叔父にはめられたお陰で私は幸せです
「マリアンヌ伯爵令嬢。お主に神の石の元へ向かい、手紙を奉納し国の平和を祈るよう命じる」
その言葉を聞いた瞬間、自分の足元が崩れ落ちていくような感覚を味わっていた。数ヶ月前、両親を事故で亡くし、叔父家族に屋敷を奪われ、物置小屋に押し込められた彼女。
まだ親からの庇護が必要な少女なのだ。一人になり頼りになる者もいない彼女は、まるで子ウサギのように身を屈めている。その連想に拍車をかけているのが、銀髪の髪とルビーのような瞳だ。
だが、ここにいる人間は彼女を道具としか認識していないのだろう。その姿に庇護欲を抱くことなく、迷うことなく切り捨てた。
「子爵より、其方が自主的に手を挙げてくれた、という話を聞いた。大変喜ばしいことだ」
その言葉に目を丸くするが、顔を下に向けているためその変化に気づく人はいない……いや、一人だけ気づいたようだ。マリアンヌの目には笑顔を抑えられず、口角が引き攣っている叔父の姿が映る。
(ああ、叔父家族にはめられたのか……)
そう思ったのは叔父の顔だけではなく、今までの彼らの行動からも読み取れた。彼らは伯爵家、という地位が欲しいのだろう。叔父家族も子爵位を賜っているはずだが、大方欲がでたに違いない。マリアンヌが儚くなれば、自分が伯爵家の地位を手に入れられるからだ。
両親が大事にしていたものを守れなかった自分に涙が出そうになった。いっそのこと、この場から逃げ出したい、ともマリアンヌは思う。だが、国王の話を遮って逃げるわけにもいかなかった。
「神の石にたどり着くまでは、凶悪な魔獣がたむろしていると言われている。山に侵入した人間のうち、生還できたのは一割の人間だけだと聞いた。もし、この手紙を神へ奉納した暁には、褒美をやろう。神の石は山の中腹にある泉の側にあると言う。気をつけて行って参れ」
そう述べる国王の顔は叔父と同じようにニタニタと卑しい笑顔をしている。大方、彼女のような小娘が神の石までたどり着くとは思っていないのだろう。たどり着いて、神が国王の願いを叶えれば儲けたもの、小娘一人どうなっても構わないと思っているようだ。
「我の話はそこまでだ」
もう小娘に用はないのだろう、国王が背を向けようとしたその時、隣で顔を下げていた叔父がストップをかけた。
「陛下、申し訳ございません。腕輪の件が……」
「おお、すっかり忘れておった。“あれ”を持ってこい」
国王は叔父が声をかけても邪険にはせず、彼の話を受け入れた。それを見て、何かしらのやりとりがあったのだろう、とマリアンヌは判断する。
呼ばれた使用人が持っていたのは、金色の腕輪だった。腕輪にしては幅が広い。手首から肘の半分の長さもある上に、これでもか、というくらい大きな宝石がいくつも嵌め込まれている。そんな悪趣味な腕輪を見て、マリアンヌは嫌な予感がした。
――そしてその予感は当たってしまう。
「これは『つけた者の居場所を知ることのできる』腕輪だ。お主は立候補で王命を受けた人間だ。逃げるとは思わないが、念のためだ。国宝を持ち出すほど、重要な任務だという事を覚えておくように。ああ、腕輪は任務が完了した後、直々に儂が外してやろう」
その言葉が合図だったのだろうか、右手を掴まれたマリアンヌは避けることも叶わずに、腕輪が嵌め込まれてしまった。つまりもうどこに逃げても逃げ場はない。まるで犯罪者扱いだ、とマリアンヌ以外の者でも思ったに違いない。それほどの仕打ちだ。
「お主にこの国の発展を祈らせてやろうではないか。国のために命を懸けて祈りを捧げて参れ」
「承知致しました」
頭を垂れてマリアンヌは返事をする。彼女にはその道しか残っていないのだ。それに満足したのだろうか、国王陛下は満面の笑みで彼女に背を向け、後ろに屈み込んでいた叔父は、彼女を嘲笑うかのようにこちらを卑しい目で見ていた。
謁見の場を辞したマリアンヌは、そのまま馬車に乗り神の石のもとへ向かわなくてはならないらしい。そう文官に指示された彼女は、城門まで続く道を歩いていた。彼女の思いとは正反対に輝いている装飾――鮮やかな紅の生地の両端に金色の刺繍がされている絨毯と、その絨毯に似た旗が両側に掛けられて煌びやかだ、を見ると今にも涙がこぼれ落ちそうだ。
今回の王命も叔父家族の仕組んだことだろうか、とため息を吐きながら彼女は城門に辿り着いた。
すると、そこには見覚えのある二人が立っている。
「マリお嬢様、お待ちしておりました!」
「マリアンヌ様、御手を」
「エリー……?それにエリオット……?」
肩に付く程の黒髪を一つに縛り、メイド服に身を包むエリーと、そんな彼女にそっくりな兄エリオット。二人はマリアンヌが幼い頃、生き倒れていたところを助け、それから専属の従者となった者たちだ。
いつの間にここに居たのだろうか、と疑問に思い尋ねようと口を開けた瞬間、その言葉は猫が喧嘩をしているような甲高い声に遮られる。
「エリオット!御姉様は王命で神の山へ向かう事になったの。だから貴方は私の従者にしてあげるわ」
叔父夫婦の娘であるアリエッタだ。彼女は顔の整っているエリオットを自分の従者にしようと、虎視眈々と狙っていた。マリアンヌから奪うのは今しかない、と思っているのだろう。エリオットの腕にしがみつく。
だが、エリオットの視線はまるで氷のようだ。それに気づいたアリエッタは、彼の名を呼ぶが……
