お妃様と猫の魔法のお話
※本編40話より後のお話です。
アルクレイド王城の図書室は、さながら本の海だ。部屋中にずらりと並ぶ天井にまで届くほどの本棚には、歴史書から小説、図鑑まであらゆる本が詰まっている。
エリーズは暇をぬってはそこへ足を運び、興味のあるものを片っ端から読み漁った。一生をかけても読み切れないほどの数がある蔵書の中から、面白いものを見つけられると嬉しい気分になる。それはまるで宝探しをしているようだった。
今日もエリーズは宝探しをすべく、本棚の端から端までを舐めるように見つめていた。厚さも背表紙の装丁もばらばらな本の中からぴんとくるものを探す。だが今日はなかなか手にとろうと思えるものに出会えなかった。本棚に沿って背伸びしたり屈んだりしながら、エリーズは図書室の最奥まで迷いこんでいた。ここまで本を探しに来る機会はあまりない。心なしか革とインクの匂いが濃くなったような気がした。
「あら……?」
ふと、壁際にある本棚の下段に収められた紫色の装丁の本がエリーズの目に留まった。夫の髪と目の色を彷彿とさせる色合いの背表紙に指をかけて引っ張り出してみる。五十頁に満たないほどの厚さの本の表紙には題名が記されていなかった。代わりに、尾をくねらせてちょこんと座る猫の絵が描かれている。
(猫の本なのかしら)
エリーズは本の最初の頁を開いてみた。文章は書かれておらず、あるのは丸まって眠るオレンジ色の毛の猫の絵だ。本に色付きの絵が描かれているのはかなり珍しい。次の頁には毛糸玉にじゃれる金色の瞳の猫、そのまた次は尻尾をぴんと立てて道を歩く黒猫の絵。どうやら猫を題材にした画集のようだが、作者名はどこにも見当たらない。
強い興味を引かれ、エリーズは本を抱えて図書室を出た。良い宝に巡り会えたとうきうきしながら。
***
私室に戻ったエリーズは、再び本を開いた。
猫たちが日常を過ごす絵はどれも色鮮やかで生き生きしている。今にも動き出し、鳴き声をあげてこちらに飛び出してきそうだ。文章がないので、猫たちがいる状況や彼らの境遇を想像するのが楽しい。
絵画に詳しいヴィオルがこの絵を見たら何と言うだろう、さっそく今夜、彼にもこの本を勧めようか――そう考えつつ、エリーズが何気なく己の頭に手をやった時だった。
ふさふさしたものが指先に触れ、エリーズは意識を本から逸らした。髪とは違う感触のものの正体を探るべく、再びそこへ手を伸ばす。
やはり、柔らかい毛に包まれたものがそこにある。つまんで軽く引っ張ってみると、頭皮が突っ張る感覚を覚える。
エリーズは何が起きているのかいまいち飲み込めないまま本を閉じ、化粧台の方へ向かった。心臓が不規則な鼓動を刻むのを感じながら、化粧台の上にある鏡に自分の顔を映す。
その瞬間、エリーズの人生至上最も大きな叫び声が喉から飛び出し、王城を駆け抜けた。
***
国王の執務室の扉が強く叩かれる。ヴィオルが入室を許可する前に、息を切らした二人の少女が飛び込んできた。王妃付きの女官、シェリアとルイザだ。
共に執務に励んでいた近侍のジギスが眉をひそめた。
「陛下、許可なき入室をお許しください!」
「でも、大変なことが起きてしまったんです!」
「用件は?」
ヴィオルは問うた。ただ事ではないのは彼女らの様子から想像できる。
「その、エリーズ樣のことで」
「何があった!?」
その言葉を聞き、ヴィオルは一気に平静さを失って少女たちに詰め寄った。愛しい妻の急病か、大怪我か――国王の剣幕に二人の女官は一瞬面食らったものの、再び口を開いた。
「その、説明が難しくて……直接みて頂いた方がいいと思います」
「エリーズ樣は私室にいらっしゃいます」
それを聞くや否や、ヴィオルは矢のように執務室を飛び出した。
「陛下!」
残されたジギスは留まるべきか逡巡の後、シェリアとルイザを連れて国王を追った。
***
王妃の私室へ飛び込んだヴィオルが目にしたのは、毛布を頭からすっぽり被ってソファに座るエリーズの姿だった。王妃付きの筆頭女官であるカイラと、近衛騎士のリノンがそれぞれ両脇に着いている。
「エリーズ、どうしたの!?」
ヴィオルは妻の元へ駆け寄り、彼女の前に片膝をついた。エリーズが答える前に、リノンが身を乗り出す。
「陛下、説明の前にお聞きしたいんですけど……エリーズのこと、愛してますか?」
切羽詰まっている状況とちぐはぐな質問に、ヴィオルは眉をひそめながら答えた。
「もちろんだ。それが何か?」
「何があってもエリーズの味方になるって、宣言できますか?」
