第二十七話「未熟を知るは成熟の道」
俺が現場に着いた時、沢山の兎人族の女性が散り散りになって逃げている所だった。
流石はウイ。とんでもない視力の持ち主だ。
俺は迷わず予め口に忍ばせておいたメタモライザを一気に噛み砕いた。
体全体に電撃が走ったようにビクンと痙攣する。
脚に力が漲り、身体の何処かが燃えているのか、或いは激痛の類なのか分からなくなる程の苦痛に耐える。
気がつくと、俺の体は少しだけ小さくなっていた。
…脚は伸びてるみたいだな。
ちょっとスタイルが良くなった気がする。
頭に触れると、フワフワで柔らかな真っ白な毛が手に触れた。
かつてない程大量の音の情報が、アンテナの如くピンと立った耳から脳内へと流れ込んでくる。
無事、俊敏な亜人、兎人族に変身したのだ。
ぶっちゃけ直線移動なら烏人族にかなうものはいないと思うが、やっぱり森の中で翼を広げるのは無理があるので今回の適正は低いだろう。そもそも俺には飛び方がわからないし。
兎人族になったのは、目の前の光景にイメージが引っ張られたってのはあるんだけどね。
結局、メタモライザに頼ることになってしまったな。
俺は内心溜息を吐き、風の如く走り出した。
「間に合ったか」
俺の脚は思った以上に俊足だった。
それも、この辺りを逃げ惑っている兎人族と比較して、或いはあの悪魔マルトルードと比べて、それでもなお遅いな、と感じるレベルでだ。
メタモライザは単に通常の亜人に変身するだけの薬じゃない。
恐らくその内服量、もしくは体内の濃度に応じて発現する力が変化するのだろう。
この辺りも研究者としては後々どう言う経過を辿るのか記録を取りたいもんだな。
「あ、貴方様は…」
最後に割とギリギリで回収できたリーダーっぽい雰囲気の女性が何やら言っているが、考え事しててあんまり聞いてなかった。
とりあえずお得意の愛想笑いで誤魔化しておく。
「もう大丈夫。絶対に生きて返すよ。」
こくこくとカラクリ人形のように頷く彼女をそっと地面に下ろし、悪魔と対峙する。
さて…
グウウゥウゥ…
憎々しげに俺を睨んでいる熊より大きな狼。
昔話とかに詳しいメイさんによれば、かなり前からその存在は認知され、悪魔マルトルードとして語り継がれていたという。
曰く…
始祖王を背に乗せ、その四肢は刹那に千里を駆ける。
その爪は如何なる鎧をも切り裂き、その牙は如何なる兜をも砕く。
如何なる剣もその身体を貫く事は無く、如何なる強者もその首を挙げる事は無い。
真の王が再び現世に現れた時、その誇り高き首を垂れ、喜んで王の元へ跪くだろう。
こんな言葉が残っていたらしい。
もしこれが本当なら、こんな奴が素直に頭下げるってんだから、ロストナンバーの線は濃厚だと思う。
さて、それをどうやって確認しようかな。
「…お前は…ロストナンバーか?」
直接聞いてみたが、グルグルと唸るだけでこれと言った反応が無い。
なら次は…ヒトの命令に従うかどうかだな。
「…もう人を襲うのはやめろ。」
…!?
俺の言葉を聞くと同時に悪魔マルトルードの目が大きく見開かれ、まるで狼狽えているかのような仕草を見せた。
2、3歩後ろへ後退し、前足で頭を抱えている。
俺の命令に此処までの反応を見せていると言うことは…やはりコイツは…
いや、まだ確証は持てない。
「…その場でお座りしろ。」
特に命令が思いつかなかったので適当な事を言ってみた。
悪魔マルトルードは千鳥足でフラフラと近くの巨木まで移動すると、ガンガンとその頭を木にぶつけ始めた。
なんだか苦しんでいるようにも見えるが…これがアイツなりの恭順の示し方って事なのか…?
…どうも微妙だな。
「もういい。やめろ。」
俺が命令すると、途端に奴は木に頭をぶつけるのをやめた。
これは、命令を聞いたって事でいいんじゃないだろうか。
なら、コイツはやっぱりロストナンバーって事か。
「よし。いい子だ。おいで。」
最後の確認がてら、こちらに呼んでみる。
超大型犬みたいになった悪魔は尻尾こそ振らないものの、あくまで従順に俺の側にゆっくりと寄ってきて、その首を垂れた。
おお、やったか!
俺は予想通り上手く行った事に対する達成感と、目下の大きな課題が解決された事への喜びを感じていた。
☆
古来から伝わるジンクスとして、死亡フラグなるものがあるらしい。
なんらかの目的を達成する際、人は上手くいってほしいと願うあまり、都合よく物事を解釈しがちだという戒めだ。そして大抵の場合、その独りよがりな解釈は裏切られ、一瞬の油断により事態は最悪の一途を辿るのだ。
それが「やったか!?」の一言に詰まっているという。
眼前に黒い影が迫ってくるのを、エーリはスローな視界の端で捉えていた。
一体それがなんなのか、彼には全く予想も出来なかったが、とにかく「みえている」事と「対応出来る」事には大きく隔たりが存在する事を、彼は未だ知らなかった。
やがてその影は大きくなり、まもなく目前に迫る。
その瞬間、エーリはやっと、それが悪魔マルトルードの爪だという事を悟った。
まずい!!
