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.30 オオカミの瞳

「実験体イの五!」

 白衣の女性が叫ぶ。

 それから、彼女は退職届を手にしたまま、巨大な手のひらに攫われ、壁にベッタリと張り付いて、赤い花を描いた。


「「……こうなったら」」

 赤ローブと黒スーツが顔を見合わせる。


「「総員退避ーーっ!」」

 悲鳴と共に逃げ出す職員たち。治療を受けていた少年と、その横で永遠に眠る上役も見捨てられた。

 しかし、正面の入り口はバケモノが塞いでいる。

 職員たちは裏口を目指すために通路の入り口で押し合いを始めた。

 誰かが防御魔術を展開させたまま逃げようとして、退路を詰まらせてしまっていた。


「シェルドを頼む」

 ヴィアは立ち上がろうとステラを押し退けるも、膝を崩す。

 アランから受けた傷から、血がとめどなく流れていた。


「もう充分だよ! あいつを殺さなかったんだから! あなたもわたしも誰も殺してない!」

 喚く恋人に抱きかかえられる。抱かれるというよりは、へし折らんばかりの羽交い絞めだ。

「シェルドが」

「あなたしか運べない。わたしたちだけ逃げられれば、それでいい!」

「ダメだ……!」

 拘束から逃れようとするも、力の差は歴然だった。



「おもしれえ、じゃねえか!」

 アランが観葉植物で待ち合わせる恋人へと手を伸ばした。



 カスタムされたスコープ付き魔動力式狙撃銃。

 鳥人の弱点を見破ったそれを覗き込み、男が笑う。


 支配者にやいばを向けたかつての少年であり、かつての支配者。

 やり手の傭兵として世界に名を轟かせたアラン・カエダ。

 馴鹿を殺害し、豪熊を狩り、人狼や情報屋といのちの駆け引きを繰り広げた男。


 実験体イの五が駆け抜けた。


 相対的に貧弱に見える下半身と、巨大な両腕のこぶしを地に突く疾駆は、“森の賢者”と呼ばれる猿人を想起させる。

 バケモノが床を踏むたび、白いパネルが割れ、めくれ上がった。


「くたばりな!」


 ズル剥けの頭部に長く鋭い弾丸が吸い込まれ、脳漿が花火のように散った。

 だが、バケモノは止まらず、そのままアランを脚でスタンプし、通路に詰まった職員たちに迫った。

 恋人と共に床と一体になった傭兵の顔が、最期まで笑っていたかどうかは、分からない。


 接近に気付いた職員たちは、挙って魔導や魔導具を使い障壁を展開した。

 暴虐のバケモノは手のひらに青い光をまとわせ、静かに守りの被膜を握った。

 すると、壁が青い瘴煙を立てて溶け、続いて血しぶきが上がった。


「この目玉が弱点だろう!」


 黒スーツが拳銃を炸裂させる。弾丸は目玉へと吸い込まれたが、満月は小さなクレーターを作るも揺るがず、黒スーツを見つめて青く輝いた。


「あ、頭が……!」

 スーツの男は、顔中の穴という穴から、青い煙を吐き始めた。目玉を溶けて失くし、赤いいのちを垂らして死んだ。


「魔力比べなら負けんぞ! 私はもうすぐ“(たなごころ)”に昇級するんだ!」

 “指”の男も赤きローブを、もっと真っ赤へと猛らせ、バケモノの周囲に炎を呼んだが、張り合っていた男のあとを追った。


「暴れないで! 逃げるんだから!」

 ヴィアはまだ抵抗をしていた。

 抵抗をしながら、目の前の死どもを、灰色の瞳で見つめていた。



「いい加減に放せ! シェルドがまだだ! 助けに来たんだろうが!」

 彼がステラの頬を張ったのは、初めてのことだった。



「……あなたが言うなら、そうする。でも、みんな死んでも知らないんだからね!」



 ステラの衣装が破れ、その下から朽葉(くちば)藍鼠(あいねず)が萌える。

 人狼の女は少年のもとへと走った。


 バケモノはさいわい、生き残っている職員たちを潰すのに夢中のようだった。

