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.2 不変と変化

 細い指が朽葉と藍鼠の髪を束ね、虹色に光る虫糸を()って作った紐で留める。

 豊かでやや癖のある髪束は、オオカミの尾のようだった。


「小川を汚した、なんて怒られないかしら」


 真冬の森の小川。澄んではいたが魚の気配すらない。

 ステア・アグリは、こういう川は温かな地下水が作ると聞いたことがあった。


 木の根に腰を下ろしてリュックの中身と格闘しているつれあいの背を見つめながら、清流を借りて肌に残った毛を洗い落とす。

 毛が退けば、村娘には得難い傷の無い肌に指が滑った。



 ――洗っても、落ちないヨゴレってものがある。



 彼女は歳を両手で数え切れる時分に、魔狼の牙を受け、その特異な性質を感染させられていた。


 魔狼が白昼に何を求めて彼女たちの村へ来たのかは分からない。

 その魔物に結び付けられる満月にも、最も遠い時期でもあったと記憶している。

 ほかに誰かがかどわかされたとか、無残に食べ散らかされたということもなかった。

 ただ一人の少女(わたし)が、ほんのいっとき生死の狭間を彷徨い、ヒトとケモノの境界を失っただけだった。


 故郷は暖かな南部には珍しくない陽気な地だ。

 干ばつや飢饉を知らず、季節ごとに祭りを行う、人の心も物質的な蓄えも豊かな村。

 祭りに積極的だからといって、姿を見せない精霊に迷信を行うほど信心深くもなく、しきたりを重んじて、鉄のからくりと魔導の蒸気を毛嫌いするようなこともない。


 そのふところの広さのお陰で、ステラは無事に成人の日を越すことができていた。

 彼女自身もその村に相応しい、明るく人好きのする性格であったし、家族や村民が彼女に関して悪意を口に出したり、その存在を外部に漏らすようなこともしていない。

 問題の人狼への“裏返り”に関しても、境界を自らの意思で跨げるようになるまで月の満ち欠けふたつでこと足りたし、満月の晩もヴィアがちょっかいを掛けられる以外は特段に迷惑を被った者もなかった。


