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ダンスの練習のお話

※本編13話後のお話です。

「本日はここまでに致しましょう」


 文官のフレドリクがそう言って本を置いた。

 エリーズは席を立ち、彼に向かって礼をした。


「今日もありがとうございました、フレドリク先生」


 国王の婚約者となってから始まった王妃教育は、ヴィオルと結婚式を挙げた後の今も続いている。とはいっても最低限に必要なことについての授業は既に終わっており、エリーズたっての希望で行われているものだ。学者や文官がそれぞれ得意な分野を受け持っている。今日の教師を務めた文官のフレドリクは経済に詳しい王国の重鎮だ。かつて、ヴィオルも彼の元で学んだという。

 フレドリクの執務室の扉を開けたエリーズの目に、人の姿が飛び込んできた。


「やあ、エリーズ。驚いた?」


 ヴィオルだ。どうやら部屋の前でエリーズが出てくるのを待ち構えていたらしい。


「まあ、どうしたの? フレドリク先生にご用事?」

「君に会いに来たに決まってるじゃないか」


 そう言って彼はエリーズの両手を取りぎゅっと握った。


「エリーズはすごいね。僕は経済学がどうも苦手で、一時期はフレドリクの顔を見るだけで頭が痛かったよ」


 エリーズの背後で、フレドリクの笑い声が聞こえた。

 ヴィオルはエリーズに微笑みかけた。


「休憩に少しお喋りしない?」

「ええ、もちろん」


 差し出された彼の腕に自分の腕を絡ませ、エリーズは最後にフレドリクにもう一度礼を述べてその場を後にした。


「そんなに頑張らなくたっていいんだよ? 勉強より遊んでいた方が楽しいのに」


 城の廊下を歩きながらヴィオルが言う。


「お勉強が楽しいの。先生がたもとても親切にしてくださるわ」


 王妃教育が始まって間もない頃はエリーズも教師たちもどこかぎこちない様子でやり取りしていたが、今は気兼ねなく質問や他愛もない話ができる間柄だ。彼らは揃って自分の仕事に誇りを持っており、何よりヴィオルのことをこの上なく尊敬している。彼らの存在はヴィオルの隣に立つ王妃として相応しい女性になりたいと、一層エリーズを奮い立たせてくれる。


「……僕がいなくても心配はいらなそうだね。お披露目の時には絶対に、皆が君を完璧だと褒めてくれるよ」

「そうかしら……まだまだ知らないことはたくさんあるし、ダンスだってあまり上手ではないわ」


 特にダンスについてはヴィオルと初めて出会ったあの日以来、まともに練習していない。「自分以外の男と踊らないで欲しい」というヴィオルたっての願いによるものだが、本当にこのまま公の場へ王妃として出てもいいのか。それが今のエリーズの不安の種だった。

 ヴィオルの顔がぱっと明るくなった。


「じゃあ、今から一緒に練習しようか!」

「えっ、いいの?」

「時間があるし、君が悩んでいるのを放っておくことなんてできないからね」


 さあ行こう、と彼に導かれてエリーズが来たのは、二人が運命の出会いを果たした大広間だった。他には誰もおらず、その広さがより際立つ。


「ここで練習するの?」

「うん。嫌?」

「そうではなくて……わたしの練習のためだけに使わせて頂いてもいいのかしらって思って」

「エリーズ、僕はこの城でいちばん偉い王様だよ?」


 ヴィオルがふふっと笑う。


「僕がここを使いたいって言ったら、それには誰も逆らえない。君は何にも気にしなくていいんだよ」


 ヴィオルに手を引かれ、エリーズは大広間の中央に立った。窓から差し込む陽光が床に反射して淡く輝く。


「力を抜いて、僕を見て」


 音楽はないが、ヴィオルの足運びは流れるようだった。初めて彼と踊った日もそうだったが、エリーズの体も魔法がかけられたように軽やかに動く。


「エリーズ、上手だよ。そんなに心配しなくても大丈夫だ」


 上手いのはエリーズではなくヴィオルだ。場数が彼とは天と地の差ほどもある。王国内で、あるいは他国で開かれる夜会で、きっと多くの姫君や令嬢を(とりこ)にしてきたのだろう。

 彼と手を触れ合わせ、紫水晶の瞳を独占した女性はエリーズの他にたくさんいる。それを思うと、エリーズの胸にもやもやとした気持ちが渦を巻く。

 ヴィオルの婚約者として王城に迎え入れられてから、エリーズは多くのことを学んだ。下働きをしていた時に比べればいくらかまともな人間になっているはずなのに、今まで知らなかった自分の醜い一面が見えてくる。彼と踊ったことがあるだけの何の罪もない女性たちに対し、尖った茨の(とげ)のような感情を覚えてしまう。


「……不思議だな」


 踊り続けながら、ヴィオルがぽつりと言った。


「僕、実はダンスってそんなに好きではなかったんだ」

「そうなの? こんなに上手なのに」


 驚いてエリーズが問うと、彼は小さく笑った。


「ありがとう。でも好きかどうかはまた別の話だよ。もちろん誰とも踊らないなんていう選択はなかなかできないから、仕方なしにやっていたんだけどね」


 でも、とヴィオルは目を細めた。


「君となら、ずっと踊っていたいって思える。こんな気持ちになったのは初めてだ」


 まるで自分の心の中を見透かしてきたかのような彼の言葉にエリーズは驚きつつも、ささくれ立っていた気持ちがすっと落ち着いていくのを感じた。ヴィオルと踊った女性は数多くいても、彼の心を得たのはエリーズただ一人だ。

 ヴィオルがエリーズと繋いだ手をふわりと上にあげる。エリーズはその場でくるりと一回転し、再び彼と向かい合った。紫水晶の瞳と視線がぶつかり、エリーズは自然と笑みをこぼす。

 それを見たヴィオルは足を踏み出すことなく、エリーズの体を抱き寄せた。エリーズがどうしたのと聞く間もなく唇が重なる。

 

「ヴィオル……」

「こんなに可愛い顔で見つめられて我慢しろだなんて、無理だよ」


 口づけは一度では終わらない。もしかしたら使用人が掃除のために入って来るかもしれないのに――繰り返される口づけの合間に、エリーズは頭をぼんやりさせながらも言葉を絞り出す。


「ヴィオル、誰かに、見られちゃう」

「いいじゃないか。僕たちがここで何をしていようと、誰にもそれは止められない」


 ヴィオルの指がエリーズの唇をなぞった。


「僕はこの城でいちばん偉いんだから」


***


 ヴィオルが政務に戻らなければならない時間となったので、エリーズは見送りのために彼と共に執務室の入り口へと向かった。


「頑張ってね、ヴィオル。わたしもあなたのお手伝いがたくさんできるようにもっとお勉強するわ」

「ありがとう……その気持ちだけでも十分過ぎるよ」


 ヴィオルは名残惜しげにエリーズを抱きしめ、耳元に口を寄せた。


「頑張って早く戻るから……今夜、僕のためだけに踊ってね」


 エリーズの顔がかっと熱を持つ。それが先ほど二人で楽しんだ優雅なワルツのことをさしているのではないのを知っている。

 今までエリーズが学んだのは経済や歴史、礼儀作法だけではない。愛し合う恋人や夫婦にだけ許される戯れを、知らなかった頃にはもう戻れない。

 耳まで赤くする初心な妻の頬に軽くキスをして、ヴィオルは扉の向こうに消えていく。

 このあと始まる政治学の授業までに何とか平静を取り戻さんと、エリーズはその場で必死に頬を揉んだ。

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