あなたの隣にいさせてほしい
セルシュは教会に足を踏み入れた。中央教会はもぬけの殻で、静かな礼拝堂に人の気配はなかった。ステンドグラスから差し込む光はない。リゼル・オロ・レヴェニアが死んだことで、世界の崩落は加速した。きっと、明日はもう来ない。けれど、セルシュにはまだやらなければならないことが一つだけ残っていた。
天のみ使いの像の下でロウソクの火が揺らめいている。そして、人影が長く像に落ちているのをセルシュは見た。右手に握ったものの感触を確かめ、礼拝堂のさらに奥へ、天のみ使いの像の下へと足を進める。
「セレスティアン様」
金髪の美貌の男はわざとらしく驚いた顔を見せた。
「おや、まだお逃げになっていなかったのですね。じきにここも呑まれます。信徒の皆様には既に避難して頂きましたよ」
「なぜエヴァンギル様にあのような言葉をかけたのですか?」
「あのような言葉、とは……?」
「とぼけないでください! 私は確かに耳にしました。あなたがエヴァンギル様に陛下を弑すように囁くところを!」
ベルデモントに言われてから、セルシュはずっとセレスティアンを張っていた。あの日、廊下ですれ違いざまに交わされた言葉も知っている。
「いいえ。私は彼に国を変えたいかと問うただけにすぎません。彼がそこにどんな解釈を見出し、どう行動しようと私の責任にはなりえません」
それは詭弁だ。セレスティアンを睨みつけると、彼は蛇のような目をして嗤った。
「ですが、私の言葉を聞いた彼があのようなことをなさったとは……。とても皮肉ですね。陛下は蝕崖をすべてご自分の身体に移すことで民を救おうとなさっていた。陛下を弑せば、陛下に留められていた天の呪いが降るというのに。そして、彼は自ら率いた兵に殺された。人間とはかくも醜く愚かしいのでしょうか? いいえ、そうですね。かつて天から落ちてきた天のみ使いを地に縛り付けたあの日から、人間は何も変わっていないのですね」
ぐらぐらと視界が揺れる。セルシュは思わず口を手で押さえ、セレスティアンを注視した。恐ろしい話をしているというのに、美しい貌にはずっと微笑が湛えられている。
「……そんな、陛下は」
何のために、死ななければならなかったのだろう。
「……ところであなたはなぜそこまで陛下にこだわるのです? 陛下はベルデモント卿を自らの手で殺めました。そして、あなたをも遠ざけたというのに」
セルシュの藤色の瞳で強い光が灯る。王はベルデモントを確かに殺してしまったかもしれない。けれど、セルシュにはどうしてもあの寂しい王を見放すことはできなかった。セルシュもクライノートも追い出して、孤独を選んだことにはきっと理由があって。風に吹かれれば飛んでしまいそうな身体を引きずってでも玉座に向かう姿は、最初に見た時と何一つだって変わっていなかったから。
「私は陛下を信じています。ですから私はあなたが許せない」
セルシュは隠し持っていたナイフの鞘を棄てた。銀色の刃が燭光を弾いて鈍く輝く。振りかざされて、一直線に向かってくるナイフをセレスティアンは避けなかった。どすっ、とくぐもった音にセルシュは唇を嚙み締めた。切れた場所から血の味がする。
仇討ちなど、きっと優しい王は望んでいない。だから、これはセルシュの自己満足。それでも、よかった。
セレスティアンはやはり微笑んだまま崩れ落ちていった。セルシュの全身が返り血で染まった。へばりつく鉄さびの匂いとぬらりとしたこの感触こそが、セルシュの犯した罪の証。
桃色の髪を翻し、セルシュは踵を返した。一度も振り返らずに、もう一度城へ。どうせ終わるのなら、あの優しい王の近くで死にたかった。ひとりぼっちだったセルシュに居場所をくれて、ありがとうという言葉をただの一度も忘れなかった年若い王のもとで。
セルシュが去った後、温度を失った金髪の男の身体は壊れていく。
砕けて消えて──そしてあとには何も残らなかった。
城へ向かうために歩いていたセルシュは王の塔の下で足を止めた。その塔は王が封印を解いたことで誰にでも見えるようになっていた。孤独な少年王が片翼の天のみ使いを見つけたという世界で一番高い場所。その下で、黒い靄に覆われた獣がうずくまっていた。
