.1 追う理由
深森と音も凍る世界。
朽葉と藍鼠のまだらにまじりあった毛並みが踊る。
秋を忘れかけた地面を丸みを持った脚が蹴り、獲物に見立てたお互いへ爪と牙を沈める手伝いをした。
冬を生き抜く豊かな毛皮は決して傷を許さず、飛び掛かったはずの小さな身体を雪の中へと転がした。
じゃれる二頭をそばで見守るのは、少し痩せた母親だ。
琥珀色のまなざしこそは慈愛に満ちているが、耳は忙しなく動いている。
彼女のどの獣よりも優れる鼻が「答え」に迷っているからだろう。
オオカミの親子を見つめる、青みがかった単眼があった。
毛皮の手袋が持つのは、雪の世界との対のごとく黒光りした箱。魔像機だ。
箱から伸びる円筒の先にはまった水晶の瞳は、可視光線と魔力を感応させて像を焼き付ける手伝いをする。
しかし“彼”はシャッターを切らず、ファインダーから目を離した。
――今回もはずれだったか。
溜め込んだ息が風下の好機に吐き出され、白い蒸気が同色の短髪に薄くかかった雪を水の粒へと変えた。
各地に伝わる幻獣のうわさ話。
とりわけ、“魔狼”に関するものは枚挙にいとまがない。
今回も原住民の畏れから生まれた虚像だったのだろう。
ただのオオカミの親子を見つめていた青年、“ヴィア・ヴィル”は本業の合間を縫って魔狼を追いかけ続けている。
魔狼ルプス・ディモ。
青い瞳を持ったオオカミ。幾多の部族に崇拝される、いにしえに生きた魔物。
それが崇拝されるに至った経緯は、その“生まれ変わり”の性質にある。
生まれ変わりといっても、死からの再生ではない。
毛皮を捨てヒトに返り、毛皮をまといケモノに返る。魔狼はふたつの生き物を自由に行き来するのだという。
だという。伝承だ。伝説の、幻の生き物。
此度のうわさを提供した部族にも、狩りの際にはオオカミの毛皮を借りる習慣があった。
しかし、都市に暮らす者は伝承を信じていない。
幻獣の正体を裏付ける記録を持っているからだ。
ヒトとオオカミを行き来するのでなく、ヒトとオオカミの中間。
つまりは人狼。数千年前にヒトとのあいだに戦争を起こした亜人種族のひとつ。
硬い毛皮に覆われ、前脚を手のように扱い、二足で歩き、四足で駆ける。
ケモノの力と本能を持ち、ヒトの知能と暴虐さを兼ね備え、長寿と不死身の生命力を宿した生物。
魔狼ルプス・ディモはこの人狼の生き残りだと推測される。
ここ数十年で集められた目撃談が“魔力教導協会”の持つ記録と合致していた。
多くの魔導士を擁し、禁術や魔術遺構の管理を行う国家公認機関、魔力教導協会。
通称、“教導会”は人狼との戦争への勝利に大きく貢献した機関でもある。
というよりは、人狼の根絶への貢献が教導会を世界に権威づけた契機だといってもいい。
彼らにとって、ルプス・ディモは幻ではなく、頭の上を飛び回るハエのようなものだ。
有力情報には懸賞金が懸けられていた。
幻獣を虚像としてではなく、実像として追い求める機関がもうひとつあった。
“魔導技術興業”。通称、魔技興。
こちらはここ数十年間で急成長した企業グループで、土地開発、鍛冶全般や造船、貿易など広くを手掛けている。
とりわけ、蒸気機関の機械技術に魔力動力を融合させたものは進歩が目覚ましく、都市部のみならず、その近辺の暮らしを塗り替えつつある。
主要な都市を結ぶ魔蒸気列車計画、個人所有の可能な魔動力式の車、熟練の鍛冶師に頼らない金属部品や武具の加工。
鍛冶業だけに限らず、多くの第二次産業を機械仕掛けの装置が助け、生産と加工は日々加速している。