「私の主人はマリアンヌ様ただ一人。貴女に仕える事などありません」
「そんな……エリオット。マリアンヌに付いていくと、怪我をするかもしれないのよ?」
彼女の思う通りの展開にならなかったらしく、アリエッタは彼にしがみつく。しかしエリオットは鬱陶しいらしく、彼女の腕を振り払う。
呆然とし、腕を伸ばしたまま固まったアリエッタに優しい声をかけたのは、彼女の両親だった。
「アリエッタ。そんな出自の分からない男より、アリエッタの好みの人間を従者にしようではないか」
「そうよ、アリエッタ。それに従者だけじゃないわ。貴女の好きなドレスや宝石も買ってあげられるわ」
「そ、そうね!パパ、ママ、お願いね?」
娘に愛おしい視線を送る夫妻は、マリアンヌを睨みつける。
「お前にお似合いの生意気な従者だこと」
「家は私たちが引き取るから、お前は王命を果たすんだな。二人を付けるのは最後の餞別だ」
暗にもう戻って来ることもないだろう、とでも言いたいのだろう。彼らは彼女を卑下するような笑みを顔に浮かべて、マリアンヌたちを嘲笑ったのだった。
「何故マリお嬢様が……」
「仕方ない事なのよ、エリー。これも貴族の務めなのよ」
この国の彼女への仕打ちに、エリーは怒髪天を衝く形相で怒り狂っていた。
「お嬢様は優しすぎます!お嬢様こそ、怒って良いのですよ?」
「王命は絶対よ。諦めたわ。それにエリーが憤慨してくれて、私は嬉しいの」
「そうですかぁ……」
「それに、成人していない私では叔父に対抗するのは無理だったわ。殺されないだけマシよ」
そう言って笑顔を見せれば、空気を入れた風船が萎んでいくかのように、エリーは徐々に勢いがなくなっていく。
「分かりました。エリオットともども、お嬢様をお守りする事に全力を出しますね!」
「ありがとう。巻き込んでごめんなさいね」
「いえ、拾っていただいた時から、私たちはお嬢様に一生を捧げていますから!」
敬礼を取る彼女に笑いかけながら、両親の言葉を思い出す。そして、もし王命をやり遂げる事ができたのなら……二人が許してくれるのなら……この国を出ていこう。そう彼女は考えていた。
山へ行く道のりは何事も起こる事なく、平和に過ごす事ができた。山に入ってからもそれは変わる事なく。エリーの宣言通り、出るところ負けなしの状態であった。
険しかった山の斜面が緩やかになり始め、マリアンヌの足がまるで鉛のように重くなった頃。周囲の様子が変わった事に気づいたマリアンヌは、足を止めて周りを見渡していた。
「あれは……?」
マリアンヌが指した方向に、白く丸い光がぼんやりと浮かんでいた。相当高い位置にあるので、触れる事はできないようだ。太陽光が遮られるにつれて、光の数も多くなっていく。
「泉の近くには、あの様な発光体が現れると言われています。ここは魔獣の気配もありませんし……すこし休憩していきますか?」
エリオットが心配そうにマリアンヌの顔色を見ていた。マリアンヌは伯爵令嬢、庭の散策や街を散歩することはあるが、長時間歩くことは滅多にない。その事を知っているからこそ、心配だったのだろう。
「ありがとう、エリオット。そうね……少し休みましょう」
「そうだ!マリお嬢様の好きなクッキーを屋敷から拝借しておいたので、それを召し上がってください!」
「助かるわ、エリー」
手際の良い二人は、マリアンヌが二度見するうちに準備を終えてしまった。敷物が無いため、地面に直接座る事になってしまったと二人は項垂れていたが、今はそんな贅沢を言える時ではない。笑顔で礼を言い、地面に座る。
二人とともにエリーがくすねてきたクッキーを頬張っていると、「あ」とエリーが声を上げた。
「どうしたの?エリー」
「馬車でお渡ししようと思っていて、忘れていました!これをどうぞ」
百合が彫られている精巧な銀細工――手渡されたのは、髪留めだった。しかも母の形見だ。叔父家族が家を占拠した際持ち出す事ができず、アリエッタに取られていたものだと思っていたのだが……
「……これは、屋敷の私の部屋にあったはずよね」
「ええ、取り返してきました」
「なんて馬鹿な事を……」
毎日磨く程大切にしていた髪留め。それが今手元にあるなんて。
「ありがとう、エリー」
これでもう心残りはない。神の石の下に行くだけだ。
エリーに髪の毛を纏めてもらい、髪留めをつけてもらう。お陰で時々視界に入っていた髪もなくなり、視界がすっきりとしたようだ。その上、休憩したことで足が軽くなったため、マリアンヌは軽い足取りで山を歩き続けていた。
そろそろ中腹、と言うところで異変が起こる。最初に気づいたのは、エリオットだった。
「まずい、大型が数体こっちに向かっている」
「なんですって、兄様!!方向は?」
「南方向に、四体。相当、大きい」
眉間に皺を寄せ、魔獣がいるであろう方向を睨みつけるエリオットに、マリアンヌは声をかけることもできず立ちすくんでしまう。
そんな彼女を見て、魔獣に怯えていると考えたらしいエリーは、マリアンヌを助けるための行動を取る事にしたようだ。
「マリお嬢様!私共は彼らの行く手を防ぎますので、そのうちに神の石を見つけて下さいませ!」
「で、でも!」
そう答えて顔を上げたマリアンヌの目に、キラリと何か光るものが映った。それが何であるかに気づいたマリアンヌは、目を擦ってもう一度その方向を見つめ直してみる。エリーもエリオットも彼女の表情でその事に気付いたらしく、同じ方向を見て――
