあったらあたし、大逆罪になってでも陛下の顎に一発喰らわせるから」
「ふふ。分かっているわ。そこは心配していないから」
エリーズはくすくすと笑って両肩を掴むリノンの手に軽く触れた。
「男の人にとって、この格好をした女の人におもてなししてもらうのが嬉しいことなら、ヴィオルにも経験させてあげたいって思ったの。この衣裳が手に入ればいいのだけれど……」
ヴィオルはエリーズの誠実な夫だ。たとえ機会に恵まれたとしても兎姿の女性を侍らせて楽しむなど絶対にしないだろうが、多忙な日々を送る彼の気分転換になりそうなことならエリーズはできる限りを尽くしたかった。
「……エリーズからこんなに愛されてるなんて、陛下幸せすぎでしょ」
リノンがエリーズの手を力強く握った。
「よし、あたしが何とかするよ! この酒場に出入りしてる騎士をつたってなら一着くらい工面してもらえると思う」
「本当? もしそうなら嬉しいけれど……リノンに迷惑がかかってしまうわ」
「いいのいいの! その代わり、陛下がどんな反応したか教えてよね!」
「ありがとう、リノン」
後のことはリノンに任せることにし、エリーズは引き続き街の散策を楽しんだ。
***
それから日が経ったある夜。エリーズは自室の姿見の前に立っていた。
「これでいいのよね……」
鏡の向こうの自分を見ながら呟く。その頭の上で、黒い兎の耳が小さく揺れていた。
リノンは約束どおり、仲間の騎士をつたって兎の衣装を手に入れエリーズに届けてくれた。着け襟と蝶ネクタイ、カフスボタンが付いた着け袖、黒いビスチェと細かい網目のタイツ――これで一式だという。靴は手持ちのものをと言われたので、ビスチェと揃いの黒いヒールを選んだ。ビスチェの後ろには、兎の尾を模した白いふわふわの飾りまでついている。
目的はこの姿でヴィオルに給仕を行い彼を癒すことだ。エリーズは日中に台所を借り、兎にあやかって人参を使ったケーキを焼いた。これなら夜に食べても体にあまり負担がかからない。エリーズの部屋のテーブルにお茶と一緒に用意はすませてある。
寝る支度を終えたら王妃の部屋へ来て欲しいと、使用人からヴィオルへ伝えてもらってある。あとは彼が帰ってくるのを待つだけだ。
エリーズはもう一度、鏡で自分の姿を確認した。普段着るドレスとはまるで違う恰好だ。肩も鎖骨も曝け出した状態で、ビスチェはぴったりとしており体のラインがくっきりと分かってしまう。タイツを履いているとはいえ、普通は隠す太腿も丸見えだ。
(これ、実はものすごく恥ずかしい恰好かもしれないわ……)
なぜか今になって羞恥心がエリーズを襲う。世の男性はこの姿の女性を好むと聞いて食いついてしまったが、本当にヴィオルは喜んでくれるだろうか。彼の好みではなかったら、ふしだらな妻だと思われてしまったら――エリーズは咄嗟に、衣装だんすの下の引き出しにしまってあるバスローブを引っ張り出して袖を通した。腰ひもを絞めて、体をすっぽり覆い隠す。
今ならまだ間に合う。兎の衣装はすべて脱いで何もなかったことにし、ヴィオルにはケーキを食べてもらうだけで終わろうか――その考えがエリーズの頭をよぎった時、部屋の扉が軽く叩かれた。
「は、はい!」
反射的に返事をしてしまい、部屋の扉が開かれる。ゆったりしたナイトローブに身を包んだヴィオルが姿を現した。
「エリーズ、頭のそれどうしたの?」
妻の顔を見るなりヴィオルが問うてくる。エリーズははっとした。体はバスローブで隠しているが、頭につけた兎の耳のカチューシャは外していない。
「あ、あの、えっと……変かしら?」
「ううん。兎みたいで可愛いよ」
ヴィオルは楽しげな様子でエリーズの元に近寄ると、兎の耳を軽く指ではじいた。
「ここに来てって言われたんだけれど、何があるの?」
「あのね……ケーキを焼いたからどうかしらって思って」
「え、本当に!?」
ヴィオルの顔がぱっと輝き、部屋を見回す。そしてソファの前に置かれたテーブルの上に目をとめた。
「嬉しいよ。ありがとうエリーズ」
ヴィオルは嬉々としてソファに座り、皿の上に乗ったケーキを愛おしそうに見つめた。エリーズも彼の隣に腰を下ろした。
「美味しそうだね」
「人参を使ったケーキなの」
「へぇ……珍しいね。さっそく頂いてもいい?」
「あ、あの、えっと……」
歯切れの悪い返事をするエリーズに、ヴィオルが首を傾げる。
「た、食べて欲しいんだけど……その前に、あのね……」
「うん?」
苛ついた様子など微塵も見せず、ヴィオルはエリーズの言葉に真摯に耳を傾ける。
ここまで来たらもう引き返せない。せっかくリノンが衣装を手に入れてくれたのだ。それを無下にしては駄目――エリーズは覚悟を決め、立ち上がってバスローブを勢いよく脱ぎ捨てた。