「できるよ。だからどうしてそんなことを聞くんだ?」
ヴィオルの答えを聞き、リノンはエリーズの顔を見て大きく頷いた。エリーズが意を決したように頭から被った毛布をするりと取る。
「……え?」
妃の姿を見てヴィオルは言葉を失った。輝く銀色の髪で覆われたエリーズの頭、その上に――三角形に立った動物の耳が生えていた。
「これは……」
信じがたい光景だった。手のこんだいたずらかとも思ったが、近衛騎士や女官たちを巻き込んだいたずらをエリーズが仕掛けてくるとは思えない。
ヴィオルの後を追って来ていたジギスも彼らしからぬ困惑の色を顔に浮かべていた。
「一体なぜこのようなことに」
カイラが一冊の本をヴィオルに差し出した。紫色の装丁の本に、開くことができないよう革紐を幾重にも巻き付けて縛ってある。
エリーズに代わりカイラが事の次第を話した。
「エリーズ樣がこちらの本を図書室で見つけて、読んでいたところ気づいたら猫の耳が頭に生えていたとのことです」
「ドレスで隠れてますけど……尻尾も生えてるんです」
リノンが付け加える。尾も耳もエリーズの体の一部となっており、引っ張っても取れないのだという。
「ジギス、こういった現象について聞いたことは?」
国王の問いに近侍は神妙な面持ちで頭を振った。
「いいえ。おそらくは何かまじないの類かと思われますが……」
小さな息を飲む音が聞こえ、ヴィオルは妻の方に視線を戻した。まじないという言葉に怯えたのだろう、エリーズは涙目になっていた。
ヴィオルは彼女の両手をとり強く握った。
「大丈夫だよ、エリーズ。さっきも言った通り、僕は何が起こっても君の味方だ」
そう言って再びジギスの方を向く。
「ジギス、王都じゅうの医者と学者を集めて欲しい」
「直ちに」
彼は頷き、足早に部屋を出ていく。
「エリーズ、体に何か違和感は? どこか痛むとか気分が悪いとか」
「……いいえ、それは何もないわ」
「そうか、ならひとまずは安心だね」
未知の現象にヴィオルも内心は動揺していたが、いちばん不安なのはエリーズのはずだ。彼女を更に怯えさせないよう、ヴィオルは微笑んでみせた。
「大丈夫、絶対に元に戻る方法を見つけてみせるよ」
エリーズの頬に軽く口づけて、ヴィオルは周りに控える近衛騎士と女官たちを見渡した。
「僕も情報を集めに出る。君たちはエリーズの傍にいて。些細なことでも何かあればすぐに報告を頼む」
しっかり頷いた彼女らを見て、ヴィオルは部屋を後にした。
***
その後、エリーズはヴィオル付き添いのもと集まった医者の診察を受けたが、治療方法は見つけられなかった。あらゆる分野の学者たちも、人に猫の耳と尾が生える事象は聞いたことがないとお手上げの状態だ。
そのままただ時間だけが過ぎ、夜を迎えてしまった。
エリーズは寝室で夫が戻ってくるのを待っていた。今も王都中の知識階級の人々が王妃を襲ったまじないの謎を解くために動き続けている。その中にはジギス、そしてもちろんヴィオルがいる。エリーズも一緒に調査をすると申し出たのだが、しっかり休息をとるべきだとヴィオルが首を縦に振らなかった。
頭に手をやると、ふさふさした猫の耳がある。夜着の裾から、銀色の細い尻尾の先端が覗いている。
不快感はないが、不安に胸が押し潰されそうだ。食事もまともに喉を通らなかった。
寝室の上でエリーズが膝を抱えていると、寝室の扉が静かに開いた。
「まだ起きていたんだね」
現れたヴィオルは日中に見た姿と同じままだった。普段ならエリーズと穏やかな時間を過ごしている頃だが、食事も湯浴みも後回しにしてエリーズを救おうとしているのだ。
「眠れない?」
エリーズに寄り添うようにして寝台に座り、ヴィオルが尋ねる。
「ええ……その、ごめんなさい……わたしがぜんぶ悪いのに、皆さんに……ヴィオルにもこんなに迷惑をかけて……」
全ての原因は、エリーズがあの本を開いたことだ。危ない本かもしれないと怪しむべきだった。
「エリーズ、絶対に自分を責めないで。図書室にまじないの本があったなんて僕ですら知らなかったんだ。しっかり管理ができていなかったこちらに責任があるよ」
おそらく、今日明日にエリーズがまじないのせいで命を落とす確率はかなり低い。だが、それだけで安心はできない。猫の耳と尻尾を生やした状態で、民や他国の来賓の前に立つことなど以ての外だ。王妃としての役割を果たせない状況を、一刻も早く打破するべきだ。
「……ヴィオル、この耳と尻尾、切り落としてしまいましょう。少しくらい痛くても平気だから」
