始まりの日~あるいはなぜ人でなしの怪物はドリームマンになったのか~
「はい、アンパンあげる!」
薄汚れたボロ服を着た少年は、泥と土にまみれ、膝や肘を小傷まみれにした、自分と同じくらい小さな女の子が差し出したそれの意味が、理解できなかった。
ビニールに入ったアンパン――あんこが詰まった甘ぁい菓子パン、だが、少女はなぜそれを自分に与えようと言うのか? 彼の“感覚”は少女が飢えている事を察知している、彼女の身体は手にするアンパンを欲しているのだ。
なのに、なぜ――?
「いらないよ、君のだろ」
今、この場で最も飢えていない自分に恵みなど滑稽だと思いながら、少年は要らないと告げる。少女はアンパンを差し出すどころか押し付けてきた。
「でも、あなた、もうずっとなにももたべてないじゃない。えんりょなんていらないわよ」
ああ――少年はしくじりを悟る。
人間のような食事の要らない身体だからといって、目に見えるところで食事を取るフリ位はするべきだった。
本当の事を言うわけにはいかない、少年は少女に最初の嘘を付いた。
「大丈夫だよ、友達に食べ物を分けてもらってるから」
「うそよ。あなたずっとひとりだったし、だれかといるところもみたことないわ。ずっとヘリコプターと、おちてきたたべものをながめてるだけじゃない」
この子は僕をよく見ているんだなぁと、少年はぼんやり思う。
少女の言っていることは半分正しい、少年は先程行われた食料の配給を眺めこそすれ取りに行こうとはしなかった。
その必要が無かったこともあるし――何より、人間を眺める他にすることがないのだ。
我先にと、空から落とされた食い物に浅ましく群がる人間たちは、見ているだけで胃が重くなる。
子供を殴り飛ばして食べ物と水を奪う大人達、たった一つの菓子パンを巡って殴り合いを始める老若男女。誰もそれを止めはせず、倒れたものを助けようとはしない。
皆、自分が生きるだけで精一杯だから仕方がない。しかし、間違いなく醜い。
生きるために、貪る為に、他人を踏みにじるケダモノども。ヒトという悍ましい生き物。
そんなモノなんて見たくないのに、目を逸しても聞こえてしまうのだ。どこにいたって、嫌な声が飛んでくるのだ。
だから、わざわざ見に来ている。どこにいても逃れられないなら、間近で見たほうが楽しめるようになるかもしれないと思って。
けれども、どれだけ見ても嫌になるばかりで――もう、静かにさせてみようかと思い始めた時、少年はアンパンを差し出された。
「君の家族はそう思ってないかもしれないよ」
少女の顔が、くしゃりと歪んだ。
少年は己の愚かさを悔いる。家族がいるなら、そちらを優先させるに決まっているではないか。
「あたしのおとうさんとおかあさんは、ちょっとまえにしんじゃったの」
「そう……ごめん」
少女は深く俯いた、少年は少女の深い悲しみを感じ――その瞳に灯る炎を見た。
「だれもたすけてくれなかったの、あたし、みんなをよんだのよ。だれかたすけてって、けど、だれもきてくれなかったの。そのうちにおとうさんとおかあさんしんじゃったの」
その声を聞いたかも知れないと少年は思う。彼の耳は、少女と話しているこの瞬間も周囲の音を拾い続けているのだ。
誰かが助けを求める声も、怪物たちが世界の何処かで暴れる音も、迫り来る脅威も。ただ、一つ一つに耳を傾け、救おうとする意味が少年には無かっただけで。
「だから……あたしはきみにアンパンを分けてあげるのよ」
「お父さんとお母さんが死んだから?」
「うん、フクシュウするの」
少年が瞳の奥に見た炎――それは、怒りだった。
「おとうさんも、おかあさんも、だれからもたすけてもらえなかったの。だれも、たすけてくれなかったの……だから、あたしはたすけるの。そうしなかったら、おとうさんとおかあさんをころしたやつらとおなじになっちゃう、あたしはおまえたちとはちがうんだって、みんなにおしえるのよ。それが、あたしのフクシュウなの。せかいじゅうみんなにおしえてあげるの、それがあたしのユメなの。あなたは、さいしょのフクシュウあいてなのよ」