「ううぇ!?」
兎の衣装に身を包んだ妻の姿を見て、ヴィオルが今までに聞いたことのない声を漏らす。
「ど、どうしたの……その恰好」
半ば放心状態でヴィオルが問う。
「あ、あのね……この前、城下町をお散歩していたときに知ったの。女の人が、この恰好でお給仕をする酒場があるって……」
ヴィオルはそれに答えず、エリーズの姿を凝視するばかりだ。奇抜な真似をする妻に呆れて言葉も出ないのか――エリーズの気分はすっかりしおれて、両手で自分の肩を抱いた。
「ごめんなさい、やっぱり変よねこんなの……すぐに着替え」
エリーズはそこで言葉を切った。すっくと立ちあがったヴィオルがエリーズの両手首を掴み、肩から引きはがす。
「……君、その姿を僕以外の誰かに見せた?」
「み、見せていないわ」
エリーズはふるふると首を横に振った。さすがにこんなことで女官の手を煩わせたくなかったので、着替えはすべてエリーズが一人で行った。
「そう」
ヴィオルは短く答えると、エリーズの膝裏に手を差し入れてひょいと体を抱え上げた。ケーキのことはそっちのけで、そのままずんずんと向かったのは寝室だ。ベッドに転がされたエリーズにヴィオルが覆いかぶさり、むき出しの白い首筋に強く吸いついた。
エリーズが小さな悲鳴をあげてもお構いなしに、ヴィオルはエリーズの肩を食み、鎖骨を唇でなぞる。
「ヴィオル……」
か細い声でエリーズが呼ぶと、ヴィオルは顔をあげてエリーズと目を合わせた。紫水晶の瞳にすでに理性はなく、飢えと渇きでぎらついている。数日間ものあいだ餌にありつけなかった獣が、ようやく活きのいい獲物を捕らえた時のようだった。
「『お給仕』してくれるんだろう?」
「それはそうなんだけど、でも、あの、待って」
「待たない」
きっぱりと言い、ヴィオルは噛みつくように妻に口づける。エリーズの唇を味わいながら、腰のくびれをなぞり太腿に手を伸ばす。
唇を離し、ヴィオルはエリーズの耳元で囁いた。
「お腹いっぱいになるまで食べさせて」
エリーズが正気を失うまで、そう時間はかからなかった。
***
眩しい光を感じ目を覚ましたエリーズは、ゆっくりと身を起こした。
いつ眠ったのか記憶がない。寝ぼけ眼で周りを見回す。枕元に何かが置いてあった。黒い兎の耳のカチューシャとビスチェ、着け襟に蝶ネクタイ、着け袖……そこでエリーズはすべてを思い出すと共に顔を真っ赤にした。
昨夜の「お給仕」がいつまで続いたか定かではない。何かとんでもないことを口走ったような気もするが、それも曖昧だ。こうなることについて多少の予想はしていたが、これほどまで濃い一夜になるとまでは思っていなかった。
エリーズの体はバスローブに包まれていた。ヴィオルが着せてくれたのだろう。彼の姿はもうない。早々と政務に向かったようだ。彼を癒すつもりで計画したことだが、余計に疲れさせてしまったのではないか。
そこでエリーズははっとしてベッドから降り、寝室から繋がる自分の部屋に急いだ。テーブルの上には手つかずのケーキがあるはずだったがそれは綺麗に平らげられており、代わりにあったのは書置きだ。
『僕のうさぎさん 最高のおもてなしをありがとう』
間違いなくヴィオルの字だった。やはり彼はどこまでも誠実だ。
エリーズは安堵のため息をつき、ソファに身を預けて愛しい夫に思いを馳せた。
己の体中に残る「お給仕」の名残に気づき、女官にどう説明したものかとエリーズが頭を悩ませるのはその少し後のことだ。
***
今朝から、国王の機嫌が怖いくらいに良い。彼の近侍、ジギス・クルディアスは眉をひそめた。もちろん不機嫌よりは遥かにましだが、ずっと鼻歌を歌いながら執務机に向かう姿には若干の恐怖を覚える。
「……陛下」
「ん、どうかした?」
ヴィオルがにっこり微笑んだ表情でジギスを見る。普段は向けられることのない顔にジギスはかすかに背筋が寒くなるのを感じた。
「……その、随分と楽しそうに見えましたので。何か良いことでもあったのかと」
「ああ。生きてて良かったよ。僕は世界一幸せな男だ」
そう言うと、彼はまた鼻歌を歌いつつ書類にペンを走らせる。
詳細を語ることはなかったが、彼がここまで浮かれるのは王妃がらみのこと以外にないだろう。今までも幾度となく国王の惚気話を聞かされ胸やけをしてきたため、これ以上の詮索をする気はジギスにはなかった。
「ジギス、知ってる? 兎って年中繁殖ができる動物なんだってさ」
楽し気に語るヴィオルだったが、何の脈絡もない話にジギスは困惑するしかなかった。
「……はあ。なぜ兎の話を?」
「いや? ふふふ、言いたかっただけ」
一体、王妃との間に何があったのか――生真面目な近侍が真相にたどり着くことは、きっとないだろう。