治療方が見つからなければ、それが最も手っ取り早い手段だろう。優れた医者は大勢いる。エリーズの体に負担がかからないような手術ならできるはずだ。
「エリーズ、それだけは絶対に許せない」
ヴィオルが強い口調で答えた。
「少なくとも今、これは君の体の一部なんだ。それを切り落とすなんて何があっても駄目だ」
「でも、このままでは人の前に出られないわ。それでは王妃は名乗れないもの」
「僕の妃は君だけだ。君の姿を見て笑うような不届き者は全員牢屋行きにする。外に出たくないならそれでも構わないよ。退屈はさせないから」
「でも、でも……!」
一生、猫の耳と尾を生やしたままで生きろと言われても、ヴィオルが傍にいてくれるなら耐えられる。だが、エリーズには強い懸念があった。
「今はまだ耳と尻尾以外は普通のわたしだけれど、もしかしたら明日には目や、手足が猫になってしまうかもしれないわ。そうしていつか、本物の猫に……」
そうなってしまったらいよいよ王妃は名乗れない。ヴィオルが猫を妃と呼ぶ狂人として周囲から扱われるのは己が針を千本飲むより辛い。
ヴィオルとエリーズの間にはまだ子がいない。エリーズが猫になってしまったら、世継ぎをもうけるため他の女性を妻に迎えるだろう。その光景を見るくらいなら、燃え盛る炎に身を投げる方がましだ。
「エリーズ」
優しい声でヴィオルが呼び、エリーズの手を握る。
「そうなってくれたら簡単だ。僕もあの本を使って猫になればいい」
「そんな……」
さらりと人として生きることをやめると宣言した夫に、エリーズは目を丸くした。
「君も知っての通り、元々は王のいない国をつくるつもりだった。その計画をまた戻せばいいだけの話さ」
「ヴィオル……」
「君といられるなら何にでもなる。ずっと寄り添って一日じゅう日向ぼっこする生活も幸せじゃないか。エリーズはそうは思わない?」
言葉にできない感情で胸がいっぱいになり、エリーズの瞳から涙が溢れた。国中から慕われる国王が全てを捨てて、妻と添い遂げると躊躇いなく告げてくれたことが嬉しくてたまらなかった。
「ヴィオル……ありがとう……ありがとう……」
縋るようにヴィオルに手を伸ばすと、彼はエリーズを優しく抱きしめた。
「忘れないで、エリーズ。僕はずっと君の傍にいるよ。僕たちは家族なんだから」
エリーズの頭を撫でながら、ヴィオルがささやくように言う。彼の胸に頭を預けているうちに、エリーズはいつの間にか眠りに落ちていた。
***
温かい光を顔に受け、エリーズは目を開けた。
「おはよう、エリーズ」
寝台のへりに腰かけたヴィオルが微笑みかけてくる。
「おはよう……」
それに応えながら、エリーズはぼんやりとした頭で、自分が起きる頃にはすでに政務に取り掛かっているはずの夫がなぜここにいるのか考える。
答えにたどり着く前に、ヴィオルが手に持っていたものをエリーズの顔に前に差し出した。
「これを見て」
それは手鏡だった。エリーズはそこに映った己の顔をしばし見つめ、昨日のことを思い出した。不思議な本を開いたら猫の耳と尻尾が生えて、治す手立てが見つからなくて、でも今は――
「ないわ! 耳がない!」
エリーズは声を上げ、自分の頭に手をやった。ふさふさの毛に覆われた三角形の耳は綺麗さっぱり消えていた。次に腰の後ろを探ると、尻尾も無くなっているのが分かった。いつも通りのエリーズだ。
「どなたが治してくださったの?」
ヴィオルは肩をすくめた。
「誰も何もしていないよ。どうやらまじないの中でも危険性が低くて、時間が経てば元通りになるものだったみたいなんだ」
「そうなの……ヴィオル、本当にごめんなさい。わたしが大騒ぎをしてしまったから、多くの方にご迷惑をおかけしたわ」
「いや、これは十分に国の一大事だよ。何もなくて良かった。本当に」
ヴィオルが手を伸ばし、エリーズの頭を撫でる。その手指が滑り、エリーズの頬に降りた。
「……君と一日じゅう日向ぼっこして過ごす生活は、何十年後かの楽しみにとっておくよ」
「そうね、それがいいわ」
エリーズが笑って言うと、ヴィオルも愛おしそうに目を細めエリーズの頬にキスを贈った。そして寝台から立ち上がる。
「僕は行くけれど、君は一日ゆっくりしていて。今日の予定はぜんぶ取り消させたから」
ヴィオルもまともに寝ていないはずだが、彼は何食わぬ顔で寝室を後にする。夫の献身にはいくら礼を尽くそうとしても足りない。
彼を見送った後、エリーズも寝台から降りた。今日一日の過ごし方はもう決めた。王妃のために知識を出し合い働いてくれた者たち一人ひとりに感謝の手紙を書くのだ。