「ばっかみたい。やり返したらいいじゃないか」
少年は正直な感想を口にした。憎い相手と同じにならないために人間を助ける? 酷く馬鹿げている。
憎いならば、その闇に呑まれればいい、父と母を見殺しにした連中を一人一人探して仕返しをしてみるといい。ちょうど今、目の前にその一人がいる。
そう言ってやろうとしたが――その前に、少女は頭を振った。
「あたしのおとうさんとおかあさんは、ぜったいにイヤっていうの。さいごまで、あたしにみんなをゆるせっていったのよ。あたしはゆるさないけど……おとうさんとおかあさんをかなしませるようなフクシュウはしたくないの」
「なるほど、ねぇ」
「だから、アンパンをうけとってほしいな。おなか、すいてるんでしょ?」
空いてないからあっち行け――そう言おうとした少年は、思い留まる。
動機自体は馬鹿げている。だが、この場において少年を初めて助けようとした相手の、奪うのではなく、与えようとする意志である。
生まれてからずっと、人の業だけを眺めてきた少年が、初めて向けられた現実の“善”が彼女だった。
悲しみの中で生まれた、炎のような意思を持つ相手だった。少年は、生まれて初めて人間に優しくされた。
だから、少年は素直に微笑んだ。
「嫌だ」
「えっ」
少年は、少女に向かって手を差し出す。
「はんぶんこしよ」
少女は、太陽のような微笑みを浮かべて頷いた。
そして、少年はパンを受け取ろうと手を伸ばし――小蝿の羽音の程度にしか感じなかった脅威の存在を忘れていた事を、次の瞬間に思い出した。
――爆発音の後、大地が揺れた。何かが近くに落ちた、否、降りた時の音だ。
「な、なに!?」
少女の顔に走る怯え――問いかけながらも、脅威が来たのかは分かっている。解らないのは誰かだけだ。
異能犯罪者、侵略異星人、魔獣、怪人――呼び名は違えど、全て人智を超えた悪鬼共。世界を壊し続ける破壊者達。恐怖の象徴。
少年の聴覚は、既に先程食料をバラ撒いたヘリが撃墜されたことを感じ取っている。パイロット達が墜落前に死んだことも。
今降り立った輩が、人間の死臭を漂わせていることも。
漂う匂いは魔界のそれ――ならば、狙いは。
「ねぇ、逃げようよ。ここにいると、面倒くさいぜ」
少年の言葉通り、墜落地点から人間どもの悲鳴が聞こえ始めた。
爪で引き裂かれて、牙に貪られる不愉快な音達も。その一つ一つが鮮明に少年の耳を付く。
少女の耳には遠巻きにしか聞こえなかろうが、あの捕食速度を聞く限り、すぐにこちらに来るだろう。
今逃げ出せば、アレの腹が満ちる前に食われることは無いだろう。
だが、少女は首を振った。
「いや」
「なんで? 死ぬよ?」
「だれか、いきてるかもしれないの、いきてる人は、きっとたすけてってよんでるの」
「君に何ができるのさ」
「なにもしないのは、いやなの!」
少女は、アンパンを無理やり少年に押し付けた。
「あなたはにげて! アンパンは、あげるから!」
そして、少女は飢えた身体で悲鳴の元へと駆け出した――少年は呆れ返る。何という馬鹿だ。
少年ならばともかく、少女が動いてどうにかなる相手の筈がない。すぐにひき肉になってしまうだろう。
少年は、渡されたアンパンをじっと見つめる。少年にとって何の価値もない食べ物だ。
だが、しかし、曲がりなりにも自分を助けようとした相手を、ただ放って置くのは――後味が悪いと言 う言葉を少年は知らなかったが、とにかく嫌に思ったのだ。
少年は、溜息を付くと、少女の後を追い始めた。
少年の五感が捉えている“それ”は明らかに話が通じないタイプの災厄だった。
まるで、山羊のような角を生やした鬼――3mを超える体躯を持ち、銃弾はおろか砲弾すら通しそうにない分厚い筋肉の塊。背に生えた蝙蝠が如き翼も相まって、まさしく“悪魔”と形容するに相応しい異形だ。
その上、人間の血肉に塗れた口からはぐるぐるとしか唸りを漏らさない、日本語どころか魔界の言語を解するかも怪しい知性。
