.11 雪山での邂逅
アロピアス山脈が峰のひとつ、ウェムラ・ピーク。
最高峰こそは他の峰に譲るが、ナイフのような切り立った山肌と、叩きつけるように吹き降ろす零下の暴風により、登頂に成功した人間は皆無。
その遥か下方――といっても、そこも高い標高の地であるが――の“風よけの断崖”に、極北クジラの骨で作られたテントが張られていた。
「書きかたがちょっと引っ掛かるわね」
魔導式発熱ランプで新聞紙を照らすステラ。
「シェルドも書かされた、と言っていた」
ヴィアは教導会から貰った“布”の裁断を行っている。
ヴィア・ヴィルとステラ・アグリのふたりは、地下遺構の事故の聴取に付き合わされ、出発を一日遅らせていた。
シェルドの新聞記事は、魔導生物マジカ・イドルの暴走っぷりと、それを制止するために奔走した教導会と国軍をクローズアップしたものである。
ふたりの部外者に関しては書かれず、事件のあらましに関しても、鉄人が湖底を破壊したように読み取れる工夫がなされていた。
「なんだか、悪事に加担した気分。地上の人たち、みんな怒ってたわ」
ヴィアたちは「事故の一件に関する情報を、有形無形に問わず、一切使用しない」約束を、教導会の“掌”と駐留軍の指揮官に結ばさせられた。
反故すれば、情報屋としての活動に支障が出ただろう。
いっぽうで、呑むことで早期の解放と、スぺクルム湖に頼る人たちからのバッシングを避けたい教導会と国軍、同じ思いでありながら二機関を助けたていの魔技興の三者に恩を売ることができた。
コネクションの他には指揮官から魔導拳銃とサーベルを一組、“掌”の老女からも、いくつかの安価なアーティファクトを譲り受けた。
ただし、北上の本目的である追跡、馴鹿タラン・ドラスと、それを追うテラン兄妹には差をつけられてしまっただろう。
「タラン・ドラス、狩られちゃってないかな?」
「それは無いだろう。ここを通ったのが間違いないなら、馴鹿は寝ずに踏破するはずだ」
「寝ずに? バカじゃないの?」
「自身の力量を正しく測れているのだろう。毎年、山越えを繰り返しているんだ」
「バカはわたしたちってわけね」
本来、“冬果ての氷河”へ抜けるルートには、馬車が通れるほど簡便なものもいくつかある。
だが、ヴィアが選んだのは、シカが北上に使うルートのひとつで、ウェムラ・ピークを西側からアタックする険しいものであり、ステラの嗅覚もそれを後押しした。
結果、吹雪に見舞われ、西の谷間を突破できずにビバークする事態に陥っていた。
気持ちが急いていたのもあったが、ヴィアは自身が知識頼りで峻山を舐めていたことと、「ひとつの見落とし」を猛省した。
テラン兄妹との競争、ということが思考に居座っていたため、素直に追ったが、この猛吹雪では弓矢が機能するはずもないのだ。
馴鹿が安全に山越えを終えると踏んで、こちらも人の通れる道を選び、回り込むことを考えるべきであった。
「ねえ、ヴィア。寒い!」
半袖ショートパンツの女が彼の膝へ滑り込む。
彼女はスぺクルム湖から離れてひと目が無くなると、すぐに毛皮のコートを脱ぎ去っていた。
無論、雪の中を進み、風雪の中でテントを張る作業でもそのスタイルを貫いている。
にもかかわらず、彼女の体温は温かであった。
「寒いなんて嘘だろう」
「わたしで暖を取ると良いぞ」
人狼の女は常に高い体温を持っている。力も強い。
ゆえによく腹を空かせるが、それを差し引いても人間よりも遥かに熱効率に優れた人種であった。
そのお陰で、寒冷地でも凍死を予感したことが一度もなかった。
「……」
ステラの十指が頬と首に爪立てられる。
ヴィアはかつて提案したことがあった。自分も人狼になろうか、と。
これはステラによって強く拒絶されていた。
ステラが人狼と化したのは、魔狼ルプス・ディモに頸部を喰らわれたことが原因と考えられている。
病的な感染か、血の混じりか。村医者の結論も推測の域を出なかった。
温厚で陽気な人の暮らす村だ。それが別段、ステラやアグリ家を村八分にするようなことはなかった。
それでも、彼女自身は己の血や涙を穢れと定めていた。
生物として、人間よりも劣った点はない。
体力、筋力、嗅覚、治癒の早さ、寒さや疾病への耐性、全てにおいて溝をあけている。
ただ一点、月の目立つ晩に、いやに昂ることだけが問題であった。