 叩き潰し、握り潰し、引き裂き。働き者の村娘がナッツを処理するように、入念に殺していた。



 ……はずだった。



 ヴィアの視界の前へ、ステラが滑るように転げ込む。彼女は身を起こすと血を吐いた。

 思わず手を伸ばすが、それは震える手で制された。


「平気……ってわけじゃないけど。小一時間待って」


 オオカミの顔を苦痛に歪ませ、うずくまるステラ。


「一時間は長過ぎる。十秒で治らないか」

「無茶ゆーな……」


 バケモノの月がこちらを照らす。アランに撃ち砕かれたはずの頭部が元に戻っていた。

 職員たちの抵抗で受けたはずの炎や弾丸の痕跡も残っていない。



 満月の瞳が瘴気を孕んだ夜の光を放った。

 荒れたホールに、死が満ちていくのを感じる。


 ステラや、気を失ったシェルドが唸るのが聞こえた。

 通路にはもはや、逃走を必要とする者は居ない。



「インフォルトニー!」



 凛と響く声が死を破った。バケモノの目玉が入り口を睨む。その先には青いローブの老女。


「えーっと、誰だっけ?」

 オオカミ女は苦しげに首を傾げた。

「カリタス・ミニングだ。手紙の送り主で、地下遺構で会った」

「あのおばあさん?」


「私も居ますよ」

 赤ローブの男が、シェルド少年とイツミの死体を担いで、ふたりのもとへとやってきた。


「こいつは誰?」「分からない……」

「パウパー・インフォルトニーですよ! 地下遺構をご案内させてもらった!」

「名前を言われてもピンとこないわよ。あなたたち、名乗らないじゃないの」

「では、今、憶えてください。インフォルトニーでは長いので、気安くパウパーと呼んでくださいね」


 赤いフードの下で黄色い歯が笑った。



「あなたたち、下がってなさい」



 声と同時に実験体イの五が大炎上を起こした。

 バケモノは炎の中で、野暮ったそうに老女へと身体を向けた。



「焼けるのよりも再生する方が早い! 頭を砕かれても奴は死なない!」

 ヴィアは警告する。

 知っているぶんのミニングの活躍は、守護者に金縛りをしくじっただけだ。


 だが、今の炎上魔術は身体を発光させることすらせずに、先程の職員たちを脅かしたシェルドの炎以上に扱えていた。


「借り物の魔術だけど、これならどうかしら?」


 ミニングはその身を赤く輝かせ、掌で宙を包む仕草をした。

 同時にバケモノの巨体の周囲で無数の光が円を描き始め、光球を作り出して包み込んだ。


 光の球が周囲に向かって激しい稲妻を立て続けに放つ。点滅の中で痙攣するバケモノの姿。

 こちらにも暴発する電撃が向いたが、パウパーなる魔導士の障壁が遮った。



 発雷の嵐が終わると、バケモノは全身黒焦げとなっていた。



「ウソ……。あのおばあちゃん、凄いじゃないの」

「そうなんですよ。うちの上司は凄いんですよ」

 パウパーが胸を張った。


「いや、まだだ」



 炭化した皮膚と毛が落ち、剥き出しの赤が現れる。

 バケモノは瞬く間にミニングを殺しに掛かった。

 巨大な手のひらが、老女の展開した大きな光のドームを掴む。



「おばあちゃん逃げて! あいつは瘴気の魔導で防御魔術を溶かすの!」

 障壁と手のひらの接触面が、焼ける音と共に青い煙を激しく迸らせ始めた。


「それはいけません! 私もお手伝いをしますよ!」

 パウパーは何やら、“色とりどりのボール”をザックから取り出した。


「……お祭りの水風船だわ。ヴィア、やっぱり逃げない? 死ぬならロマンチックな感じに死にたい」

 オオカミ女は額を押さえた。



「それっ!」

 パウパーが実験体に向かって、沢山の水風船を投げると、それらは宙で破裂し、つららに変じた。

 氷のやいばの連射はバケモノの身体に当たり、……床に落ちてばらばらと砕け散った。


「役立たず! こんなことになるんだったら、やっぱりオーロラの下で死んどくべきだったわ!」

「いやあ、面目ない」