「お嬢様!あれです!あれが泉です!」
「マリアンヌ様!私たちも後から行きますので、先に向かっていて下さい!大丈夫です、追いつきますから」
エリーに背中を押されて、彼女は走り出した。エリーとエリオットを助けるためには、私が神の石に祈ればいい……そう考えたマリアンヌは、一生懸命に走り続けた。
どれだけ走ったのだろうか、緊張のせいかマリアンヌは長い時間走った感覚に陥っていた。髪の毛もまとめた事で幾分走りやすくなってはいるが、手は握り締め過ぎて爪が掌に食い込んでいるし、先程まで軽かった足は今や石のようだ。
後ろでは金属がぶつかるような甲高い音が響き渡っている。心配と不安で押しつぶされそうになっているマリアンヌだったが、気づくと神の石だろうと思われる石碑が佇んでいるのが目に入ってくる。
希望が見えたマリアンヌは今まで以上に足を早く動かし、エリーとエリオットの無事を祈りながら走った。そして神の石の前に着いた彼女は涙ながらに願う。
「大事な、大事な二人を助けてくださいませ!」
マリアンヌが言葉を言い終えた瞬間、神の石は光り輝く。眩しく感じたマリアンヌは目を瞑ったのだった。
どれだけ目を閉じていたのだろうか。いつの間にか戦闘音は聞こえなくなっていた。その代わり、後ろから草をかき分けるような音がだんだん近づいてくる。
目を開けてその方向を向くと、そこに二人はいた。
「マリお嬢様!ありがとうございました!」
「助けていただき、ありがとうございました」
「二人とも、良かった!」
マリアンヌはエリーに抱きつく。その身体は少しだけ震える。二人が両親と同じ場所に行ってしまうのではないか、不安だった気持ちは、エリーの温かさで溶かされていく。
――そんなときだ。神の石から声が聞こえたのは。
「人間の子ら。ここに何をしにきたのだ」
まるで彼らを包み込むような、美しい声色。成人した男性の声だろうか……頭に残る声だった。恐る恐るマリアンヌはその声に返事をした。
「私どもは国王陛下の命で平和を願うため、此方に参りました」
「……ではそこで今しばらく待て」
その声が終わるや否や、神の石の前に見たことのない模様のようなものが浮かび上がり、光り始めた。段々と光が模様を覆い始め、一つの光に集約すると……そこにはポッカリと空いた穴が。外から穴の中を見てみると、ゆるやかな坂道が続いている。
「降りてこい」
神の石の穴――つまりこれが神の門だろう、と理解した三人はその穴に入っていった。
滑り降りた先はとても明るく、眩しすぎて手を覆うほどだった。慣れてきた頃に周囲を伺うと、様々な花が色とりどりに咲き乱れ、庭の真ん中には四阿、その手前には蓮の浮いた池が配置されている。右手には白いウッドデッキがあり、テーブルがいくつか置かれ、そこに男性二人と女性が佇んでいる。
その光景を見て、マリアンヌは思わず「綺麗……」と呟いていた。
彼らの周囲にある草木は、まるで朝露に濡れているかのように、キラキラと太陽の光を受けて輝いているように見える。その光景だけでも美しいのだが、その景色が脇役になるくらい、三人は麗しい。
マリアンヌが彼らに魅入っていると、ふふふと笑い声が辺りに響き渡った。左手前にいる女性が笑ったのだ。
「皆さん、お疲れ様。紅茶とお菓子を用意したから、此方にいらっしゃい」
まるで亡くなった母と似たような声にマリアンヌは驚く。そして同時に安堵した。初対面の人ではあるが、彼女は悪い人ではないと思った。
三人は目を合わせた後立ち上がり、席に向かう。そして彼らの対面に座った。
「私はアターナー、機織りを司る神ですわ。後ろに立っているのが軍神アーレウス、隣で座っているのが神の纏め役至上神ゼス様」
紹介されたアーレウスは「よっ」と右手を挙げ、ゼスはじっとある一点を見つめ続けている。話しかけられたマリアンヌは、慌てて最上級の礼で答えた。
「私は国王陛下からの使者マリアンヌ・バルザックと申します。この二人は護衛のエリーとエリオットでございます」
「あら、そんなに畏まらなくてもいいのに」
ねぇ?と彼女が二人に声をかけると、ああ!とアーレウスの返事はあるが、ゼスからの返事はない。
アターナーはゼスを見て目を細めた後、マリアンヌに向き直るとこう告げた。
「マリアンヌちゃん、国王からの手紙を貰って良いかしら?」
「はっはい!」
「今すぐにこの件を話し合わなくてはならないのだけど……まとめ役が少しぼうっとしているの。部屋を貸すから、そちらで待っていて貰えるかしら?」
その言葉に三人が頷くと、アターナーはにっこり笑って、
「ポリス、テノン。お客様を案内して貰える?」
「分かった!」
「ねーぇ!お姉さんたちとお話ししても良い?!」
「迷惑かけなければ良いわよ、テノン。ちゃんと確認してからね?」
「「うん」」
会話が終わった二人は、言われた通りに三人を案内する。その後ろ姿をアターナーは手を振って見つめていた。
先ほどの部屋とは反対側の場所に連れてこられた三人。
最初は全員でマリアンヌの部屋にいたのだが、途中からポリスが、「エリオット、勝負しよーよー」と駄々をこね始めたのだ。ポリスはヤンチャな男の子らしい。アターナー様に許可を頂く、と言ってエリオットとポリスは部屋を出ていったのだ。