特に三つの衝動が強く昂った。
食欲、性欲。……そして、血の渇望。
感じ続けていたステラは、こう言ってヴィアの提案を断った。
「わたしひとりなら、いくらでも我慢できる。でも、そうでなくなれば……」。
集団心理。止める者のいない暴虐。
かつて人狼が人間に駆逐される運命を辿ったのも、それが火種だったのかもしれない。
「人狼なんかじゃなかったら、良かったのに……」
毛皮の手袋が女の頬を撫でると、乾いた筋ができあがった。
「そうなれば凍死だ」
「死んででも、素肌で暖め合えたら良いと思わない?」
ヴィアは答えなかった。吹雪の夜営では決まったやり取りだった。
――選ぶなら、死よりも……。
見透かされたか、眼下の女が顔を歪めた。
「……さっきの発言は撤回するわ」
身を起こすステラ。彼女はテントの入り口をふさぐ大きなリュックサックを退けた。
「どうした?」「臭うわ。血の臭いが。それも、人間の」
「怪我人か?」「少しだけ待って」
オオカミの女が眉をひそめ、忙しなく鼻を鳴らす。
「殺す側ではなさそう。でも、嗅いだことのある“心配”」
ステラがそう言うが早いか、テントの入り口が無遠慮に開かれた。
「誰か居ますか!? 助けてください! 兄が、兄のロッサが……!」
ただの人間のヴィアにも、はっきりと知覚できる血の臭い。
雪と共に転がり込んできた短い黒髪の女は、大きな荷物を背負っていた。
「あんたたち! ……すごい怪我」
血の臭いの元は黒い長髪の男。耳長の狩人、ロッサ・テラン。
彼の毛皮のズボンの大腿部は大きく裂け、いのちを惜しげなく晒していた。
「あなたたち……!」
妹ローシャは顔を恐怖に歪めたが首を振り、ステラにすがりついて「お願いします」と繰り返した。
「くそ……。クマの寝床に逃げ込んだか……」
ロッサが唸った。
「まだ意識があるか」
ヴィアはかつてつれあいに矢尻を向けた男を一瞥する。
「お願いします。殺さないで! 助け……助けて……」
懇願は吹きこむ吹雪に掻き消された。
「殺さなくたって死にそうなんだけど」
ステラが入り口にリュックサックを戻し、ヴィアを振り返る。
彼の手の中でナイフが光った。
それに気付いたローシャは兄の上に覆いかぶさった。
「殺さないって。ヴィアったら、ちょっと面白がってるでしょ?」
「否定はしない」
ヴィアは教導会から譲り受けた、古代の魔導アーティファクトの布地で包帯を作り上げたところであった。
――さて、効果のほどは?
妹の膝に兄の足を乗せさせ、血まみれの大腿部に包帯を巻く。
「ロッサ・テラン。傷に魔力を集中しろ」
「ロッサは治療術を使えません。そんなことをしたら余計に傷が!」
ローシャが声を上げる。他者治療の魔術の場合は、逆に患部から魔力を引かせる必要があった。
「そこがアーティファクトの便利なところよ。ほっとけば死ぬし、わたしたちに殺された気でやってみて」
ステラが言うと、ロッサの大腿部に巻かれた包帯が淡く赤い光を放った。
「傷が……!?」
早くも身を起こすロッサ。……が、血を失い過ぎていたか、すぐに頭を落とした。
「効果ありだな」「わたしと同じくらい早く治ったわね」
笑いあうふたり。
「助かった、の? ……血が止まってる! あ、ありがとうございました!」
妹が額を地に着けて礼を言う。
「……なぜ助けた? 口封じをするには絶好の機会だったのに」
「わたしたちが追っていたのは、あなたたちじゃなくってタラン・ドラスよ。この人が写真に収めたいって聞かないの」
こちらを指差すステラ。
「でも、私たちが、あなたが人狼だって誰かに言うかも知れないでしょう?」
「心配よね。タラン・ドラスも狩るべきじゃないって考えてるし。だから、あなたたちのことも撮影して密猟者として報告する気だったんだけど……」
「妹のほうは今の恩で、もう心配ないだろう」
ローシャを見ると彼女は激しくうなずいた。
「言いませんし、ここに来るまで、誰にも話していません!」
「信じれる? ね、ロッサ。あなた、まだ、わたしのことを獲物として見てる?」
「ついさっきまではな……」
「ロッサ! 助けてもらったのよ。また、危なくなるようなことは言わないで!」
「いや、その解答で正解だ。ロッサほど執着する狩人が、貴重な獲物の情報を他言するはずがない」