 それでも彼女は故郷を出た。探索や探究の好きなヴィアの大きなリュックサックを追い掛けて。


 ヴィアが仕事の片手間に魔狼を追うように、ステラもまたついでで魔狼を追っていた。

 本命は“大きなリュックサック”のほうである。


 魔狼の襲来時、村の男たちは“魔狼の仔”を見つけると、挙って武器や農具を向けた。

 そのあいだに立ちはだかったのは、今よりも小さなリュックサックを背負った背中だった。



 ステラ・アグリが魔狼を追うのは、たわむれの花冠を本物へ変えたあの顔を、もう一度拝むためである。



 感謝半分、恨みごと半分。

 冗談のころから好意を率直に口に出せる気質だったが、いまだ花冠を頭にいただくことができていない。

 それは、自身の中に流れる血に対する恐れのせいであった。

 洗えども薄まることなく、人狼化を繰り返したとて濃くなることもなく。

 それがかえって、ステラに境界のヒト側に収まり切らなくなったことを自覚させていた。


 魔狼はステラをヴィアへと限りなく近づけたが、同時に限りなく遠ざけてもいたのである。



「とっくに着替えは済んでるんですけど?」


 レンズを磨く青年を覗き込む。

 彼は返事もせずに魔像機を首に提げると、ナイフやキャンプ道具などの機材をやや乱雑にリュックに片付けた。

 それから、ちらと彼女の脚を見て歩き始めた。


 ステラは半袖のシャツと革のジャケットを着て、ショートパンツにロングブーツという出で立ちだった。

 辺りには雪と鋭い枝葉の景色が広がっている。

 明らかな薄着でも身体が凍えずに、腿も滑らかなままなのは人狼の血のお陰である。

 一方でつれあいは、しっかりと全身を毛皮で守っていた。


「ただのオオカミをルプス・ディモに見間違えたって話、これで何度目?」

「オオカミの生息域はこの数十年で縮小傾向にある。ここもそうだ」


 仕事先の村へ戻るまでの会話はこれだけ。

 正確には、ステラが冬でもたくましく咲く花や木の実に関してまくし立てていたが……ヴィアは返事すらもしなかった。


 ヴィアが成人になったのちに故郷を出て情報屋を始めたのは、彼自身の幼いころからの夢だったからである。

 リュックに荷物を詰め、遺構探索や遺物の捜索を行い、そこに生きる生物と出逢い、僻地の原住民と触れ合いたい。


 仕事とはそのついでに、獣の分布や地域の植生、発魔力性物質の有無に関して調べ、情報や遺物を国軍や企業、教導会に買い取ってもらうこと。


 ステラは彼に付きまとう形で同伴していた。表向きはボディガードとして。


「“まろう”は見つかった?」

 出迎えた村の子供が訊ねる。

 毛皮のフードでから覗く頬には、まだ周囲を赤くしたままの部族の刺青(いれずみ)が目立つ。


「ただのオオカミだったよ。でも、子供を守る母オオカミだから、あの辺りには近づかないほうがいい」

 答えたのはヴィアである。

「族長さまに教えに行こう! ぼくが言うとウソだと思われる!」

「こらこら、引っ張るなよ」

 彼は笑顔で声も弾ませていた。



 ――いつもはトーテムポールみたいなのに。



 ヴィアは僻地の住民たちと関わり合うときは、多弁で友好的だった。

 彼曰く、現地人、それも子供と仲良くなることが情報収集を円滑にするためのキーだということである。



 ――絶対ウソよ。すっごく楽しそうなんだもん。遺跡を漁ってるときと同じ眼。わたしにはしてみせたこと、ほとんど無いのに。



 ……とはいえ不仲――彼女のことばを借りれば脈ナシ――というわけではないし、彼女もそれを理解している。


 ヴィアは危険な旅に同伴することに一切の拒絶を見せなかったし、野営では互いの体温を利用し合っている仲だ。


 更に付け加えるなら、多くの原住民は都市や故郷とは異なる文化を持つ。

 僻地であればあるほど、好奇心や動物的な本能も疼くだろう。

 たくましく若い男が友好と手土産を携えて現れれば、村の娘が手を引くこともしばしばだ。

 中には奇抜な化粧や刺青にさえ目を瞑れば、都市部で引っ張りだこになるような美人も紛れている。

 だが、つれあいの男は誘いに応じた様子を見せていない。


 旅中における危機に関しても、地形や動植物に関する警告や注意は寡黙に含まれないし、ステラが裏返っていないときは好戦的な部族や危険な動物の前に立ちはだかるのは彼が率先している。

 もっとも、教導会や国軍が警告するような魔性生物の相手は裏返った彼女の役目だが。



 ――背中を見るのが好きってのもあるけど、わたしの押しが足りないのよね。



 それとも子供好きなのかしらと、一考するステラ。



 ――そうだ!



「おんぎゃあ! ヴィア、抱っこして!」

「……お姉ちゃん、頭大丈夫?」


 ステラは齢二十を超えていた。都市ならともかく、農村では行き遅れの境界を跨ぎかけている。

 たった今、気を引くために行ったこのような冗談は彼女としては珍しいことではないが、功を奏したことはない。

 頂いたのはつれあいからの溜め息と、村の子供からの憐憫(れんびん)の視線だけだった。


「魔狼調査の件、ご苦労だった」

 珍妙な空気を破る咳払いがひとつ。鮮やかな織物の上に座る白髭の壮年の男だ。

 彼はこの部族の長で、その隣には魔狼の目撃者の男、焚き火の向こうには仔ギツネの頭蓋を弄ぶ(めしい)の老巫女も座っている。


「魔狼がただの流れオオカミだったなんて、俺には信じられねえが」

 唸る男。


「ただのオオカミとは少し違います。あの付近にはオオカミの餌になるものが少なかった。普通なら避けるような瘴気を蓄積した植物や、わざわざ狙わない木の上のリスを食べて生き延びていたようです」