テノンは裁縫が好きな女の子らしく、エリーが「自分でメイド服を縫った」と言ったら、テノンに手を引かれて出ていった。神の座す場所で護衛も何もない、と伝えて。
そこから椅子に座ってのんびりとしていたマリアンヌだったが、あまりのポカポカ陽気でついうとうとしていたようで、いつの間にか眠ってしまっていた。
「マリアンヌ」
誰かが呼ぶ声で彼女は目を開ける。その声は一度聴いたら忘れられない……神の石の前で聞いたあの声だ。そう気づいた彼女の頭は、早いスピードで覚醒していく。そして彼女の左横には椅子に座るゼスの姿が。
寝顔を見られていたのだろうか。涎が垂れていないだろうか……彼女は頬を赤くして慌てて俯いた。
「申し訳ございません、お見苦しいところを……」
「いや、問題ない。疲れていて当然だ」
「ありがとうございます……」
そう声を絞り出して顔を上げると、ゼスと目が合う。透き通るような青い瞳は、まるで絵本の中に描かれていた海のよう……いや、それ以上に美しく感じる。そして風に乗ってサラサラとたなびく白髪はまるで上質な絹のようだ。
瞳に吸い込まれそうになるような感覚を味わいながら、マリアンヌは彼と見つめあっている事に気づいた。
「あれ……椅子に座っていたのでは……?」
「私が来たときには、そこで寝ていた」
そうでしたか、と納得しかけたが、それだけではない。そもそも何故ゼスがここにいるのか、どれくらい寝ていたのか、二人はどこにいるのか……色々と疑問が湧き上がってくる。
その答えがまさかゼスから得られるとは彼女も思わなかった。
「私は手紙の件でここに来た。君は半刻ほど寝ていたようだ。君の仲間は今アーレウスと模擬訓練をしている」
的確に疑問の解答を言われたマリアンヌは、ためらいがちに彼を見る。ゼスは無表情に此方を見ているが、なんとなく眉が下がっているように見えるのは、気のせいだろうか。
「私は人の心が読める。……怖いか?」
ゼスは渋々口を開いた。その顔がなんだか寂しそうに見えたマリアンヌは、慌てて否定した。
「いいえ、驚いただけですわ。それは心を読んで貰えればわかると思います」
神に対して「心を読め」だなんて、相当罰当たりではあると思うが、彼を納得させるためにはこれが一番だと考えたのだ。だが、その返答が彼にとっては驚きに値するものだったらしい。先ほどより目を見開いている。
彼女の心を読んだのか「確かに、驚いていただけだった」と言った彼に対して、
「ええ。ゼス様、心配ならいつでも私の心を読んでくださって結構ですよ。私、繕う事ができない性分なんです」
そう言ってマリアンヌは笑った。ゼスがこの時、心の中を読んだのかどうかは分からない。だが、彼も口元に薄らと笑みを湛えていたのだった。
その日夕方頃、マリアンヌたち三人が最初に降り立ったウッドデッキ――ゼス曰く食堂らしい――に集合したところで、アターナーは苦笑いで手紙をゆらゆらと揺らしていた。
「国王からの手紙を読ませて貰ったわ。そうね、三ヶ月くらい……時間を貰えるかしら?その間、三人はここに居たら良いわ。ここは広いし、三人くらい増えてもどうって事ないしね。それに、その方が安全だと思うわ」
「いいな!それ!だったら毎日俺が相手をしようじゃないか!」
「アーレウス……本当に脳筋なんだから……」
そう言うと、アターナーは頭を抱えた。マリアンヌたちは、行く宛がないので首を垂れてお願いをした。
翌日。
各々の部屋で寝た三人は食堂でアターナーに食事を貰っていた。三人で食事をしていると、ふらっと入ってきたのはアーレウスだった。
「おっ、二人とも揃っているな!?訓練しようぜ、訓練!!」
訓練にマリアンヌも誘われ、アターナーが大激怒するという場面もあったが、侍従二人は訓練に参加することになった。「折角なので見たいのですが」と話したら、マリアンヌの部屋の前で訓練をする事になる。
食事後、マリアンヌは彼らの訓練を窓から見ていた。これはアターナーからの要望で、「安全のために、屋敷に居てください。そうすれば、窓を開けて見ていても、ゼス様の神力で守ってもらえますから」との話だったが、すぐにその意味を理解した。
アーレウスは訓練になると所構わず攻撃を打ってくるのだ。マリアンヌの前の景色が歪む――これがゼスの神力とアーレウスの攻撃がぶつかった合図なのだ――まで、彼女は攻撃を見る事ができなかった。ただ、エリーとエリオットは避けられているようなので、やはり戦闘に関しては足元にも及ばないなぁ、とマリアンヌはぼうっと考えていた。
そんな時だ。
「マリアンヌ」
とまた彼女を呼ぶ声が聞こえる。勿論、相手はゼスだった。
「ゼス様」
「楽しいか?」
「はい、二人の訓練は初めて見るので、とても」
「訓練は午前中で終わるらしいが」
「そうなのですか?」
それだと、午後に何をしようか……そう考えていた時。
「この本を読むか?」
また心を読まれたのだろうか……いや、完全に態度にも出ていたので、読む必要もなかったかもしれないが。「ありがとうございます」と受け取ると、その表紙には『悪役令嬢は婚約破棄されても負けません』との題名が書かれていた。
「こ、これは……?」
「他所の国で流行っている大衆小説らしい」
こんな小説があるのか……と目を見開くマリアンヌ。マリアンヌはあまり大衆小説を読まないタイプだったが、折角持ってきてもらった本だ。読んでみようと思った。だが一つだけ疑問がある。
