見たことがない顔のお話
※本編40話後のお話です
国王ヴィオルはどのような人物か、王国貴族や騎士、使用人たちに問えばみな一様に「末端の者にも目をかけ、常に公正で厳格でもあるお方」と答える。
もちろんそれは不正解ではない。国王としてすべての国民が幸せになれるよう励む彼の姿はエリーズのよく知るところだ。
だが、それが彼の全てという訳でもない。エリーズは今までヴィオルの様々な表情を見てきた。キャンバスに筆を走らせている時の、執務中とはまた違う真剣さがある横顔、エリーズとゲームに興じる時の少年のような無邪気な笑顔、エリーズの話に耳を傾ける時のうっとりと目を細めた表情、エリーズの注意が他の何かに向いた時のあからさまに拗ねた顔、そして寝所で愛する妻を一心不乱に貪る男の一面。
彼の様々な姿を知る度に、どんどん好きになっていく。リノンからは「さすがに嫌なところが目についてくる頃じゃない?」と言われたが、その心配は全くの無用だった。
だがエリーズには、未だ見たことのないヴィオルの顔がある。彼の寝顔だ。
結婚してから毎晩同じ寝台で休んでいるが、ヴィオルがエリーズより先に眠ったことはない。彼から熱く甘く深く愛され、エリーズはいつもほぼ気絶状態で眠りに落ちてしまう。エリーズの体調如何によってはただ寄り添うだけの日もあるが、その時もヴィオルはエリーズが寝付くまで優しく頭を撫でてくれる。
そして朝も、彼はエリーズが目を覚まさないうちに起きて政務に向かう。そして夜になるまで働き、たまにできた空き時間はエリーズと過ごすか趣味の絵画、あるいは剣術の鍛錬に充てられる。
彼がしっかり休息がとれているのか不安になったエリーズは、ローヴァンとリノンにそれについて尋ねてみた。リノンはともかくヴィオルとは幼い頃からの付き合いであるローヴァンですら、彼の寝ている姿は見たことがないのだという。
「陛下って、あたしたちとは違う時空に生きてる感じあるよね」
「王妃殿下がご心配なさらずとも、きちんと休んではいるはずですよ。あまり眠らずとも疲れない体だと以前に言っておりました」
「羨まし……くはないか。あたし寝るのも好きだし」
それにしても、とリノンが続ける。
「陛下、昼間は涼しい顔して夜はエリーズをきゃんきゃん啼かせてるって、ジギスさんとはまた違う意味で鉄仮面というか……」
「……リノン、慎め」
ローヴァンがため息混じりにリノンをたしなめる。エリーズは顔を赤くして俯いた。
***
それから数日後の昼下がり。エリーズはヴィオルの「話したいことがあるから私室で待っている」という言伝を女官のカイラから受け、国王の私室へ向かった。
その扉をノックしたが、ヴィオルからの返事がない。
「ヴィオル? ……入るわね?」
部屋にいるはずの夫に声をかけ、エリーズはゆっくり扉に手をかけた。
長椅子の端にヴィオルが座っている。エリーズが来ても顔を上げることなく、長椅子の肘置きに頬杖をついて下を向いていた。
眠っている――エリーズはヴィオルの隣に腰掛け、その横顔をまじまじと見た。彼の寝ているところを見たことがないと数日前にリノンたちに話したばかりで、こんなにも早く機会が巡ってくるとは思っていなかった。
小さな寝息を零すヴィオルは、見れば見るほどエリーズの心を引き付ける。この姿を切り取って絵にしたなら、どんな名画にも劣らない傑作になるはずだ。
エリーズを待っている間にうたた寝をしてしまうなんて、よほど疲れているのだろう。日々の彼の働きぶりからすれば当たり前のことだ。
エリーズは夫を起こすようなことはしなかった。話をする機会は夜にでも設ければいい。気持ちよく寝かせてあげようと、エリーズは静かに自分の部屋まで行くとブランケットを取ってヴィオルの元へ戻り、彼の膝にそれをかけた。
それでもヴィオルは目を覚まさなかった。エリーズは再び彼の隣に座り、横顔をじっと見つめた。長い睫毛、すっと通った鼻筋、血色のよい唇。紫水晶の君の無防備な姿に、エリーズの胸はきゅんと震える。
(一回だけなら、きっと分からないはずよ)
エリーズは顔を夫に近づけ、彼の頬に優しく口づけた。ちょっとした出来心がヴィオルに気づかれることはない――そう思った次の瞬間
「……ふふ」
笑い声に似た吐息が、ヴィオルの唇から漏れる。エリーズがきょとんとしていると、次に彼の肩が小さく震え出した。
「ヴィオル……?」
「ああもう可愛すぎて無理。限界だ」
ヴィオルが目をぱっちりと開ける。寝起き特有のぼんやりした様子がまったくない彼を見て、エリーズはまさかと息を飲んだ。
「ヴィオル……もしかして起きていたの?」
ヴィオルは答える代わりに、勝ち誇ったかのように目を細めた。
「い、いつから?」
「最初からずっと」
「お話があるっていうのは……」
「ごめん、嘘をついた」
すっかりヴィオルが眠っていると思い込んでいたエリーズの頬にかっと熱が集まる。
「君、少し前にローヴァンに僕が寝ているところを見たことがないって話しただろう? だから見せてあげようと思って」
後からローヴァンがヴィオルへそのことを伝えたようだ。彼らしからぬ行動だと思ったエリーズの胸中を悟ったのか、ヴィオルが言葉を続けた。
「ローヴァンを責めないでやって。彼、普段はものすごく口が堅いんだけれど、君が絡むことになると僕がものすごく面倒な男になると知っているから、僕を蚊帳の外にしたくなかっただけなんだ」
「それはいいけれど……でも、寝ているのを見たことにはならないわ」
今エリーズが目にしたのはあくまでもヴィオルの寝たふりだ。
「まあ、そうだね。本当は、君のお願いなら何だって聞くんだけれど……今回はお預けにさせて」
「もしかして、見られたくない? だったら無理はしてほしくないのだけれど……」
「ううん、そうじゃなくて。君には僕の全部を知って欲しいけれど、少しずつにしたいんだ。飽きられたくないから」
エリーズは目を丸くした。ヴィオルに飽きるなど考えたこともない。この先もずっと、エリーズにとっての最愛の夫だ。
「そんなこと……」
「あり得ないって言ってくれるんだよね。でも、少しだけ我儘を許して」
ヴィオルが手を伸ばし、エリーズの頬を撫でる。
「寝顔なら、見られる機会はいつか来るよ。この先もずーっと一緒にいるんだから」
噛み締めるように彼は言った。それはかつて、心の底から願っても叶わないはずだった。しかし今は違う。エリーズは笑った。
「ふふ。そうね」
ヴィオルの肩にもたれかかると、彼はエリーズの体を抱き寄せた。空いている方の手で、自分の膝にかけられたエリーズのブランケットを示す。
「気遣ってくれてありがとう。君は本当に素敵だ」
「ありがとう、ヴィオル。わたしも」
エリーズはそこで言葉を切り、ヴィオルの顔をじっと見た。瞳にエリーズだけを映して微笑む、今の彼の表情が最も魅力的に感じる。
「わたしのことを大好きでいてくれるあなたが、大好きよ」
今度は夫の唇に、エリーズはたっぷりの愛をこめてキスをした。それはすぐに倍以上になってエリーズの元に返ってきた。