少女は間違いなく殺されるだろう――少女もそれは一目で理解する筈だ。その時、少女がどうするのか、少年には興味があった。
既に、悪魔が少女の眼の前に降りたのは感じ取れた、さぁ、あの子はどうするか。
それが見れる前に終わられたらつまらない――少年は少しだけ加速すると、全体を眺められる近くの廃ビルの一室に飛んだ。
遥か高みから見る光景――幸福なことに、少女はまだ生きていた。死肉と返り血にまみれ、次の食事に下卑た笑みを浮かべる悪魔の手で、数瞬後には奪われる命ではあるにしても、少女はそこにいた。
少女は、大きく声を張り上げて叫び始める。
「やめなさい! もう、やめなさい!」
悪魔は、少女の言葉を理解しているのか――少年は理解できなかった。あいつは何を言っているんだ。
絶対に通用しない言葉である。悪魔が意味を理解していたのなら、困惑するか爆笑するかの何れかであろう。
気でも狂っているのか――半ば呆れた少年は、いたたまれなくなって眼を逸らす。
その先には、こっそりと逃げ出す喰らわれ損ねた人間たちがいた。
あいつらは、あの子を囮にして逃げているのか――否。逆だ。少女が、囮になっているのだ。
決して通じない言葉でも、張り上げ続ければ悪魔気付く、その間だけでも人間たちは逃げられる。
無力なりの、全力。何もしないことを憎んだ少女の行動に、少年の何かが揺れた。
その直後に、世界が揺れる。悪魔の咆哮だ。少年からすれば微風にもならぬ轟音も、少女からしたら凄まじい衝撃と、恐怖だろう。しかし、少女は屈さなかった。
瞳に涙を浮かべながらも少女は、悪魔から目を逸らしていない。
だが、口は固く固く閉じられている――もう、やめろと叫ぶことは出来ないのだろう。開けば必ず悲鳴が漏れる、あるいは、助けてという祈りの言葉が。
ぎゅっと結ばれたあの子の唇の奥には、助けてという祈りが詰まっているのだろう。
しかし、少女はそれを叫ばなかった。少年は、少女の言葉を思い出す。
助けてと言って助けてくれない人間を少女は許さないと言った――だからといって、絶対に助からない状況に来たのは自分。
助けに行ったら自分も死ぬから助けに応えないという悪を、誰にも背負わせたくない。だから、少女は黙っているのだ。
だが、少年には、少女が必死に秘めている言葉が聞こえたのだ。
――助けて、と。
答える理由はない、馬鹿を嘲笑って見殺しにして何処かに去ればいい。
しかし、それをしたならば、少女が嫌う人間に――さらに言えば、それは少年が醜いと蔑んだ人そのものの所業。
少年は、そんな人間などと同じになることが耐えられなかった。
そして、今、動かなければ――少女の声が耳障りになったのか、拳を振り上げた悪魔が少女を潰すだろう。
――させるものか。
少年は、自らの奥底から“力”を身体に流し込む。
“力”を浴びた少年の肉体が、細胞のレベルで変質を始める。
より強く、強く、強く――増殖し、少年は、一瞬で青年となる。
身体に満ち、そして溢れた“力”――不可視の〈力場〉を身に纏うと、誰の眼にも捉えられぬ速度で飛翔した。
肉体が音の壁を突き破る衝撃は〈力場〉が緩和し、漏らさない。ソニックブーム無き音速飛行は、悪魔の拳よりも速い。
少女を庇うようにして立った青年は、迫る拳を容易く――ちょっとした荷物を支えるように、軽々と受け止めた。
「え……」
呆然とする少女の声を背に、青年は自分が唾棄すべき者共と同じにならなかった事に安堵すると、受け止めた拳を掴み、投げる。
人の居ない方目掛けて放り投げられた悪魔は、水切り石の如く跳ねながら飛んでいった。
これで死んでいればいいのだが――いない。悪魔は、怒りの籠もった唸り声を上げながら、今にもこちらに飛んできそうだ。
少年は少女に振り向くと、怖がらせないように出来る限り優しい笑みを浮かべた。
「ほら、早く行きな」
「あの、あなたは、一体……?」
戸惑いを浮かべた少女――無理もない、いきなり変な男が現れて悪魔を投げて逃げろと来た。
化物と叫んで逃げ出す賢さは、この少女にはないのだろうか?