「ありがとうございます。ですが、ゼス様。どこでこの本を手に入れられたのですか……?」
何故ゼスがこの本を選んだかだ。申し訳ないが、ゼスには合わない、縁がない本では……と思ってしまう。
「テノンから借りた。面白い小説を貸してくれと言ったらこれが」
「そうでしたか」
「……ダメだったか?」
ゼスが少しうなだれたような気がしたため、狼狽えたマリアンヌは言葉を紡ぐ。
「いいえ、本自体は読むのが楽しみです。……ただ、ゼス様が選びそうもない本だったので、驚いただけです」
「成程。確かに私は読まないからな」
ゼスはその言葉に納得したらしく、首を縦に小さく振っている。マリアンヌはそんな彼を見つめながら、胸の奥がぽかぽかと温かくなっている事に気づいた。
考え事をしているらしいゼスを満たされたような気持ちで見入っていると、ゼスが何かに感付いたらしい。こちらに早足で歩み寄って来ると、腕輪を指差した。
「これを、どこで?」
「国王陛下の所有物です。……逃走しないよう付けられました」
マリアンヌは動揺を隠すため努めて真顔で話したが、少しだけ言葉が早かったかもしれない。なんとかしてゼス様に怒りの感情を見せたくない、と彼女は必死だった。だからだろうか、ゼスの目が笑っていない、むしろ険しいものになっている事に気づかない。
「マリアンヌ、取るよ」
マリアンヌが声をかける前に、腕輪はパカッと真っ二つになって外れていた。まるで鋭利な刃物で切ったかのように、綺麗な切れ目だ。マリアンヌは目をまん丸にして割れた腕輪を見る。
その様子にゼスは少し戸惑ったらしい。
「すまない。取らない方が良かったか?」
「いえ!取れて嬉しいのですが、こんなに簡単に取れるものだとは思いませんでした」
頬がほんのり赤くなった。国王はあのように言っていたが、実際はいつ取れるのか分かったものではない。自分でもどうにも出来なかった腕輪が取れたことが、純粋に嬉しかったのだ。
「それなら、よかった」
そうゼスは答えると同時に、後ろが騒がしくなったことに気づく。どうやら昼食らしく迎えに来たようだ。マリアンヌはエリーに返事をして立ち上がる。その後ろでゼスの瞳の奥には、憤怒の炎が宿っていたのだが、彼女はそのことに気づかなかった。
神界に来て三日後、四日後……と日を経るごとに、マリアンヌとゼスの距離はだんだん近くなっていった。ゼスが訪れる時間は最初バラバラだったが、一週間もすると夕食前の2〜3時間前に来て本を読み、話をするようになっていた。
一度「読書は楽しいですね」とゼスに言ったところ、隣に図書室がいきなり出来たこともあった。唖然としていると、この神界にある図書室にすぐ行けるよう、通路を作ったらしい。恐る恐る足を踏み入れると、そこは本当に図書館だったので、言葉に気をつけなくてはならない……とマリアンヌは心に決めたのだ。
だがそれ以降、ゼスから「何かないか?」と訊ねられる事が多くなったので、本で理解できなかったところを聞くようにしている。何度聞いても彼の声は心地よく、気を抜くと聞き漏らしてしまいそうなのが唯一困っていることだが。
そんな当たり前が二ヶ月続くと、マリアンヌの隣にはゼスがいる事が当たり前になっていた。最初は丸テーブルを挟んで反対側に座っていたゼスだったが、マリアンヌが質問することもあり、いつの間にか隣に座っている。マリアンヌは読書をし、質問があればゼスに聞く。ゼスはそんなマリアンヌを見ていたり、同じように本を読んでいたり、よく分からない書類を見ていたりと……のんびりとした雰囲気が漂い、居心地の良い空間になっていた。
ここに来て三ヶ月ほど経った頃。
いつものように静かに読書をしていると思われたゼスがマリアンヌに声をかけた。
「マリアンヌ。私は明日から数日間ほど、ここに来られない」
その事に衝撃を受けたのはマリアンヌだった。たまにアターナーが、「仕事してください」と連れ戻される事もあったが、毎日欠かさずこの部屋に来て、時には話し相手になっていたゼスだ。こんなことは初めてだったので、マリアンヌは狼狽える。
自分が何かしたのだろうか、そう不安に思っていると
「マリアンヌが何をしたわけではない。仕事だ」
彼女の不安を読んでいたらしいゼスは、そうマリアンヌに声をかける。そこで思い出したのだ。ゼスは神界の纏め役、つまり国で言えば国王陛下に相当する人物。陛下にだって外出して執り行う仕事もあるのだ。ゼスもアターナーに引っ張られるくらいだ。仕事はあるのだろう。
仕事だと聞いて、マリアンヌは胸を撫で下ろす。
「お仕事ですか……お気をつけて下さいね」
もう一度、貴方とこの部屋で一緒に過ごしたいから……そう思ってもマリアンヌは声に出せなかった。
仕事と言っているが、それは王国の事ではないだろうか。三ヶ月必要、とアターナーが言っていた。のんびりとしていて忘れていたが、三人でここに来てそろそろ三ヶ月経つ。
そもそもマリアンヌたちは陛下の手紙をここに届けたに過ぎない。だからいつかは王国へ帰らなければならないのだ。その事を思うと胸が痛んだ。
その感情を読んだのだろうか、ゼスはこう彼女に声をかけた。
「必ず帰る。またここに来ても良いだろうか?」
「……はい」