さらに、魔技興の発行する情報紙“新聞”は、遠地のできごとを手早く共有することを可能にした。
ヒトを前へ前へと進ませるこの企業は、人狼の肉体を研究し、その変身の不思議と強靭な生命力を新技術に生かそうとしている。
……という、うわさだ。
ヒトであろうが動物であろうが、たとえ害なす魔物であろうが、意志ある生体を使った実験は国家と教導会により固く禁じられているのだから。
ルプス・ディモを始めとした幻獣の情報には賞金が懸けられている。
教導会は有害な魔物の退治と、精霊を宿す無害な幻獣の保護を目的に。
魔技興は新聞社の記事の賑やかしとして、その情報を欲しがる。
そして、この魔狼に限っては教導会と魔技興で懸賞金の額を競り合っており、フリーの情報屋のあいだで魔技興の黒い生物実験のうわさを流す要因となっていた。
白髪の青年ヴィア・ヴィルはそのフリーの情報屋のひとりだ。
古代遺構を探索して発見した、魔力の籠った有用な遺物――アーティファクト――の提供や、自然環境に関する調査報告書や写真を教導会に、センセーショナルな事件や、魔導技術に関わる案件の取材記事を魔技興に売って生計を立てている。
先も話した通り、ルプス・ディモの情報は値段が釣り上がり続けている。
つい先月には、ほかの幻獣よりも桁がひとつ抜けてしまい、それは一部の富裕層だけが手にできる魔動力式の車をオーダーできるほどの額となっていた。
しかし彼は、魔狼を写真に納めたとしても、どちらの機関にも売る気が無かった。
ヴィアには魔狼を追う理由がある。
十年以上前に、南部の彼の生まれ故郷にもルプス・ディモらしき生物が現れていた。
それはちょうど、幼なじみの“ステラ・アグリ”が花冠のおふざけのために彼のそばを離れた瞬間のことだった。
細い首と、突き立てられた牙のあいだから流れる真紅のいのちは、今も鮮明に思い出すことができる。
少年だったヴィアの髪はこの日を境に色を失った。
確かに見たはずの姿。
いのちの色はいまだ衰えぬというのに、魔狼の顔は歳を重ねるごとにおぼろげになっていた。
――写真ならば、永遠に忘れることは無いだろう。
――ステラのために。
彼はステラ・アグリのために魔狼を追っている。
母オオカミが立ち上がっていた。二頭の仔狼は意に介さず狩りごっこに夢中だ。
ヴィアは自身の感傷的な気持ちが体臭を変化させたかと思い、身を固くしたが、その行為すら、体臭に更なる影響を与えるだろう。
悪いことに、風向きも変わっていた。
オオカミはもはや耳に頼らず、真っ直ぐと彼の潜む茂みを見据えていた。
相手は痩せたオオカミだ。
僻地の遺構や、文化の違う部族ともやりとりのある彼が、武器術や魔術の心得を持たないわけがない。
国軍兵や教導会の魔術師ならいざ知らず、一般人としては魔力も高かったし、こぶしや武器の経験も重い。
しかし、彼のもつ魔像機の発魔結晶レンズはもっと高かったし、本業のための機材や野営道具を詰めたリュックサックはもっと重かった。
なにより、ここ最近の魔導技術革新によって広がり続けるヒトの領域に追い立てられる彼女たちをこれ以上苦しめたくなかった。
ヴィアは音も臭気も無遠慮に立ち上がり、逃亡を選択する。
気配で分かった。オオカミがこちらを追い始めた。
困惑を経て、警戒に変わった獣の意志は、仔のための糧を求める勇猛なものへと変じていた。
青年は雪のふくらみに気を付けて走る。岩や木の根を示すふくらみを踏めばブーツを滑らせ転倒を招くだろう。
普段なら嬉しい赤いベリーの茂みが行く手を阻んだ。