そして、自分が何か――少年は、なんとなく浮かんだ答えを呟く。
「――正義の味方」
特別な信念が口にさせた答えではない、文字通り自分自身の正しさに従ったが故の行動だ。
少女はぼかんと青年を見つめている――底なしの馬鹿か? 悪魔はこちらに向かってきた。やむを得ない。
「失礼するよ」
「きゃっ!」
こうなった以上は、抱えたほうが守りやすい。
青年は、少女を左手で胸元に抱きかかえると素早く〈力場〉を伝播させる。この力は、接触対象にも纏わす事が可能だ。
そうでなければ、青年は全裸で少女の前に現れる事になっただろう。
上着は耐えられずに破れ飛んだが、下半身は拾ったぶかぶかのジーンズを履いていた事が幸いし、〈力場〉の加護もあって丈が犠牲になるだけで済んだ。
「危ないから、じっとしててね」
「は、はい……」
少女は青年にぎゅっと抱きつく。人間の温もりを、青年は初めて温かいと感じた。
そして、迫る悪魔を見据える――青年は、右拳に纏う〈力場〉を弱めた。
〈力場〉の強度は凄まじいが、その本質は外から内をではなく、内から外を守るもの。膂力そのものは変わらずとも、出せる威力は〈力場〉を弱めたほうが上がる。
既に、周囲の人間たちは逃げ出した――多少の余波は問題あるまい。
青年は、咆哮を上げながら迫る悪魔目掛けて、アンダースローを投げるように拳を構え――悪魔が爪を振り下ろそうとする瞬間に合わせ、アッパーカット気味に拳を叩き込んだ。
空高く――成層圏にまで殴り飛んだ悪魔。青年は目を疑った、血反吐を撒き散らしながらも、まだ生きている。凄まじいタフネスだ。
その上、逃げ出そうとせず、遥か彼方で体勢を整え、またしてもこちらに飛んでくる――埒が明かない。
悪魔を仕留めるまで順々に〈力場〉を弱めるわけにもいかない。青年は飛び道具を使うことにした。
青年は、自らの奥底にある“力”の出口を眼に作り始める。
この“力”を操れるようになった青年は、“力”は身体に満たすだけではなく、外に放つことも出来る事を知った。その威力の程も。
悪魔に手を向ける様なことはしない、少年はその手の射撃モドキは大の苦手だ。ただ、じっとその眼で悪魔を見据えて狙いを定めるだけだ。
そして――青年の眼が赤く輝いた瞬間、“力”が溢れた。
外に出た力は、志向性を持った熱エネルギー。熱視線と化した少年の“力”が、悪魔の胸元を貫いた。
触れた全てを焼き貫く“力”に射抜かれた悪魔は、尚も生存していたが――それを見た青年が熱視線の範囲を広げたことで全身を赤い輝きに飲み込まれ――塵も残さずに消滅した。
「はい、おしまい」
悪魔を焼却し、吐瀉物も落下中に焼いた青年は淡々とそう言って、少女をそっと地面に下ろす。
少女はぼかんと青年を見つめていたが、すぐに頭を下げた。
「あ、あ……ありがとう! たすけてくれてありがとう! 」
「お礼なんていらないよ」
自分の為にしたことであるし、礼を言われる資格は多分自分にはない。聞こうと思えば聞けた声を聞かず、彼は少女の親を見殺しにしたも同然なのだ。
そんな青年の気持ちなど知りもせず、少女はひたすらに礼を言い続ける。
「あたし、あなたみたいなひとがいるなんて思わなかった。そんなすごいちからで人をたすけてくれるような人がいるなんておもわなかった、いたのかもしれないけど、あったことなくて、あたし……ユメをみてるみたいで……」
興奮と歓喜で顔をグチャグチャにする少女――青年は少女の目元まで屈むと、その肩を掴んで首を振った。
「僕は、そんな人じゃないよ。僕は君のお父さんとお母さんを助けなかったんだ」
「……え?」
どうして、あたしの両親の事を? と少女に浮かぶ疑問――青年は、知らず、悲しげに微笑む。
「でも、君のお蔭で僕はそういう人間が大嫌いだって初めて自分で気づけたし、自分がもっとそんな人間に近付くことも止められた――お礼を言うのは、僕の方だ」
「あの、いったい、なんで……?」
「一つ約束しよう――君の復讐の味方をする。僕は、あいつらとは違うんだって、世界にどうにか証明してやる。君も、君の復讐を貫いてくれ」
そして、青年は立ち上がり――少女の眼には止まらぬ速度で廃ビルに戻り、忘れ物を取ってきた。
「これは、君に返すよ。やっぱり、君が食べてくれ」
青年は少女に手渡されたアンパンを、少女の手元に押し付ける――少女の目が見開かれた。
「あなた…!? え? え!? あなた、いったい……」
混乱する少女に、青年はいたずらっぽく微笑みかける。
「ドリームマン、君の見た夢、夢を叶える人さ。君がくれた、僕の正義の名前だよ」
そうして少年は飛び去った――少女から離れ、高く高く遠くに。自らが違う事を照明するための旅路へと。
全ての始まりです
以後は一話完結を目標に、のんびり書いて投稿していこうと思います