そう答えたマリアンヌを見てゼスは納得したらしく、立ち上がり背を向けて歩き出す。その背に向かって手を伸ばしかけたマリアンヌは、慌てて手を胸に押し当てた。そして「それが叶うのでしょうか」、という言葉も同時に飲み込む。
――そもそも彼は神、マリアンヌは人だ。住む世界が違う。
その事実を思い出したマリアンヌは、ただただ去っていく彼の背中を見つめていた。
仕事、と言われて数日が経っていた。最初のうちは笑顔で話していた彼女も、だんだんと笑みが少なくなっていく。アターナーや、テノンは彼女の顔が暗い理由を理解していたが、マリアンヌ本人が何故なのかを理解していなかった。そもそも、自分が思い耽っている事自体気づいていないのだ。
「マリアンヌ様?マリアンヌ様?」
今もそうだ。そう耳元で呼ばれて、ハッと後ろを向くと、そこにはエリーとエリオットの姿が。そう、今まで彼らと話をしたり、ボードゲームをしたりと遊んでいたのだが、いつの間にかぼーっとしていたらしい。
「もしかしてお疲れですか?お休みになりますか?」
「ううん、とても楽しいわ!」
これは本心だ。彼らと話したり、遊んだりする時は勿論楽しい。この時間もマリアンヌは好きなのだ。だが、ゼスとの時間が恋しくなっていた。勿論、本人は気づいていないが。
「……お嬢様、そのお顔は無理されている時のお顔です」
「……え?」
エリオットに指摘されたマリアンヌは、頬に手を触れる。
「兄様の言う通りですよ!私たち、どれだけマリアンヌ様と一緒に暮らしていると思っているのですか?顔色でマリアンヌ様の体調くらい分かりますよ。……私たちから見れば、少し顔色が悪いように見えるのです……本当に寝られていますか?」
マリアンヌはエリーから目を逸らす。ゼスが仕事に行くと話した日からあまり眠れていなかったのだ。
――ゼス様、怪我をしていないといいのだけれど
――ゼス様、いつ帰ってくるのかしら
から始まり
――私はもう王国へ帰らなくてはならないのだから、ゼス様に会えなくなるかもしれない
という不安が胸の中を渦巻いている。彼女の胸を占めているのは、ゼスだった。
心配かけまいとして、「何でもないわ」と声をかけようと顔を上げると、そこには既に泣きそうな顔をしているエリーと和かな笑みを浮かべているアターナーが立っていた。
アターナーは手にティーカップを持っている。
「マリアンヌちゃん、寝られていないんでしょう。よければこのお茶を飲んでみて?」
ありがとうございます、と声をかけて一口飲むと少しだけ酸っぱく感じる。紅茶にレモンが入っているようだ。そう認識した瞬間、瞼がガクンと重くなる。そして……
「効いてきたみたいね……まずはおやすみなさい」
みんなが何か言っているような気もするが、マリアンヌの耳には届かない。彼女の意識は夢の中へ落ちて行った。
「……ヌ」
誰かに名前を呼ばれている気がしたマリアンヌは、重い瞼を上げる。すると目の前にいたのは、ゼスだった。端正な顔が目の前にある事に驚き、飛び上がって壁に背をつけるマリアンヌ。
「ゼス様?」
「帰った。驚かせたか?」
まだゼスが仕事でここを離れて一週間も経っていないはずなのに、彼女は数ヶ月以上彼と離れていた気分を味わっていた。何かを言わないと、と思ったが、喉に何かが詰まったような感覚があり、喋る事ができない。だからマリアンヌは首を軽く上下に振った。
その瞬間、手に何かが当たったように感じたマリアンヌが手の甲を見ると、そこには何個か水滴が落ちていた。そしてその水滴はどんどん増えていて、手の甲から布団へ染みを作っていく。
――あ、私、泣いているんだ。この方に会えた事が嬉しいんだ
そこでマリアンヌはゼスへの想いを自覚した。彼と一緒にいる事が当たり前になっていた日常を手放すのが怖い、と言う事に。一度、両親の死という残酷な方法で幸せな日常を手放した事があるからだろう。
ゼスに見られている事を思い出したマリアンヌが、慌てて顔を袖で拭い、申し訳ありません……と言葉をかけようとしたが、その言葉はゼスによって遮られた。
「マリアンヌ。明日は読書の日だ」
彼女の心を読んでいるはずだ。色々思うところもあるかもしれない。けど、仕事前に約束した事を覚えていてくれた、それだけでマリアンヌの胸中は喜びで満ちていた。
翌日朝食後、マリアンヌたちはアターナーたちと向き合い、国王の手紙の件について聞いていた。
「ええ、手紙の願いは叶えてきたわ」
どこか憂鬱そうに話すアターナーに首を傾げるも、手紙の内容を知らないマリアンヌは「ありがとうございます」と返答する。
「それより、貴女達のこれから暮らしてく場所について相談したいの。貴女達の選択は三点あるわ。一点目、元の国へ戻る。二点目、ここに残る。三点目、違う国で心機一転生活する、のどれかね」
「え……私たちが選択して宜しいのですか?」
アターナーはマリアンヌを一瞥すると、一瞬憐れみの視線を送られたような気がしたが、すぐに微笑みに戻っていた。気のせいだったのだろうか。
「ええ、勿論」
「それでしたら……」
ここでお世話になりたい思いもあるのだが、ここにいるということは、ずっと彼らの世話になるということ。それは申し訳ないという気持ちもあり、選択肢としては三番だろうかと考える。
目の前にいるアターナーは笑顔でこちらを見ているし、ゼスは真顔で何を考えているのか見当も付かない。
