第十八話「夜はどこまでも紅く」
俺がスープルさん、もといスーと健全にお話しをしていた時だった。
もう夜も深まって、月も低い位置へ傾き始めていた時、その事件は起きた。
「ギィヤアァァァァ!!!」
静かな夜を叩き割る程の絶叫。
恐れていた事態が現実となった事を示しており、空気が変わった事を俺でも理解できた。
「え、エーリ…」
「スー、落ち着いて。上に立つものが動揺すれば、皆がブレてしまう。」
「そ、そうね。」
偉そうな口を効いているいるが、俺だって内心ビビってる。
職業柄、顔と心を切り離せるからなんとか平静を装えてるだけだ。
ホントは心臓飛び出そう。
「とにかくまずは、人を集めて現場に向かいましょうか。」
「分かったわ」
狗鳴組の男達は、号令をかけたらすぐさま集まった。まるで精鋭部隊のような練度だ。
流石は縦社会に厳しい犬人族と言った所か。
…いや、きっとそれだけでは無い。
皆が仲間がやられた事に憤り、誰もが我先にと駆けつけた結果なのだろう。
村の端にある小さな家を数十人で囲む。
入り口には大きな足跡がついており、中に獣が入って行ったのは間違いない。
本来ならば直ぐにでも突入して仕留めてしまいたい所だが、相手が相手だ。
焦って被害が拡大した上に仕損じるってのは避けなければならない。
それにしても…先程からやけに静かで気味が悪い。それに…外に漂ってくる濃厚な鉄の匂い。
やはり中の人はもう、殺されてしまったのだろうか。
俺が少し遠くで落ち着きのないスーをなだめている間、皆の統率はセツナに一任する。
彼を先頭に、十人程の屈強な男達がゆっくりと家の中へと入って行った。
その瞬間だ。
「グッハァ!!」
体重90キロはあるであろう筋骨隆々な男が二人、まるで漫画のように家の壁を突き破って外に出て来たのだ。
冗談のような光景に、弾き飛ばされたのだと理解するのに一瞬必要だった。
大男二人分の穴が空いた壁は崩れ、土煙の奥、家の中が露出する。
現場は恐ろしい事になっていた。
クチャクチャ…ペチャペチャと不快な咀嚼音がやけに耳につく。
血の海に浮かぶのは二つの死体。
一つは噛みちぎられて頭が亡くなった男。
もう一つは恐怖に歪んだ表情のまま死に、今なお獣に腹部を食い荒らされている女。
…その腹部にあるものは…赤ん坊として生まれて来るはずだった小さな身体だった。
俺は咄嗟にスーの目を覆った。
「見ないほうがいい。」
「う、うん」
幸い、彼女は背が低いのでよく見えなかったようだ。
職業柄死体や血に慣れている俺でも吐き気を催すレベルだ。
あんな悲惨な光景を見たら、トラウマは必須だろう。
実際、周りを囲んでいた男達も三人に一人は慌てて口を押さえている。
「エーリ。」
突然セツナが俺に話しかけてきた。
獣が低く唸るような、そんな地に響くような声だった。
「アレは…まだ助かるか?」
アレ…?赤ん坊の事か…?
いや、いずれにせよ、あそこにいる人達の事を指しているのだとしたら…もう…
「…残念ながら。」
「そうか」
カチャ
セツナの腰に下げた刀が震えた。
その瞬間、セツナの身体は掻き消え、次の瞬間には獣の首に刀が吸い込まれる。
瞬きする間に距離を詰め、一撃で命を刈り取る。
瞬歩。そして一閃。
俺の目には、奴の首が跳ね上げられる瞬間すら映った気がした。
しかし…
「む」
振り下ろした剣先に既に獣はおらず、奴は半歩下がった所で赤子だったものをその大顎で咀嚼しながら、忌々しげにセツナを見下ろしていた。
その首からは一筋の血が滴り落ちているが…それは果たして奴の傷なのか。或いは殺した人の血なのか。
いずれにせよ致命傷とは程遠い事は、戦いの素人の俺でもわかった。
セツナは強い。英雄と謳われるその実力は一国の将軍にも匹敵すると言われている。
それでも…
磨き上げられた技術。多くの死戦を掻い潜った経験。
そんなものは、種としてのステータスの差を埋めるに足り得ないのか。
セツナを上から見下す奴の赤黒い瞳は、まさしく悪魔そのものだった。
「悪魔…マルトルード…」
誰かがそう、呟いた。
仲間の仇を討つ為に食らいつくその気勢は削がれ、皆の腰が一歩引けたのを感じた。
セツナは刀を正中に構えたまま、獣と静かに距離を取る。
「俺が相手をする。撤退し、速やかに皆の避難を」
セツナがそう命令を下した時だった。
「ウワアアアアァァァァッ!!!」
奴を取り囲んでいたうちの一人が、刀をめちゃくちゃに振り回して獣に向かって行ったのだ。
まずい!!