情報屋としての見解を述べながら、カップに入れた雪を火にかける。
「俺を赦すというのか? おまえの恋人を射殺そうとしたのに」
「恋人だって」
ステラがはにかみ、つついてきた。
「タラン・ドラスに道を示された気をした。己の在りかたを問われた気がしたんだ」
ヴィアは恋人を無視して続ける。
「その返事をし忘れてしまった。だから、追う。写真はついでだ」
「シャーマンのようなことを言うんだな。俺は、あの角が欲しかった。長き時を生き抜いた印。それを手元に置きたかった。血肉も食らう。それが礼儀であり、戦いの高揚に勝る甲斐のひとつでもある」
「ローシャの胸が悪いって話は?」
ステラが割って入る。
「本当だが、おまえに指摘された通り、言い訳だ。霊薬が眉唾であることくらいは知っていたさ」
「小屋を少し覗かせてもらったが、イワトビヤギにしては大きな角や、クマの毛皮があったな」
「あのヤギも大きな獲物だった。クマは狩り飽きてるさ」
ロッサは、雪焼けをした肌でも透けてみるほどの疲労が見て取れたが、語る表情は明るかった。
「狩り飽きてる、っていう割には……あんたからクマっぽい臭いがするんだけど?」
「あいつが追って来ないと良いのですが……」
ローシャがテントの入り口を振り返る。
「仕留め損なったの? 油断したんでしょ? わたしたちも、ウェムラ・ピークの天候を舐めて、ここでビバークよ」
「油断などではない!」
ロッサが黒い長髪を跳ねさせて起き上がった。
「あれは、ただのクマではなかった。俺の魔力矢はクマの頭蓋をも砕くのに……」
狩人がくちびるを噛み、貴重な血を滲ませた。
狩人ロッサ・テランは雪山での邂逅を語り始めた。
幻獣を狩ることに執着した男は、妹を伴って北上していた。
途中、いくつかの集落に寄って物資を補給し、今年のシカの具合や天候についての情報を集めつつ、アロピアス山脈に入山。
アサマ族もシカ追いに使っているルートを選択し、馴鹿を狩る好機を窺う予定だった。
ところが、彼らの前に現れたのは別の幻獣。
「豪熊モルス・ウルシだ」
「あうち!」
ステラは自身の額を叩いた。
豪熊モルス・ウルシ。一応は幻獣指定の生物のひとつである。
馴鹿が精霊を宿して大きく育った「ただのシカ」であるのと同様、このクマも現生する生物の延長に過ぎない。
問題は、それが捕食者であるということで、多くは禁猟とされる幻獣の中で、ゆいいつ「殺害を推奨」されているものだ。
モルス・ウルシは各地で目撃されており、その凶暴性と飽くなき食欲で他の生物の暮らしを脅かしている。
定義としては「精霊を宿した大熊」であるため、特定の個体を指すわけではない。
新聞には、それによる被害や退治の情報が連日掲載されている。
目撃報告があれば、近辺の住人は集団で居を移し、代わりに腕に覚えのある狩人が集まり、退治を推奨する教導会からは“掌”クラスが派遣されたり、国軍の小隊が出向くことすらある。
豪熊に窮するのは人類だけでないらしく、オオカミの群れまでが加勢したという逸話があるほどだ。
その豪熊が、この近辺をうろついているらしい。
あまたの獲物を狩ってきたロッサ・テランは、馴鹿と妹の心配を捨て置いて、豪熊へ弓を引いた。
ところが、小屋ほどの大きさを持つ化け熊は、魔力を貯め込んだ矢尻を弾き返したあと、雪崩の如く雪を蹴散らし追い掛けてきた。
「巨体に釣り合わない速度と真っ白な視界で、遠近が狂いそうだった。耳頼りで運が良かった」
ロッサは逃走ルートを確保しており、崖上に逃れた。
だが、豪熊は岩肌に爪を引っ掛けて崖をよじ登り、追跡を諦めなかった。
想定外のアクションと戦闘能力に、さしもの狩人も命からがら逃げるのが精いっぱいだったという。
「爪の先がかすっただけであの傷だった。生きるために戦ったのは、ガキのころ以来だ」
「なるほどね」
ステラが腕を組んで頷く。
「つまり、今、わたしたちのシェルターが騒がしいのは、アイスフォールってわけじゃないのね」
岩石が衝突するかのような打撃音がテントの骨組みを振動させ続けている。
人狼が鼻を鳴らすまでもない、耳長が耳を澄ませるまでもない。
ただの人間、ヴィア・ヴィルは大きなため息をついた。
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