やはり他国で暮らそうか、と考えたマリアンヌは、顔を上げてアターナーを見る。が、彼女は苦笑いでこちらを見ていた。……ふとマリアンヌが気づくと、彼女の後ろにゼスが立っていたのだ。ゼスの瞳には、彼女に対する愛しさが見え隠れしていた。
「ゼス様?」
「マリアンヌ。これからも私といてくれないだろうか」
「……え?」
思わぬ告白にマリアンヌの口は開いたままである。混乱している彼女にゼスは畳み掛ける。
「君と一緒にいると心が安らぐ。午後のあの時間は私にとって癒やしだった。それがなくなるのは、寂しい」
そう話すゼスから目を離す事ができなかった。マリアンヌも同じ気持ちだったからだ。後ろで「なにぃ!?ゼスが質問以外の会話で3文話しただとぅ!?」というアーレウスの声も耳から耳へすり抜けていく。
そのまま何も言わないマリアンヌを立たせ、ゼスは膝立ちでマリアンヌの左手をとる。そしてそこに唇を――
「ゼス様?!」
「これが私の気持ちだ」
手を取られたままそう告げられ、マリアンヌは俯いた。胸がキュンと締め付けられるように痛いし、頭の中も色々な言葉が現れては去っていく。
混乱の最中であっても、ゼスはマリアンヌを見つめたまま手を離さない。まるで彼女をどこにも行かせないかのように。
少しずつ落ち着いて来ると彼女の気持ちは決まり始めていたが、後ろにいるエリーとエリオットにまで押し付けるわけにはいかない。二人には自分の道を歩んでもらわないと、という気持ちが顔を出す。しかし、今まで支えてくれた二人がいなくなるのも不安だった。恐る恐る左右に控える二人の顔を交互に覗くと、彼らは満面の笑みを彼女に見せる。
「マリアンヌ様、私たちはどこ迄でも付いていきますわ」
「お嬢様の決定で我々は問題ありませんよ」
そう言われたマリアンヌは、今までの不安が消し飛び、満面の笑みを二人に見せた。
「ありがとう。二人とも……アターナー様、私たちの選択は……」
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「エリーちゃん。エリオット君。あなた達には伝えておきたい事があるの」
マリアンヌを見届けた後、エリーとエリオットに話しかけてきたのは、苦い顔をしたアターナーだった。彼女の顔はまだ何か良くない事があるのではないか、と二人に思わせる。だが神の話だ。聞かないわけにもいかない。
「……何でしょうか?」と怪訝な顔をしてエリオットは尋ねてしまうが、アターナーは気にしていないらしく、そのまま話を続ける。
「それは、あなた達の国の事なのだけれど」
主人のことかと思っていた二人は、思わぬ話題にお互いに顔を見合わせた。だが、マリアンヌも当事者のはずだ。彼女なしでいいのか、それが疑問に浮かぶ。
「あの、マリアンヌ様には……?」
「彼女に伝えても、もう……いえ、ちょっと残酷だから。二人に聞かせておこうと思って」
そうため息を零しながらアターナーは彼らから視線を外す。彼女にもためらいがあるようだった。
「結論を言うわね。王国は滅亡したわ」
マリアンヌが持ってきていた手紙。あの手紙を簡潔に要約すると、『周囲の国々が戦争を仕掛けている。その前に攻撃してくれ』という内容だった。
アターナー達はこの大陸の人――特に国の重鎮たちの会話や声を、記録している。彼の言っている事が正しいのかをその記録で確認していたところ、実は王国が大陸の覇権を取りたいから、とマリアンヌを遣わせている事が分かったのだ。勿論、その後裏付けも取っている。
基本、彼ら神は平和な世の中を乱す事を嫌う。そのため、今平和なこの時代を戦乱の世の中に仕立てようとする王に憤りを感じたのだ。だからこその仕打ちである。
「国が軍事力を強化して、他国に戦争を仕掛ける。これなら私たちも手出しはしなかったわ。愚かだとは思うけれど、致し方ない面もあるからね」
それを神頼みにしたのが、王国側の失態だったのだ。
そのため、仕事と称してゼスが出ていった数日。アーレウスとアターナーが交代でゼスと共に最終仕上げを行った結果、王国の国王陛下に賛同した者たち――その中にはマリアンヌの叔父もいるが、彼らはゼスの呪いを受けたのだ。
その呪いを受けた途端、彼らは眠ってしまった。そう、延々と寝続ける呪いだ。彼らは夢の中で、断罪をいくつも受ける事になる。
例えば、国の英雄として祀られたが、国王陛下を毒殺したとして火炙りの刑になったり、民に革命を起こされ、斬首刑になったりなど……始めは幸せな夢だが、幸せな夢の時間はすぐに過ぎ去り、死ぬ間際の悪夢の時間は伸ばされるというえげつない夢なのだ。
そのため、彼らの首や腕など至る所に引っ掻き傷がある。これは、夢と同じように掻きむしるためだ。
だが、いつか終わりは来るもの。彼らは寿命とともに夢も薄れ、目が覚めることなく亡くなっていく。
だが、叔父家族と国王だけは夢から覚める事なく……彼らは死ぬこともなく、夢を見続ける。夢から目覚める時は、かけた本人が満足したときだろう。
「大体人数が三分の一くらいだったのよ。王家は王太子もこの話に理解を示していたことで断絶、重鎮は侵略派と呼ばれる主要貴族がほぼ全滅。代わりにゼス様は、宰相だった男に国王として統治するよう話したの。後は問題ない者達ばかりだったからね。まぁ貴族が少なくなったから、最初は混乱するとは思うけれど……宰相が国王を務める新国は、周辺国からの援助もあるので大丈夫でしょう」