 ヴィアが答える。


「だとしても、魔物未満だろう? 俺は目が良いんだ。間違えるはずねえ」


「その母オオカミに違いなかろう」

 老巫女が笑いと共に割って入った。

「目はよくとも、ぬしは墨を入れる前から道を覚えるのが下手な奴じゃったからな。普段立ち入らぬ地へ迷い込んで、若い衆に手間を掛けさせる癖はまだ抜けぬのか」


「それは面目無いが……確かに見たんだ。闇の中で琥珀色に光る魔物の瞳とオオカミの顔を。俺の背丈よりも高かった」


「木に登ったオオカミを、じゃろう。魔物に至らずとも、魔力を帯びた動植物が夜間に光ることなど珍しくもない。それに……」



「「魔狼ルプス・ディモの瞳は青い」」



 老婆と青年の声が重なる。ステラも「そう、青い」と遅れて続けた。


「ちょうど、赤子のまねごとをした愉快なお嬢さんのような、澄んだ青い瞳じゃ」


「……おばあちゃん、目が見えてるの?」

 ステラは首を傾げる。


「見えぬよ。ちょうどおぬしほどの時分じゃったか。薬の調合を間違えての。その日以来、光と引き換えに精霊との魔導を得た」

「本物のシャーマンってわけね」

「“精霊は在れども黙するばかり”、じゃがの。しかし、ここのところは語らずともざわつきを見せておる」


 光の無い瞳が、小さくなりかけた焚き火を見つめる。見えぬ魔力の糸が火を蘇らせた。


大婆(おおばば)様の卜占(ぼくせん)には、ここのところ不吉な()ばかりが現れる。ゆえにヴィア殿に調査を頼んだ」

 族長が小さな革袋を取り出し、それを額に当ててから左手に持ち替え、ヴィアの前に差し出した。

 ヴィアもまた左手で受け取り、額に当ててから袋をふところに収めた。


「占いが言ってるのが魔狼じゃねえとなると、やっぱり竜の顎の向こうの村か?」


「竜の顎? ドラゴンが出るの?」

 訊ねるステラの声は少しうわずっていた。


「骨だけだがな。狩りの最中に迷い込んだことがあるが、発掘作業とやらでローブ姿の連中がたくさん集まってたよ」

「魔力教導協会の人たちね。このあたりは“なんとか主義”なのかしら?」


 ステラは訊ねるようにヴィアの横顔を見た。


「“精霊回帰主義”や“精霊脱却主義”は都市部や首都に近い地での話だ。精霊と共にあり続けているこの村には無縁だ」

 ヴィアが答えた。


「それも、もう一、二世代続くかどうか、だろうがな。顎向こうの村には“虹色蛾”を量産する工場とやらができたらしい」

 白髭の族長が煙草を置き、巻き取られた布束を取り出す。


 それは焚き火の光を受けて全ての色に輝いていた。


「……嘘! こんな大きな虹の布なんて見たことない!」

 ステラは腰を浮かし、布へと顔を近付ける。


 七色に輝くそれは、虹色蛾と呼ばれる魔力を蓄積する虫の幼虫の繭糸から作られる。

 虹色蛾が幼虫のうちに糸に影響するほど魔力を蓄えるのは、ごく限られた地域のみのはずである。


「西部に行ったとき、これを作ってる村にお世話になったことがあるわ。見て、この紐。これだけの糸で小麦ふた袋分だったのよ」

 ステラは背を向け、オオカミの尾のような髪を束ねた紐を見せる。

「ちゃんとしたリボンなんて、ウシ一頭と交換なんて言われたわ」


「今は人だけでなく、品物やうわさの行き来も早くなった。その西部の村も、別のなりわいを考えねばならぬだろうな」

 髭を撫でる族長。

「これは、魔導技術興業の者が“見本”として置いていったものだ」

「つまりはタダってこと?」

「対価は求められなかったが、ゆくゆくは己らのやりかたに従えということだろう」


「あなたはどうお考えで?」

 ヴィアが一族の長に問う。やや硬く、芯の通った声。


「若い者に委ねる。我々は分かれ道に立たされているが、その先を歩くのは子や孫たちだ」

 族長が手招きをし、子供が彼のあぐらに収まった。


「その先の世代に豊かさを残すのは、今を生くる我らの使命でもある。だが、広がる魔導技術は魔力の流れを淀ませ、鉄の力は木と石を使い過ぎる。精霊が去り、水や土の汚れた地もあるという。土地もまた受け継ぐものだからな……おまえはどう思う?」


 族長が膝の中の子供を覗き込めば、「分かんない!」と元気の良い答えが返った。


「どうあろうと、人は生きていかねばならぬ。わしらも、教導会も、都市の者も、精霊の恵み無くしては生きられぬよ」

 老婆が素手を焚き火の中に差し入れ、炎を一握り引っ張り出した。



 キツネの頭蓋に炎が結び付けられると、パキリという小気味の良い音が室内に響き渡った。



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