場に緊張が走る。
「何をしている!!下がれッ!!」
「下がれるものか!!」
セツナが止めようとするも、男に聞く様子はない。一心不乱に獣に刀を振り下ろした。
「俺が殺らなきゃいけないんだ!」
獣の身体に何度も何度も刀を打ち付ける。
セツナの洗練された一閃を見た後だからか、お世辞にもまともな太刀筋とは言えない。
その斬撃が己が身体を傷つけ得るものではないと知ってか、獣がそれを避ける様子は一切無かった。
「お前に未来を奪われた、アイツらの代わりに!!」
…そうか。あの人は、前回の被害者の…
ここまで好き勝手に斬り付けられても、獣は微動だにしない。
「返せよ!俺の子供を!!」
刀と共に、彼の涙が宙に舞い、月光できらりと光った。
そのやるせない想いの篭った斬撃は、あたかも獣の心に働きかけているかのように見えた。
誰も動かなかった。
獣も、俺達も。
ただひたすらに、刀が獣の硬い皮膚に弾かれる鈍い音だけがその場を支配した。
しかしそれも、じきに終わる。
獣の顔が、奇妙な形に歪んだのだ。
まるでそれは、必死の抵抗を見せる弱者をいたぶるような。
残忍で無慈悲な、人の本性のような顔。
その紅い眼が、彼の眼をじっと見て、たしかに笑った。
「ヒッ」
純然たる暴力の前に、言葉や感情の付け入る隙などなかった。
かの悪魔のひと睨みで彼の戦意はいとも容易く削がれ落ち、手から刀が落ち、膝から崩れ落ちる。
怒りと悲しみで忘れていたはずの、死への恐怖が奥底から湧き上がった。
獣の笑った口角の端から、赤児の腕らしき物がボトッと落ちた。
しかし獣の注意は最早そちらにはない。
目の前で尻餅をつき哀れな子鹿の如く怯えている、新たな獲物へと移ったのだ。
「ヴィクティー!!クソっ!」
珍しくセツナが苦虫を噛み潰したような表情で、走る。
ヴィクティーと呼んだその男と獣の間に割って入り、刀を構えた。
獣の体が不意にゆらりと…ブレた。
奇しくもそれは、先程セツナが放った瞬歩の動きとよく似ていた。
音の速さで無数に放たれたのは、尻尾の横なぎ。夜の闇に紛れ、死角から放たれたはずのそれらに瞬時に刀を合わせて受け流していくものの、後ろに引けない為かかなり無理をしているように見えた。
そして…
「ぐッ」
一発、受け損なった。
ただの一発で、セツナは後方数メートル、否、数十メートル吹き飛ばされてしまう。
皆に動揺が走った。
セツナはこの村で、否この周辺の国で見ても間違いなく最強格の男だ。
そんな男がこうまで簡単に吹き飛ばされ、家屋の瓦礫に埋もれている。
“次は自分達だ”
心の支えを失った皆が、そう考えるのはごく自然な事だった。
その場にいる奴を囲んでいた男達が数歩、後ずさる。
焦り、恐怖、そして、生きたいという気持ち。
それは本能。忠義や練度に因らぬ、意図せぬもの。
どうすべきだ…?