遠くを見ながら語るアターナーに、衝撃すぎて目を見開いたまま固まっているエリオット。そして国王たちの裁きに青ざめるエリー。確かにこれは主人に聞かせるべきものではない、と二人は瞬時に悟る。同時に、二人で聞く事ができて良かった、とも思った。
「ごめんなさいね、あなた達には知ってもらいたかったの。ここで暮らすと決めたら尚更……ね」
「いいえ、お気遣いありがとうございます。……一人だったら、衝撃が大きすぎたとは思いますが」
エリオットは辛うじて口を開く。マリアンヌは神の山に登る前から、あの国を見限っていたような雰囲気が漂っていたし、彼らにも、マリアンヌにも親しい親族はいない。だからだろうか、驚きはあってもあの国に未練はなかった。
それに彼女からその後の顛末を聞いてこれで良かったのだろう、と思う。今回は彼女の叔父が提案した事だが、もしかしたら第二、第三の集団が派遣されていたかもしれないのだから。
「それに……ここに来てから、マリアンヌ様はご両親が健在だった頃と同じような顔で笑っていらっしゃる……。我々はその笑顔を見る事が大好きなんです」
そう言ってエリオットが笑いかければ、アターナーは笑顔を浮かべていた。その笑顔が何故だか悲しそうに見えるのは気のせいだろうか。
数日後、アターナーはそのやり取りを庭に飾り付けられたテーブルで思い出していた。目の前には二人に稽古をつけているアーレウスが。ここも以前に比べたら賑やかになったものだ。ポリスとテノンもマリアンヌと関わるようになり、今では「お姉様!」と言いながら、彼女の周りでくるくると回っている。
そんな明るい声の上がる日常になり喜ばしい反面、アターナーは胸の中で燻っている事があった。
神の里に入った事がある人間は彼女達以外で言えば四人だ。そう、アターナーとアーレウス、ポリスとテノン。ポリスとテノンは千年ほど前に、神の石に供えられた子ども達だった。供えられたと言えば聞こえはいいが、結局は捨て子だ。その事実をまだ伝えていないので、彼らはアターナーとアーレウスの子どもだと思っている。
アターナーとアーレウスはそれ以前――数千年前の人間だ。その時も二人は自分の意志でここに残ることにした。だが――
「……彼女が止まる事を了承したのは、本当にあの子の意志だったのかしら」
ゼスは人間に執着をしない。むしろ興味もない。それは以前から理解していた。彼女たちが生きているのはたまたまだ。アターナーたちを招き入れたのは、すでにその時二人は虫の息で偶然、神の石に触れていたからだというし、双子はアターナーが心配して引き入れることになったのだ。たまたま、助けただけだ、と目を見ずゼスは言っていた。
普段も一人で過ごし、頼まれた時だけ動く。そして無表情で何を考えているのかわからない。それがゼスだ。
だが、マリアンヌだけは違った。数千年彼と共に過ごしていたが、彼女が来て初めて彼の笑顔を見たのだ。そのときに悟った。――彼女は現世に帰れないだろう、という事を。
そして彼女の願いを自ら叶えようとするだけでなく、マリアンヌを迫害した者に対する対処をゼス自らが行ったことに、背筋が凍る思いがした。こんな執着、初めてだったからだ。何故彼女なのかは、アターナーにもわからない。
あの選択の時……マリアンヌがここを出て、他国で過ごそうと考えていた時もそうだ。ゼスは彼女に近づいた。そして――
「……忘却の……いえ、もう忘れましょう」
いくら神とは言えども、ゼスとアターナーには差がある。反抗すれば、今の彼女など簡単に消し炭になるだろう。首を振って考えを頭から追い出した彼女は、「久しぶりに身体を動かそうかしら」と呟き、訓練に混ざっていった。
マリアンヌはいつものように部屋で読書をしており、隣には当然のようにゼスがいる。
「ゼス様」
「どうした」
疑問に思う点を確認しようと顔をゼスに向けると、そこには口角を緩やかに上げたゼスの顔がある。瞬きも忘れるほど美しい顔にマリアンヌは僅かの間、魅入っていた。
その端正な顔が近づいてきたと思うと、いつの間にか目の前が暗くなり、そして唇に冷たいものが触れた。それが接吻だと気づいたのは、ゼスの顔が離れてからだ。
「ゼス様」
「どうした」
混乱したためか、彼の名を呼ぶことしかできない。言葉が出ないマリアンヌは、顔を真っ赤にして俯く。その姿を見てゼスもまた笑みを見せているのだが、彼女はそのことに気づくことはない。
言葉が出ては去っていく頭を少しだけ上げて、彼女はゼスを上目遣いで見る。そして質問することも忘れ、思いついた言葉を伝えた。
「これからも末長くよろしくお願いします」
「ああ」
そう言って目を細めてこちらを見ていたゼスに、マリアンヌは人生で一番の笑顔を見せたのだった。
読んでいただきありがとうございました!
お恥ずかしながら、主人公の名前を一部間違えて入力しておりました……即修正致しました。
もし何か可笑しな部分があれば教えていただけると幸いです。
執筆した短編は以上になります。次は長編を投稿予定なので、良ければご覧ください。
投稿した他の短編はこちら↓
○一作目 「問題児と優等生と婚約破棄と」
https://ncode.syosetu.com/n0026hm/
○二作目 「ミモザ・アズライト男装令嬢の婚約」
https://ncode.syosetu.com/n0525hm/