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お妃様の出来心のお話

※本編19話より後のお話です。

 アルクレイド王国に今日も夜がやって来る。

 ヴィオルの政務があまり立て込んでおらず、舞踏会や晩餐会の予定もないときは、エリーズは彼と就寝までの時間をゆったりと過ごす。どちらかの私室で茶を飲みながら他愛もないことを話すことが多いが、それ以外にもエリーズの声で詩が聞きたいとヴィオルにせがまれて詩集の中のいくつかを聞かせたり、時にはヴィオル手ずからエリーズの髪を丁寧に()かしてくれることもある。

 そして、最近エリーズが強い興味を示しているのはチェスだ。ヴィオルにルールを教わり、実戦にも付き合ってもらっている。まだまだ技術は未熟だが、数手先を読んで相手の駒をとることができると、ヴィオルが手加減してくれていると分かっていても嬉しかった。

 今夜もヴィオルが時間をとってくれたので、エリーズは彼の私室のテーブルの上にチェス盤を広げた。一流の職人により盤も駒もすべて大理石で作られた特注品だという。

 夜用のローブに着替えたヴィオルが、エリーズの向かいの椅子に座った。


「よし、始めようか」


 その時、部屋の扉がノックされた。ヴィオルとエリーズ双方とも、使用人を呼びつけてはいないはずだ。

 ヴィオルが不思議そうにしながらも、エリーズに少し待っていてと声をかけ扉の方へ向かっていく。

 音の主は彼の近侍、ジギスだった。突然申し訳ございませんと国王に向かって頭を下げ、何かを話し始める。エリーズのいる位置から内容までは聞こえなかった。

 一旦、扉が閉じられヴィオルはエリーズの元へ戻ってきた。端正な顔に心底申し訳ないというような表情を浮かべている。


「ごめん、急ぎで確認しないといけない用事ができた。すぐ戻るから待っていてくれる?」

「もちろん待つけれど……わたしに何かできることはない?」


 大丈夫だよ、とヴィオルは笑ってエリーズの額に口づけを落とした。


「夫婦の時間に水を差すなんて、ジギスにはあした処刑台に上がってもらいたいところだけれどね」


 冗談めかした様子で彼は言い、早足で部屋を出て行った。

 ぽつんと残されたエリーズは辺りを見回した。ヴィオルの私室を訪れたことは何度かあるが、中をじっくり見たのは初めてだ。エリーズの部屋は白や明るい色を基調とした調度品が揃えられているが、この部屋に置かれている家具は暗い色の木材を多く使い、落ち着いた重厚感のあるものばかりだった。

 手持無沙汰になったエリーズは椅子から立ち、部屋の中を見て回った。夫といえど人の私室で必要以上にうろつくのはいけないことだろうが、日中常に共にいられる訳ではないヴィオルがこの部屋でどんなことをしているのか、少しでも感じてみたかった。とはいっても部屋はすっきりと片付いており、生活感があまりない。もちろん使用人たちの掃除がしっかり行き届いていることもあるが、何より彼自身が私室に寄りつく暇がほとんどないのだろう。

 エリーズは衣装だんすの前で足を止めた。国王と王妃が袖を通す服はすべて別の衣裳部屋で丁寧に管理されているため、ここにしまってあるのはくつろぐ時に着る部屋着くらいのはずだ。

 駄目だとは知りながらも、エリーズはそっと衣装だんすを開けた。予想通り、そこにあったのは夜用のローブの替えだった。それを見た途端、エリーズの心に更なる好奇心が湧き上がる。

 エリーズはそれを取り出し、ふわりと羽織った。近くにあった姿見の前に移動し自分の姿を確かめてみる。ヴィオルはそこまでたくましい体つきをしていないが、それでも彼の体に合うよう作られたローブはエリーズの身には余った。

 ローブの首元をそっとつかみ鼻先を近づける。洗濯石鹸の香りに混じって、ほのかにヴィオルの匂いがする。エリーズに安らぎとときめきと、少しの甘い刺激をもたらす匂いだ。


「……ふふ」


 エリーズは小さな笑い声を零した。愛する夫に抱きしめられているような感覚に夢中になる。

 彼女は部屋の扉が開く音に気付かないままだった。そして――


「何をしているのかな?」


 背後から聞こえた声に、エリーズははっとして振り返り、一気に青ざめた。用事を済ませて帰ってきたらしいヴィオルがそこにいた。


「それ、僕のだよね?」


 微笑を浮かべながらヴィオルが問う。エリーズは口をぱくぱくさせた後、何とか声を絞り出した。


「そ、そうだけれど、あの……ご、ごめんなさい」


 どれほど愛し合っていたとしても、許可なく相手の持ち物を身につけるなどしてはならないこと――言い逃れなどできないし、上手い誤魔化しもエリーズには思いつかなかった。

 ヴィオルは不思議そうに小首を傾げた。


「どうして謝るの?」

「だ、だってわたし、勝手にあなたの服を着て……」

「そんなことで僕が怒ると思う?」


 どうやらヴィオルは気を悪くしたわけではないらしい。エリーズはほっと胸を撫でおろした。だが安心できたのもつかの間だった。


「せっかくだ。夜着の上からじゃなくて、素肌にそれを着て見せてよ」

「え、ど、どうして!?」


 到底、意味が分からなかった。脱いで衣装だんすに戻せというのが本来の言うべきことではないのだろうか。

 ヴィオルは笑顔で、部屋の端にある着替え用のついたてを指さした。


「ここで着替えてとは言わないからさ。そこの裏で、ね? お願い」


 ヴィオルの心の内が読めないままだったが、元はといえばエリーズが出来心で彼のローブを羽織ってしまったことが原因だ。エリーズは大人しく彼に従い、ついたての裏に引っ込んだ。

 夜着を脱いで、素肌の上にヴィオルのローブを着る。絹が惜しみなく使われたそれはとても柔らかい着心地だが、エリーズには着丈が合っていないのでやや滑稽(こっけい)に思える。

 エリーズはおずおずとついたての裏から出て、ヴィオルの前にローブ姿を晒した。


「あの……あまり似合っていないような気がするのだけど」

「いや、そんなことないよ」


 ヴィオルは呟くように言い、視線をエリーズの頭からつま先まで動かした。そして深いため息をつく。


「ああ……すごい破壊力」


 次の瞬間、エリーズは彼に横抱きにされていた。


「ヴィオル、どうしたの!?」

「ごめん、チェスは明日にしよう。もう我慢できない」


 ヴィオルの紫水晶の瞳に熱い炎が揺らめいている。この後の展開がどうなるか、エリーズが察するには十分だった。

 エリーズが何を身につけていても、ヴィオルは綺麗だ可愛いと褒めてくれる。だがその中でもいくつか「お気に入り」がある。それをエリーズが身につける時は二人の時間はより濃く、情熱的なものに変わる。エリーズも彼の「お気に入り」が何なのかはおおよそ分かっていて、特別に彼が恋しい日はそれを選ぶ。

 だが、だぶついたローブ姿の何がヴィオルに火をつけたのかエリーズにはさっぱり分からなかった。少なくともエリーズが知る彼の「お気に入り」からはかけ離れた姿のはずだ。よもやちょっとした出来心で夫の新たな「お気に入り」を知ることになるなど思いもしなかった。

 自分のローブに身を包んだ妻を抱え、ヴィオルの足は迷うことなく寝室へ向かう。指揮する者がおらず自陣に居座ったまま睨み合うだけのチェスの駒たちが、エリーズの目には何かもの言いたげなように映ったが、それはきっとすぐにどうでもよくなることだろう。

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