俺は必死に頭を回転させた。
逃げ腰で戦えるようなぬるい相手じゃ無いぞ。
こうなったら、一目散に逃げるよう指示を出すべきか?いやしかし…逃げるってったって何処へ…
ヴィクティーの頬に血に塗れた唾液が滴り、垂れる。
獣は彼の目の前に居るにも関わらず、その反応を楽しんでいるように見えた。
生臭い息を直に吹きかけられ、静かに目を閉じた彼は言った。
「パパももうすぐ、そっち行くからな…お前らだけ寂しい想いはさせねぇからよ…。」
彼の頭に獣の顔が触れる。
ゆっくりとその赤黒い口を開き、飲み込もうとしたその瞬間。
「だめえぇぇぇええええ!!!」
俺の隣に居た筈のスーが、獣の前に立ち塞がっていた。
「「お嬢!?!?」」
激震。
決して前に出る筈のない御旗が、目の前に居る。
しかし獣にとって獲物が変わった事など些末な事。
一瞬動きが止まったものの、再びその顎門はゆっくりと開き、今度はスーへと向かって行った。
「あ…あぁ…」
きっと衝動的に出てきてしまったのだろう。
自分が何をしたのか。その結果どうなるのか。
彼女は獣の口腔をその眼で見て、初めて悟った。
こんなつもりじゃ無かった。まだやりたい事、やらなきゃいけない事、沢山あったのに…
「や…いやぁ…やめて…」
腰が抜けて動けないのか、身を捩って少しでも離れようとする。
俺はギリっと奥歯を噛み締めた。
あの獣の前にたち塞がれば、例外なく死ぬ。でも、スーを見捨てるわけには…
しかし、どうしようも無く脚が震えて、動けない。
命を捨てる覚悟が無ければ、動けるはずがないのだ。
何を突っ立っている。俺は…俺がやらなきゃいけない事は…なんだったんだよ…
「助けて…ー…」
名を呼ばれた気がした。
気のせいかもしれない。
それでも…
気付いたら、勝手に身体が動いていた。
近くに落ちていた木の棒を持って、奴の大きく開いた口の中に縦に打ち込む。
しかし今ならわかる。コイツはこんなもんで止まるようなそこらの獣とは違うと。
怯んだ刹那、奴の目を真っ直ぐ見た。残虐、愉悦、食欲、激烈。そして…知性。
心の底から、俺は吠えた。
「もう、やめてくれよッ!!!」
こんなものでどうこうなる筈は無い。
祈って済むならこんな事にはなっていない。
でも、もう俺には、祈る事以外何も出来なかった。
武の才を持たない人間が誰かを助ける為に出来ることなんて、ただ惨めったらしくお願いすることくらいなのだ。
しかし…
獣はその紅い眼をかっ開いてニ、三歩狼狽るように後ずさる。
そして…どういうわけか走ってその場から消えてしまった。
重苦しい重圧が晴れ、隠れていた太陽も安堵した様に、東の空が僅かに橙色に色づき始めた。
どうやら…乗り切ったみたいだな。
「…いったい…なんだってんだ。」
俺があまりにも情けないから食う気も失せたってか…?
待てよ、以前、俺が森で襲われた時も確か…
考えがまとまる前に、後ろに居たスーが胸に飛び込んでくる。
「怖かったよぉ…ほんと…怖かったんだから…」
「もう、大丈夫みたいですから。」
スーの背中をさする。
俺の言葉を皮切りに、周囲の男達がワァーっと一斉に沸いた。
「エーリさん!いや、兄貴!」
「兄貴は我等が狗鳴組の恩人だ!!」
「俺、兄貴に一生ついていきやす!」
え、ええ…?
俺がなんか特別な事したわけじゃ無いだろ…?
なんだろ…身に余る賞賛って背筋が痒くなるな。
「皆さんやめて下さい。僕は…その、ただビビってただけなんですから」
「俺なんて、びびって一歩も動けなかったよ!」
「兄貴は自信がたりねぇのがたまに傷だな」
「我等がお嬢をその命を賭して守り切ったんだ。もっと胸張って下さいよ。」
「でも…」
今晩の被害は一家全滅だ。
この一家が犠牲になってくれたお陰で大勢が死ぬ事は確かに避けられた。
しかし被害者は…
「…すまねぇ…また寂しい思いをさせちまって…パパは…パパは…」
声に出せないだけで、確かに存在するのだから。