彼は避けようと全力で身体を捻る。
メタモライザを使った事による全能感。そしてそれに付随する油断。
しかし如何に優れた超人的な身体能力を手にしたところで、使用者の五感は依然としてどうしようもなく未熟なままである。
故にその必殺の一撃はエーリをしかと捉えたまま、スローで彼の目前に迫った。
殺られる!!
悪魔はまるで人のように笑った。
対する彼は、命を賭ける覚悟すらないまま、無防備に悪魔の前に立ち尽くしていた。
それが一体どれ程傲慢な行為だったのか、彼はまもなく、死をもって理解する事になる。
「危ないっ!!!」
突然、エーリの死角から強い衝撃が走った。
白くたなびくは兎の耳。
別の真っ黒い何かが視界を覆い、そして…
必中と思われた凶爪はエーリの身体ではなく、別の何かを切り裂いた。
依然立ち尽くすエーリ。
果たして、目の前で崩れ落ちたのは先程助けたはずの兎人族の女性だった。
「なっ…」
エーリは何が起きたのか理解が追いつかなかった。
わかるのは、ただ目の前でまずい事が起きているという事実のみである。
グガウウウウゥゥ!!!
悪魔が高らかに笑い…
「油断は禁物…ですわ…」
目の前で人が倒れる。
エーリは夢の中にいるのかと錯覚した。
先程までの達成感とこの絶望的な状況が、まるで別世界のようだったからだ。
「なん…で…」
エーリはこの悪魔がロストナンバーだとほとんど確信していた。
故に状況の理解が追いつかない。
頭が真っ白になる。
しかし彼は身体を動かした。
目の前で倒れた兎人族の女性を腕に抱え、第二第三の攻撃を次々と回避する。
それは兎人族として発現した、仮初の本能だっただろうか。
或いは、医師としての意地、宿命のようなものだったかもしれない。
バックステップで距離を取り、急いで女性の傷を確認した。
背中の一部と右上腕後部に赤い血が滲んでいる。
服の上からであまりハッキリとは言えないが、創傷としての傷はそこまで深くはないように見える。
「早く…早く手当てを…」
「この程度…かすり傷でしてよ。」
かすり傷…ではないが、よく見たら確かに幸い出血も酷くはなく、脚部に怪我は無いようだ。
緊急性はそこまで高くなく、ちゃんと治療すれば傷跡も消えるレベルだろう。
エーリはそう判断し、ほっと胸を撫で下ろした。
出来れば今すぐにでも傷の手当てに取り掛かりたいところなのだが、今目の前にいる悪魔がそのような行為を許すはずは無かった。
幾度となく目にした嗜虐的な笑みで舌舐めずりをする悪魔は、ゆっくりと、二人の反応を愉しむように近づいて来る。
隙を見せれば、さっきの二の舞だ。
エーリは「ごめん」と言いながら、ゆっくりと女性を地面に下ろした。
「馬鹿だ。俺。なんでも出来るって、天狗になってた。」
「あら…この傷は私の勲章ですわ。貴方様が気に病むものではありません。」
僅かに俯き、下唇を噛むエーリに対し、それに、と女性は笑った。
「こういう時は”ごめん”じゃなくて”ありがとう”ではなくって?」
小気味良い、という言葉がよく似合う粋な女性だと、エーリは思った。
「貴方の名前を聞いても?」
「イロハ。ただのイロハですわ。」
「そうか…イロハ。さっきは助かった。ありがとう。」
俺はエーリ。彼はそう言って、悪魔を睨みつけた。
「もう二度と、油断はしない。」
次の瞬間、イロハは目の前に立つ男、エーリの変化に驚愕を隠せなかった。
頭の上にピンと伸びた白い耳は縮み、代わりに大きな垂れた耳が、顔の横から生えてきたのだ。
イロハより少し高い位の身長だったはずの華奢な身体はみるみる巨大化、肥大化し、肌の色も燻んで黒っぽくなった。
ものの数十秒と経たないうちに、全く知らない巨人へとその姿を変えてしまったのだ。
「…こ、これは…一体…??」
イロハの困惑を他所に、悪魔マルトルードはエーリへとその爪を振るう。
対してエーリはそれを避けようとはせず、カウンターを打ち込むように巨大な拳を振るった。
エーリの肩口に爪が沈み込み、血が吹き出る。
それと同時に、悪魔マルトルードは大仰に吹き飛び、木々を薙ぎ倒して見えなくなった。
「イロハ。危ないから下がってて。」
「え、ええ。」
イロハの見立てがおかしくなければ、ついさっきまでエーリは間違いなく兎人族であった。
しかし、目の前で悪魔に対峙する大きな背中もまた、エーリで間違いない筈である。
それが意味するところは一体何か。
「…ま、まさか!?…エーリという名前…!」
いや、そんなはずはない。
イロハは唯一浮かんだ馬鹿げた結論を追い出そうとして、頭をぶんぶんと振った。
同時に胸につけたロザリオがチャラチャラと音を立てる。
イロハはロザリオを握りしめ、エーリの後ろ姿を見て小さく呟く。
「まさか本当に…主様…なんですの…?」
その声は、最早兎の耳を失ったエーリには届かないのだった。




