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新婚旅行のお話 後編

 新婚旅行の三日目、すっかり身も心も(とろ)けきったエリーズはヴィオルと共に一日を寝台の上で過ごした。食事と身を浄める時間以外は横になって身を寄せ合い、目が合う度に口づけをして、気の向くままに愛し合った。

 朝から晩まで愛しい人の腕の中で過ごす――たったそれだけのことも、王妃という立場上なかなか難しいことだ。ただヴィオルに抱きしめられ頭を撫でてもらっているだけでも、天上にある雲の王国にいるかのような幸福感がもたらされる。

 四日目は二人で散歩に出かけた。木漏れ日が降り注ぐ小道を野イチゴを摘んで食べさせ合いながらゆっくり進み、太い木の幹にもたれて座った。


「ああ……帰りたくないな」


 ヴィオルが天を仰ぎながらため息混じりに言った。


「王様でいるのは辛い?」

「というより、君と一日じゅう一緒にいられないのが嫌だ」


 いくら周りに仲の良い夫婦として知れ渡っていても、公の場にいる以上は行き過ぎた触れあいはできない。エリーズにとってもそれは歯がゆいことだ。


「……もし王様を辞めてもいいってなったら、ヴィオルは画家さんになるの?」

「そうだね……絵は好きだし、それで君に何不自由ない生活をさせてあげられるならそうしたいなあ」


 ああでも、とヴィオルは小さく笑った。


「最近はもう君の絵以外は描く気になれないんだけれど、どんなに高い値段をつけられてもそれを他所にやるのは嫌だな。となると画家にはなれないかもね」

「ふふ。それならやっぱり、ヴィオルにいちばん向いているのは王様ね」

「……そういうことにしておこうか」


 ヴィオルがエリーズの目を覗き込む。


「エリーズは画家の妻と王妃ならどっちの方がいい?」

「わたしは何でもいいの。ヴィオルのお嫁さんでいられるなら、何でも」


 欲しいのは豪華なドレスでも(まばゆ)い宝石でもない。彼の唯一無二の人であること、それだけが望みだ。それが叶うなら着飾って群衆の前に出て手を振るのも、キャンバスに絵筆を走らせる夫のために料理を作るのも、エリーズにとっては等しく素晴らしいことだった。


「また君はそんなことばっかり言って……」


 ヴィオルは(うめ)くように言い、エリーズの体を引き寄せて(あご)に指をかけ唇を奪った。昨夜と同じ情熱的なそれはエリーズの思考を溶かしにかかったが、彼に体の線をしっとりと撫でられて危機感の方が勝った。


「ヴィオル、外では駄目だったら」

「分かってる。キスだけ」


 再び唇を捕らえられ、今度こそエリーズの心は堕ちてしまった。夫の口づけに弱すぎるという自覚はある。ただ唇を重ねるだけの行為だけなのに、もたらされる幸福感が凄まじいのだ。昨日は「外では二度と手を出さない」と彼に約束させたものの、いま求められたらまた身を差し出してしまうかもしれない。

 ヴィオルは宣言どおり、口づけ以上のことはしなかった。合間に零れる吐息や水音は鳥のさえずりやそよ風に揺れる木々の音に紛れ、誰の耳にも届くことはなかった。


***


 この日の夕食も野菜の煮込みやパンといった素朴なものだったが、新婚旅行さいごの夜ということで昼間に摘んだ野イチゴで小さなケーキを焼き、二人でささやかに結婚一周年も祝った。

 楽しい時間はあっという間だ。エリーズは寝台に横たわり、ヴィオルにぴったり身を寄せた。


「エリーズ、楽しめた?」


 エリーズの髪を撫でながらヴィオルが問うてくる。


「ええ。とっても素敵な旅行だったわ。ヴィオルはどう?」

「もう最高すぎて本当に帰りたくない」


 エリーズはくすくすと笑った。もちろんそういう訳にはいかない。アルクレイド王国にはヴィオルが必要だ。そして、彼を支える妃も。


「また一緒に頑張りましょう? わたしがずっと傍にいるわ」

「君と一緒なら、何もかも上手くいくって思えるよ」

「わたしも、ヴィオルがいてくれれば何も怖くないわ」

「はは。僕たちって本当に最高だね」


 鼻と鼻を擦りあわせ、二人で無邪気に笑う。その次には、ヴィオルの紫水晶の瞳は熱を帯びていた。


「エリーズ……最後に思いきり、いい?」


 エリーズは頷いた。


「わたしも、たくさん欲しいわ」


 夜の(とばり)が二人だけの世界を造ってくれる今だけは、彼を愛し、愛されるためだけに命を燃やすひとりの女でありたい。

 エリーズの望むものを、ヴィオルはすべて最高の形で与えてくれる。彼が求めるものもまた、エリーズには手に取るように分かる。

 このままお互いの全てを一つにしてしまえたならどれほど幸せだろう。すべてを捧げても良いと思える相手に巡り合える人間が、この世に何人いるのだろう。次の瞬間に心臓が止まるとしても、喜びだけを抱えて逝ける、そんな気すらしてくる。

 体も心も幸せだけで満たされていく。随喜(ずいき)の涙を零し、口から漏れる意味のある言葉は夫の名前だけだ。めくるめく(よろこ)びに恍惚となる中で、彼に幾度となく注がれた愛の証がどうか実を結ぶように――エリーズはただそれだけを、ひたすらに祈った。


***


 翌日。軽く食事を済ませ、最高の蜜月を提供してくれた小さな家を二人で掃除した。そしてやって来た迎えの馬車に荷物を積み込み、王都に向けて出発する。


「素敵な休暇をありがとう、エリーズ」

「わたしの方こそ、ありがとう」


 「普通の夫婦」として過ごした日、たった五日間のことを、エリーズは一生忘れることはない。ヴィオルもきっと同じだ。

 彼の手がエリーズの手指を絡めとるように握った。


「ふふ。まだくっつきたいの?」

「帰るまでが旅だとよく言うからね。もう少しだけ」

「ええ。もちろんよ」


 エリーズは笑って、ヴィオルの頬にキスをした。

 王城に着いて馬車を降りたら、王と王妃に戻らなければならない。それまではまだ、ただのヴィオルとエリーズでいたい。

 馬車の揺れが心地いい。エリーズは夫の肩に頭を寄せて、そっと目を閉じた。


***


 夕日が王城の尖塔を照らす中、新婚旅行を終えた国王夫妻を乗せた馬車が正門へとやって来た。近衛騎士のローヴァンとリノン、近侍のジギスがその方に歩み寄る。


「エリーズ大丈夫かな、やつれてないといいんだけど」


 心配そうに言うリノンに対し、ローヴァンはくっくっと笑った。


「全く、お前はヴィオルを何だと思っているんだ」

「綺麗な顔したケダモノ王様」


 御者が馬車の扉を開ける。おかえりエリーズ、と言いかけたリノンだったが、馬車の中を見てあはは、と声を上げて笑った。


「どうやらよっぽど楽しかったみたいだねぇ?」

「ああ。そのようだ」


 ローヴァンがにんまりしながら答えた。時には国王に対し手厳しい態度をとるジギスも、さすがに何も言う気にはなれなかったらしい。

 馬車の座席には、扉が開いたことにも従者たちの声にも気づかず、手を繋いだままぐっすり眠る王と王妃の姿があった。

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