王様の怪我のお話
※本編40話より後のお話です。
ヴィオルは訓練用のサーベルを手に、近衛騎士のローヴァンと相対していた。二人以外には誰もいない訓練場に刃がぶつかり合う音が響く。
政務の合間にローヴァンを相手にした剣術の鍛錬の機会を増やすようにしてから、ヴィオルは己の技術が着実に伸びているのを感じていた。ローヴァンからは以前より一定以上の才能を持っていると評価を受けていたものの自覚がなかったのだが、幼馴染でもある彼の目に狂いはなかったようだ。
とはいえ、王国一の騎士と称されるローヴァンに比べれば遠く及ばない。それでも彼に少しでも近づきたくてヴィオルはサーベルを振った。
体をばねのようにして剣戟を繰り出し、攻めの姿勢に転じる。ローヴァンは少し面食らったような顔をしたが、すぐにヴィオルの攻めに対応した。
ヴィオルは一歩退き、瞬時にまた前に出ると共にサーベルを突き出した。ローヴァンがそれを受け止め、反動を使って押し返す。反撃に対応しきれず、ヴィオルはサーベルを落とすと共に床に崩れ落ちた。
「すまん、大事ないか」
ローヴァンが一目散に駆け寄ってきた。
「ああ。大丈夫」
身を起こしたところで、ヴィオルの右手首にずきりと痛みが走った。外傷はないが、転んだ拍子に捻ってしまったようだ。
「どうした?」
「手首を痛めたみたいだ」
ローヴァンがヴィオルの右手首にそっと触れた。
「どの程度痛む?」
「大したことないよ。曲げた時に少し気になるくらい」
「念のため医者に診てもらった方がいい。悪かった、随分と食らいついてくれるものだからつい俺も力を入れてしまった」
「いいよ。そのくらいしてくれないと鍛錬にならないからね」
「……お前に何かあったら王妃殿下に申し訳が立たん」
ローヴァンが眉を下げて言う。精悍な顔つきに似合わない表情にヴィオルは思わず吹き出し、気にしないでと彼の肩を叩いた。
***
エリーズは夜の支度を終え、寝台に腰かけて夫が来るのを待っていた。何を話そうか考えていたところで寝室の扉が開き、ヴィオルが姿を現す。
「エリーズ、お待たせ」
彼がエリーズの隣にいそいそと座り、頬に軽い口づけを落とす。そこでエリーズはあることに気がついた。
彼の右手首に、白い包帯がぐるぐると巻かれている。
「ヴィオル……その手、どうしたの?」
「ああ、これ? 昼間にローヴァンと剣の稽古をしていた時に捻ってしまってね。ローヴァンのせいではないよ。僕がつい力を入れすぎたんだ」
「そんな……大丈夫なの?」
「平気だよ。夕食の時も普通にしていたでしょう?」
先ほどの夕食時には、ヴィオルは手袋をはめていたためエリーズが包帯の存在に気づくことはなかった。確かに彼は特に右手を庇うようなこともしていなかったが、エリーズの心配はすぐには無くならない。
「ヴィオル……どうしてそんなに頑張るの?」
エリーズはヴィオルの手を、患部を避けつつそっと包むように握った。
「ヴィオル、前に言っていたでしょう。『自分ひとりで何もかもしようとしてはいけない』って。ヴィオルのことは、ローヴァンさんが絶対に守ってくださるわ。こんな怪我をしてまであなたが頑張らなければいけない理由があるの?」
それはエリーズが王妃として公務に携わる前にヴィオルが話した内容だった。自分が王たりえるのは、守ってくれる騎士や、目の届かないところに気を配ってくれる近侍と貴族、身の回りの世話をしてくれる使用人たちがいるからだ。だから自分ひとりで何もかもしようとしてはいけないし、何でもできると思い込んでもいけない、と。
ヴィオルはこの考えのもと決して傲慢になることはなく、末端の使用人にも感謝を常に忘れない。エリーズもその考えに深く賛同し、同じように振る舞うことを心がけている。
無論、ヴィオルの代わりにローヴァンや騎士たちがいくらでも傷ついていいという訳ではないが、もともと争いを好まないヴィオルが怪我をしてまで剣をとるのは、エリーズにとっては胸が痛むことだった。
「……エリーズ、もちろん君の言う通りだ」
ヴィオルが静かに口を開いた。
「もしもの時に頼らなければいけないのは騎士たちだ。彼らは僕よりよっぽど強いからね。僕が鍛錬をしているのは、騎士と肩を並べて戦うためとは違って……その、もっと個人的な理由なんだよ」
首を傾げたエリーズに対し、ヴィオルは照れたように笑った。
「ただ単にできることを増やしたいんだ。毎日、君に惚れ直してもらうためにね」
「わたしは今のヴィオルが本当に大好きよ?」
「うん。もちろん分かっているよ。だけどその上に胡座をかきたくないんだ……君は何も悪くない。本当にくだらない男の矜持だよ」
でもね、と彼は続けた。
「お陰で今まで興味を持てなかったことにも前向きになれて、すごく楽しいんだ。ちょっとの怪我くらいどうってことないと思えるくらいにね」
ヴィオルを止めてはいけないのだとエリーズは悟った。彼が生き生きとしているなら、その向上心に敬意を持って見守るのが自分の役目だ。
「分かったわ。ヴィオルがいいならそれで構わないの。ただ……体は大切にしてね。ヴィオルに何かあったら辛いわ」
「ありがとう。約束するよ……でも、こんなに君に心配してもらえるなら毎日どこか怪我してもいいくらいだ」
「もう、ヴィオルったら。わたし本当に心配してるのよ?」
「ごめん、分かっているよ。もちろん冗談だ」
ヴィオルはエリーズをそっと抱き寄せ、許しを乞うように額や目蓋、頬に口づけを落とした。
「わたしも何か新しいことを始めようかしら。わたしだってヴィオルにいつまでも好きでいて欲しいもの」
「何があっても僕の愛が冷めることはないよ。でも、君が心から興味を持ってやりたいと思うことがあるなら応援する」
そう言って、ヴィオルは妻の唇に自分のそれをふわりと重ねた。エリーズが身を委ねると、彼は唇を離さないまま寝台に仰向けに倒れ込む。ヴィオルの上に覆い被さるような姿勢でキスに応えるエリーズの体を、彼の手がそろそろとなぞっていく。その意図するところを察したエリーズは口づけをやめた。
「ヴィオル、今日は」
「気分じゃない?」
「そうではなくて……あの、怪我をしているのに無理は駄目よ」
「やり方ならいくらでもある。君もよく知っているだろう?」
夫のためを思うなら、今日は安静にして寝ましょうと言うのが正しいのだろう。エリーズは逃げも隠れもしないのだから。
しかし、彼の甘い眼差しと蕩けるような口づけを受けたエリーズの体は、今宵も愛する人を求めて切なく疼く。
「お願い、エリーズ……僕のこと癒して?」
「……す、少しだけよ?」
ヴィオルが幸せそうな笑みを浮かべ、エリーズの後頭部に手を回して自分の方に引き寄せ再びキスをする。
口では少しだけと言ったものの、きっと本当に少しだけで終わることなんてない――そう考えるエリーズの思考は、程なくしてぐずぐずに溶けていった。