リュックをひっかく枝をうざったく思い、視界のひらけた道を選ぶ。
ここらは周辺に暮らす部族の者もわざわざ通らない場所だと聞いている。
それなのに空を枝葉が覆わずにいる、道のように退路を横切る空間があった。
ヴィアは重いリュックを背負ったまま、その“道”を飛び越えた。
覆い隠されたせせらぎをかすかに聞き、着地。直後に勇んだ母オオカミが大きな水音を立てるのを聞く。
振り返れば、オオカミは雪を被った草葉に隠されていた小川から這い上がり、身を震わせ水滴を飛ばしていた。
「暖かいあなぐらに帰るんだ」
母オオカミは歯茎まで見せて唸る。恐らくこのあたりのウサギやキツネなどの、身の丈に合った獣は尽きたのだろう。
そうでなければ、このリュックに足が生えたような生物を追うような真似などするはずがない。
「傷付けたくはない」
彼は魔像機のレンズの無事を確かめたあと、やっとそれから手を離し、代わりに短い銀のやいばを握った。
溜め息をつく青年。唸り身構える母オオカミ。
ふいに、ふたりを隔てる雪の小川が大きくしぶきをあげ、オオカミが獣としての誇りを微塵も感じられぬような悲鳴をしぼり出し、あとずさった。
……若く力のある青年ヴィアに負けず劣らずの背丈。その大きなリュックを含めたシルエットに迫る体躯。
それは二本足で小川に立っていたが、朽葉と藍鼠がまじりあった毛皮に覆われており、尖った顔はまさにオオカミとたがわぬものであった。
ヴィアの幼なじみを襲ったものの同族。人狼。
やや猫背のそれは、ゆっくりと彼に顔を向け、一対の青い視線を投げかけた。
その向こうで、母オオカミが何かを思い出したかのように、あるいは錯乱したかのように呻吟し始める。
異形の同類の腕へと牙を立てるオオカミ。
人狼はそれを退屈そうに眺めると、獣が喰らいついたままの腕を振り、襲撃者を茂みの中へと落した。
少し哀れっぽい悲鳴と、それから脱兎のごとくの足音が遠ざかる。
「怪我はない?」
その声は怪物の喉から発せられた。若い女の、さも心配だという声色。
ヴィアは問い掛けに答えずに短刀をホルダーに戻す。
「わたしは噛まれたんですけど?」
そう言う人狼は自身の腕を指し示した。
五本の指と黒く鋭い爪。それの指す先には血はおろか、毛並みの乱れひとつすらない。
「もう治ったけど」
怪物はヒトがするように肩を竦めた。
ヴィアはそんな彼女をよそに、リュックを下ろし、留め具を外して一番上に入っていた、丁寧にたたまれた布のかたまりを取り出した。
「……おしまいってことは、今のがうわさのぬしだったのね」
肩を落とす人狼。
彼女はその身を縮めるしぐさから続いて、実際にその身を小さくした。
二色の体毛が抜け落ちて小川に散り、頭髪は伸び背の中ほどにまで届いた。
イヌ科の尖った顔が乙女へと変じ、二枚の花びらから白い吐息が長く伸びる。
紺碧の瞳だけはその色を変えない。
「服!」
裸体の若い女が手を突き出す。ヴィアはその腕にリュックから出した衣装を次々と引っ掛けた。
そのいくつかが凍れた小川に落ちた。
「ちょっと、濡れちゃったんだけど!」
苦情をあげる彼女をよそに、青年は背を向ける。
「本業に戻るぞ」
「ようやく喋ってくれたと思ったら、着替えるのを待つ気もないわけ? こんな森の奥のくそ寒い川の中で裸の幼なじみを放置する気?」
不愛想なリュックサックへ苦情を投げ掛ける女性。
彼女こそがヴィア・ヴィル青年が魔狼ルプス・ディモを追う「理由」である。
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