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ハンディコロコロで服に着いたボスの毛を取りながら松重さんは研究室に戻っていった。研究所には猫アレルギーの人もいるので、猫好きではあるがちゃんと周りの人も配慮できる方なのだと思った。
ボスも散歩に出かけたので、俺もハヤトを膝の上から降ろし、おやつ袋を片付けるために寮にある自室に一度戻ることにした。短い脚をせかせかと動かし、必死に俺の後を付いてくるハヤト。思わず抱き上げてしまいたくなるが、変に抱き癖が付いてしまうのもいけないと思い、断腸の思いで自重する。
そうして辿り着いた寮の裏口には、黒縁の眼鏡をかけた物腰の柔らかそうな男の人……ボスの非公式ファンクラブ会員番号007の只野さんがいた。
彼はこの研究所の総務課に勤めている人で、性格に難のある湯川所長に変わり数々の案件に関わり多くの実績を残している、かなりやり手の職員さんだ。そんな彼は今日、日番なのだろう。いつもの様な『協会』の職員の方が着ている制服ではなく、動きやすそうなジャージを身に纏い、彼の趣味である1人焼肉に精を出していた。
赤く熱せられた炭の入った七輪の上に網が置かれ、その上に肉や野菜がきれいに並べられた状態で焼かれている。肉の焼き方一つとっても、彼が几帳面な性格なのは簡単に見て取れた。
「おや、檀上さん、こんにちは。ハヤト君のスキルの訓練ですか?」
「こんにちは、只野さん。ま、そんな所ですね。…あまり実を結んでいないのが最大にして唯一の問題点ですがね」
「ははは、そんな簡単には何もかも上手くはいきませんよ。…どうですか?」
と言って、先程焼けたであろう肉を差し出してくる。炭火による高温かつ遠赤外線によって焼かれた肉は普段俺が食べている肉よりも遥かにジューシーに見える。高温で一気に焼かれたことで、肉汁が外に出ず旨味をギュッと中に閉じ込めた結果だろう。それほど腹が減っているというわけではないが、見た者の空腹中枢を刺激するには十分すぎるほどのビジュアルだ。しかしその提案を受け入れるわけにはいかない、何故なら…
「ありがたい申し出ですが、今回は遠慮させてもらいます。……彼らに恨まれてしまいそうですからね」
肩をすくめながら、只野さんを囲うように陣取っている猫ちゃんたちを見ながらそう答えた。
只野さんはボスの非公式ファンクラブの1ケタナンバーだけあって、自他共に認めるかなりの猫好きだ。そんな彼が自らを囲うように陣取っている猫を前に、悠々と食事を摂ることなど出来ようはずもないというわけだ。
実際、俺は彼が七輪で肉や野菜を焼いている場面を何度も見たことはあるが、彼が焼いた野菜を食べている場面は見たことはあるものの、肉を食べている場面には1度も遭遇したことは無い。つまりはそう言うことだ。
今も「ニャーニャー」と鳴きながら必死に只野さんに催促している。『早く肉をくれ!』と言っているのか、それとも『こんなよく分からない奴(俺)に肉をやるなんてもったいない!』とでも言っているのだろうか。少なくともそんな中で、只野さんから肉を貰うといった選択肢を取れるはずもないのだ。
その様子を見た只野さんも「スミマセンね」と苦笑いしつつ、トングと鋏を使って肉を器用に小さく切り分け、うちわで扇いで冷やした後、紙皿の上に移しそれを地面の上に置く。
するとワッと猫が紙皿の上に殺到したかと思うと次の瞬間には皿の上から肉はすっかり消えており、すぐに「ニャーニャー」と催告する鳴き声が聞こえ始めた。
同じく焼き終わったキャベツやら椎茸などを別の取り皿に入れ、再び肉と野菜を並べて焼き始める。先程取り分けていたキャベツと椎茸には興味が無いのだろう、猫たちはそちらの方には見向きもせず新しく並べられた肉に興味津々だ。やはり猫は肉食動物なのだと思った。
肉が焼けるまでまだまだ時間があるだろう。そこで、今まで疑問に思っていたこと聞いてみることにした。
「只野さんって、ご自身で焼かれた肉を食べたことがあるんですか?」
「最初のころはちゃんと食べていましたよ。ですが、どこからか情報を仕入れて来たのか、いつのまにか今の様に猫たちに囲まれるようになってしまって…」
と言うことで、やはり最近では肉を食べることが出来ていないということが分かった。
これでは自分の趣味で肉を焼いているのか、猫に献上するために肉を焼いているのかさっぱり分からない有様だ。
ただ1つ言えることがあるとすれば、当の本人がその現状をそれなりに楽しんでいるという事だ。先程も猫が肉を食べている様子をとても微笑ましい表情で眺めていたからな、間違いないだろう。