「黄昏の獣……!」
慌てて走り去ろうとして、セルシュは違和感を覚える。黄昏の獣は餌を求めて彷徨い歩く。けれど、この獣は格好の餌であるセルシュを見ても動かなかった。それとも、動けないのだろうか。
人を殺した片翼の天のみ使いを七卿は王の塔に閉じ込めたという。ならば、この獣は……。
「もしかして、クライノート様ですか?」
のそりと黄昏の獣は顔を上げる。真っ白で美しかったあの少女の面影はない。黄昏の獣には心も意識もないと聞いている。けれど、その獣はセルシュの声を聞いた。己の名前を憶えている。動けなくなるにも関わらず、誰の命も食べていない。
セルシュの藤色の瞳の端から涙がこぼれた。
「あなたは、陛下の想いをまだ守っていらっしゃるのですね」
ああ、それなら。
「クライノート様。私の命を喰らってくださいませんか? 陛下をお探しになるのでしょう?」
それでいいのか、と問うように黄昏の獣は首を傾げた。靄に覆われて形もはっきりしていないから、動かしたのが首であるかは分からないが。セルシュは頷いて手を伸ばした。黄昏の獣に触れた側から身体が消えていく。獣に喰われたセルシュの魂はどこにもいかない。けれど、それで十分だ。
私も、一緒に連れて行ってください。
***
黄昏の獣は泣いていた。冷たい世界でセルシュに貰った命だけが獣の中で温かく脈動している。崩れかけ、誰もいなくなった城の中。果てしなく思えるほど長い廊下を歩き、獣は彷徨う。
クライの王さまはどこ。
リゼルをころしたひとたちが憎かった。
抱いていた黄金の剣は取り上げられて、クライノートは王の塔に閉じ込められた。リゼルとクライノートがお互いを見つけたはじまりの場所。森のようになって輝いていた宝石たちはひび割れ、今は灰色になってしまっていた。満天の星も、もう見えなくて。独りきりは寂しくて、怖くて、寒かった。
クライノートからリゼルを奪ったすべてが憎かった。
でも。
黄昏の獣は重い身体を引きずって、玉座へ向かう。セルシュがくれた命だけでは獣が動くには足りなくて。ほんとうに動けなくなってしまう前に、行かなければ。
がらんどうの銀の玉座。そこへ続く藍のカーペットには染み付いた血の跡。そして、玉座の前に突き立った美しい黄昏色の剣。
黒い終わりの獣は歩いた。リゼルがどんなに苦しくても、辛くても、怖くても、歩いた道を辿る。一歩進むたびに獣が纏う黒い靄が晴れていく。やがて片翼の天のみ使いは手を伸ばした。床に突き刺さった剣を抜く。まるで彼女が握るために造られたように思えるほど、華奢で飾り気のない剣はよく手に馴染んだ。クライノートは剣の柄を握り直す。きれいな金の刃に映ったクライノートは泣いていた。
どうすればよかったのだろう。
どうすれば、失わずに済んだのだろう。
何よりも大切だったのに。
首を振って、ぎゅっと剣を握る手に力を込めた。
リゼル。
クライノートは剣の切っ先を自分の心臓に向ける。自分を動かしているものがそこにあることをクライノートは知っていた。
ねえ、こうすればずっとリゼルの側にいられる?
そうして黄金の剣はクライノートの胸を貫いた。片翼の天のみ使いはばらばらに砕けて壊れていく。きらきらと散華しながら、クライノートは目を閉じた。
終わる世界の最後の城。銀の玉座の前には黄金の剣が突き立っている。剣を放さないようにと枝葉を絡みつかせて、一輪の花は静かにつぼみを綻ばせる。
それは、決して砕けない金剛石の花。
どうか、ずっと。
──あなたの隣にいさせてほしい。
***
泡沫と消えたせかい、そのなかで神さまはたったふたつのものだけ残されました。
黄金の剣と寄り添うように咲く金剛石の花。
今でも世界の間にあるそうです。それはひとりぼっちだった王さまと片翼の天のみ使いがたしかに生きた証。なにもかも砕け散っても、永久に想いは残るのです。たとえ、誰も知るものがいなくとも。
──これが語られることのないおわりの物語。
ここまで読んでくださって本当にありがとうございます。願わくば、リゼルとクライノートが歩んだ道を心のどこかに引いて貰えることを。