 パウパーは頭を掻いた。



 ――オーロラ。



 ステラが瀕死の重傷を負ったさい、彼女は仮死状態……一種の冬眠のような状態に陥った。

 冬眠は本来、餌の少ない時期を乗り切るために行うものだ。

 低体温となるために、体力の消耗を押さえると同時に、心臓などの各器官の活動も低下する。

 その特性は人狼の不完全な点のひとつで、再生能力まで不充分にしてしまう。


「ミニング! 氷結の魔導を行え! 低体温下では、細胞の再生能力も落ちるはずだ!」


 老女はこちらを見て表情を緩ませ、バケモノへ向き直り、像がぼやけるほどに全身を真っ赤に光りあがらせた。

 バケモノの(たなごころ)も呼応し、更に青を深める。

 彼女の障壁は今のところ融解する様子はないが、接触面は変わらず煙を吐き続けていた。


「瘴気に対抗するのに魔力を割いてるので、いくらミニングさんでも、すぐとはいきませんよ!」

「わたしが隙を作る!」


 ステラが飛び出した。……が、またも片手間と言わんばかりに巨大な手の甲で払われて戻ってきた。


「半日休ませて」

 オオカミは舌を出してへばった。



「マズいですよ!」

 パウパーが叫ぶ。バケモノの全身が青く光り始め、接触面からの煙が激しくなった。

 老女はますます光り輝き、対抗する。



「カリタスばあちゃん!」



 シェルド少年だ。


「あら、目覚めたのね」

 老女が微笑みかける。

「俺たちを助けに来たの? 俺のせいなの?」

「ちょっと違うわね。私が個人的に、若い人が酷い目に遭うのが嫌なのよ」

 声は少し苦しげだ。

「手伝うよ!」

 シェルドはまたも鳥人へと変じた。


「来てはダメ!」

「どうして!」

「もの凄い瘴気なの。ヒトのままで居たかったら、絶対に近付かないで。ステラさんもよ」


 赤と青の光がいっそう激しくなり、バケモノの指が僅かに食い込んだように見えた。


「早く逃げなさい。今なら逃げ切れる。あとから、軍隊でも新兵器でもなんでもいいから持って来て、こいつを殺してちょうだい」

「嫌だ! ばあちゃんが死んじゃう!」

「仕方のない子ね……。インフォルトニー! 彼らを連れて逃げなさい!」

「いいんですか? 私、本当に逃げちゃいますよ?」


「得意でしょう?」

 老女は笑った。

「おっしゃる通りです。でも、もう少し早く許可して欲しかったですねえ」


 防御障壁でヴィアたちを守っていたパウパーも、両手を掲げて全身を真っ赤に光らせていた。

 こちらの守りもまた青い煙を生み、その魔導を行う“指”の指先も血が滲み始めている。


「申し訳ありません。術を解いたら、一瞬でおしまいです。あいつ、ついで(・・・)で私の壁を溶かしてます」

 から笑いをするパウパー。彼の脚は震えていた。



「やるしかないわね。老いぼれじゃダメ」

 老女が呟いた。



 何もかもを塗りつぶす極彩色が、唐突に透き通り始めた。

 色の無い光の中で青いローブをはためかせる女。

 見間違いか。老いたその顔は若い女のものへと変じていく。


 障壁を崩さんとしていた瘴気が薄まり、バケモノの手のひらが、きらきらとした冬の星屑を散らし始めた。


「ばあちゃんが……」

「自身の魔力に身体が浸食されて活性化してるんだ」

 ヴィアは老婆と呼んで差し支えないのはずの歳の女に見入った。


「どういうこと?」

「動物が幻獣になるのと同じ仕組みだが……」

「だが?」


「本来の幻獣は子供のころからゆっくり時間を掛けて、成長と共に変異するんだ。そうでなければ、体細胞が耐えきれずに崩壊する」

 若返りの女は更に光を澄ませた。だが、青が色を取り戻し、氷の粒も生まれなくなった。


「やっぱりだ。やっぱりみんな死ぬんだ!」

 少年が嘆く。



 ……ヴィアは再び死が這い寄るのを感じた。

 死が膜を抜け、身体に染み入り、細胞を、神経を怯えさせるのを感じた。



 まただ。声が聞こえる。命じている。

 “そいつ”はこっちを見ている。鼻先の尖ったケモノ。オオカミだ。


 オオカミの瞳が、こちらを見つめている。

 それは、あの時の母オオカミか。豪熊に立ち向かおうとした勇敢なオオカミか。タラン・ドラスにかしずいた、群れ(パック)の長か。


 それとも、青い目の、自分たちがずっと追い続けた、あの老いさらばえた……。


 ヴィア・ヴィルは死に包まれゆくのを感じながら、その正体を探り続けた。



「俺のせいだ。みんな、死ぬんだ!」

「あの子の言う通り。これまで危ないことは何度もあったけど、今度こそおしまいね」

 若返りの女は幻と消え、諦観と共に本来の姿へと戻っていた。



「ヴィア、何やってんの?」


 ステラの呆れ声で、はたと気付く。魔像機を構えていた。

 ファインダーの中は青や赤の光ばかりで、なんの像も映していない。


「そんなもの撮ってないで、最後はもう一度、わたしを見て」

 素直な願い。彼女はヒトへ表返っていた。



 ヴィア・ヴィルは、その海とも空とも山ともつかぬ瞳の中に、灰色の目をした男の姿を見た。



 ヴィアは誘われるようにくちびるを重ねた。

 柔らかなそれは、ケモノの血の味がした。



「痛いっ!」

 自身を突き放したステラの口の端から鮮血が流れる。


 男は構わずにもう一度奪いに掛かる。女の弱々しい抵抗を抑え込み、もう一度、喰い千切った。



 ――身体が熱い。



 血が燃えるようだ。心臓は発砲の如くに脈打っている。


「ヴィア、何をするのよ!?」



「……“おれ(・・)”は、生きる」



 眼下の恋人の青い瞳の中が見開かれる。

おれ(・・)?」

 それから彼女は、目元を緩め、「花冠はお花畑全部を使ったものにするわ」と笑った。


 一歩、二歩、踏み出す。

 瘴気が肌を焼くのが心地良い。


 三歩、四歩、更に進む。

 見上げる実験体イの五の顔が少し近くなり、奴は後ずさった。


 後方では赤ローブが何やら怯えた声を上げ、少年は乾いた笑いを向けてきていた。

 老女も魔術を忘れ、こちらをただ見ている。


「どうするの? あっちはもっとデカいわよ」

 恋人が問う。



「……」

 人狼の男はいつものように答えず、駆け紐がちぎれて落ちた魔像機を指差して、つれあいを振り返ってから、バケモノへと向き直った。



 静かだった。己が脈打つ音だけが聞こえる。

 巨大な腕が、こちらを叩き潰さんと振り下ろされるのが見えた。

 人狼の猫背はあまり打撃に向かないな、などと考えつつ、迫るこぶしへと打ち返す。

 バケモノの五指がひしゃげ、出来立ての白パンのように腕まで裂けた。



 それから、ヴィアは殴った。

 青き(つい)に至らしめんとするそれを、叩き潰し、握り潰し、引き裂き、朱に染め返し続けた。

 幾度も再生を繰り返し、幾度も破壊を受ける実験体。

 人狼の男は渇きが潤ってゆくのを強く感じた。



 そして、ケモノの手は満ちた月を覆うと、深く沈みこみ、赤く(さか)んな蝕が迎えられた。

 赤赤(しゃくしゃく)と焼けるような恵みの雨が祝い、オオカミは夜空へと高く高く遠吠えた。



「ヴィア」

 眼下には裸の女。胸に大きな傷痕のある、口の端を血で濡らした女。

 ケモノはそれを美しいと思った。


「どちらのわたしがお好み?」

「……花冠を編むには人狼の指は非効率だ」


 ヴィア・ヴィルはその身を表返らせ、恋人を腕に掻き抱く。

 空は無月。満天の星空のもとで、ふたりはお互いの体温を確かめ合った。



 ……ふいに、シャッター音がした。



 青いレンズがこちらを見ている。

 少年がヴィアの魔像機から顔を離し、白い歯を見せて笑った。



***

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